卒業 1

「…………」

 夜の道をマイクロバスが走っていく。道が悪いのか、ガタガタと左右に揺れている。ゆりかごのような心地よさが、普段ならば眠気を誘うのだが、今日だけは違った。

 興奮している。

 自分でそう感じる。

 とてつもない高揚感、開放感、心の昂り。

 それは他のものも同様のようだった。運転している教官に気を使いながらも、小さな声で歓談している。

「そろそろ着きそうだよ!」

 柊が耳元で囁く。その声はやはり興奮しているようだった。

 長かった。

 ここまで本当に長かった。

 あれからもう十ヶ月になる。

 初めは朝の訓練だけで一日の体力を使い果たしていたような状態だったのが、警備訓練、強化訓練、夜行訓練と過酷な訓練を乗り切れるだけの力もついた。決して優秀とは言えなかったけれど、どうにかここまでやってきたのだ。

 望んできた場所ではなかったが、最後まで成し遂げられたという達成感は単純に嬉しかった。

 少しだけ、涙が滲む。

 何だか高校球児たちの気持ちがようやく分かった気がした。テレビで見る彼らがどうして涙を流しているのか、長年の疑問だったのだけど、それは全力で取り組んだ証だったのだ。負けたら悔しくて涙が出るし、勝ったら嬉しくて泣く。当たり前の感情だ。

「着いたぞ」

 西村教官の声。車が停車したのはとあるアパートの駐車場だった。

「今日からここがお前らの住むところだ。先輩もいるからあんまり騒ぐんじゃねぇぞ」

「はい!」

 全力の、期待に満ちた返事だった。学校内とは全く違う、ネガティヴな感情が入り込む余地のない声色だった。

 バスから次々と荷物が運び出される。とりあえずは玄関先にダンボールを積んでいく。学校の寮に持ち込めるものは限りがあったから、荷物はほとんど無かった。

「うし。そしたら名前を呼ばれたやつから順番に鍵を取りに来るように。青山!」

「はい!」

 西村教官が鍵を手渡していく。解放の鍵。自由への鍵。地獄から解放される鍵。

「森田」

「はい!」

 教官の元へと駆け寄る。シンプルな鍵だったが、カズキにはそれがとてつもない輝きを放っているように見えた。

 西村教官は渋い顔をしている。カズキとは因縁深い教官だった。カズキに対して最も厳しかったのがこの西村だったのだ。入学から今日まで厳しい御指導御鞭撻してくださった、ある意味恩人である。

 そもそも西村教官と出会った時の第一声が、

「俺は不適合者には容赦しない。必ずふるい落す。警察の質が落ちたと思われないようにな」である。その指導内容は察せられるだろう。

 だから。

「卒業おめでとう」

 だから不意を突かれた。

 まさかこの人からこんな言葉が出て来るなんて。胸から込み上げて来るものを、カズキは必死に押さえ込んだ。これがカズキからできる唯一のご恩返しである。

「あんまり迷惑かけんなよ」

 言葉少なく西村はバスに乗り込み、振り返ることもなく走り去っていった。巡査見習い改め巡査たちは、車影が見えなくなるまで深々とお辞儀をしていた。

「……卒業」

 一人がポツリと呟いて、それからみんなわなわなと肩を震わせる。

「卒業だ!!」

 警察帽を宙に投げ出して一斉に沸く。

「やった! やった!」

「自由だ! 俺たちは自由だ!」

「外っス! 一人暮らしっス!」

 各々喜びを発露する。今日からもううるさい教官も消灯時間も、深夜の抜き打ち検査も、早朝の訓練もないのだ!

「とりあえず各自荷物を運び込め! それが終わったら玄関に集合! 飯食い行くぞ!」

 鎌島が音頭をとる。銀英市に赴任した新米警察官の中で一番年上の三十歳で、学校内でも副総代だった男だ。普段は寡黙な彼も、この日ばかりはテンションが高いようだった。

「よし、運べー!」

 公平がいち早く荷物に飛びかかった。今の彼の頭の中はもう晩飯のことでいっぱいだろう。他の者も早く飯が食いたいと小走りで荷物を運んで行く。

 カズキもダンボールを持ち上げ、階を上がっていく。日常品は殆どなかったから、貸与された制服を含め、ダンボールは二つしかなかった。

 二○三の部屋の前に立つ。これがカズキの部屋だ。

 初めての一人暮らし!

 寮内では四人で部屋を使っていたから、一人で住むという体験が初めてだった。少しの緊張と、大きな期待感を胸に、扉の鍵を開ける。

 そこは小さなリビングが一つ、キッチンとトイレと風呂があった。

「ここが、今日から俺の家!」

 これでテンションが上がらないのは嘘だ。一国一城の主、とは程遠い部屋ではあるが、それでも気分はまさにそれだった。

 ダダダダッ、と階段を駆け下りる音。すごい勢いで走ってくる人がいた。

「カズキ! 早く行こうぜ!」

「公平、まあ落ち着け。とりあえずこの感慨に浸る時間をもう少しだけ」

「バッカ、飯の方が大事だろ!」

「そうっスよ! カズキさんはやく行きましょう!」

 後ろからは石原がひょっこり顔を出している。この食い意地兄弟は。と思ったものの。

 ぐう、とカズキの腹が鳴る。身体は正直だった。

「焼肉ですって!」

 いつの間にやら小倉も合流している。彼も随分明るくなった。天音教官と離れるのが辛いと泣いていたのが、今ではけろっとしている。

「焼肉!」

 三人の声が重なった。学校では栄養バランスを考えられたメニューで、そんな豪勢なものは出てこなかった。それはとてつもなく有り難いことなのだが。

「焼肉! 焼肉! 焼肉!」

 今日は特別な日だ。それこそ焼肉三唱が出るくらいに。

「酒! 飲まずにはいられない!」

「俺も!」

「ズルイ! 俺も飲みたいっス!」

「ダーメ! これは二十歳組の特権なんだよ!」

「えー!」

 ブーたれる石原。いや、さすがに特別な日だといっても法律違反は駄目だろ、警察官。

  玄関の前には既に皆が集まっていた。皆自然と笑みがこぼれ、卒業の喜びをかみしめているようだった。

「あと来てないのは……」

「柊さんです」

「まあ、女性だからなあ。時間がかかるのはしょうがない」

「俺、手伝ってこようかな」

 カズキの言葉に鎌島が慌てて止める。

「いや、そういう意味じゃなくて」

 すると階段の向こうから人影が降りてくる。

 ブルーのスキニージーンズに白いブラウス。軽く化粧をしているのか、いつもとは違う、少し大人びた顔をしていた。

 柊の私服を見るのは初めてだった。

 心臓がドキドキして止まない。至福の瞬間だ。

「お待たせしました」

「あ、ああ、大丈夫! 全然待ってないから!」

「そう? よかったぁ」

 顔を上げられない。まともに顔が見られない。この高まる鼓動が漏れ聞こえないか心配になるくらいだった。

「焼肉! 焼肉! 焼肉!」

 鳴り止まない焼肉コール。早く肉にありつきたいという男どもの執念が垣間見える。

 こいつらときたら。

 服装はいつものジャージ姿のむさい男ども。カズキも他人のことは言えなかったが、そこは棚に上げて思う。

「なんかワクワクするね!」

「う、うん! めちゃくちゃ楽しみ!」

「ようやく一歩前進したね。これからも一緒に頑張ろう! 公平君も!」

「ん? おお、頑張るぞ! とりあえず十人前食ってやる!」

「じゃなくてな……」

「あはは! ブレないなぁ、公平くん」

 ワーギャー騒いでいるともう店の前に着いた。食べ放題の安い焼肉屋だったが、それでも最高の夜を演出するには十分すぎた。

「カルビ追加五人前!」

「ごはんおかわりお願いっス!」

 特に食欲兄弟の勢いは凄まじく、軽く人の三倍は食べているように見える。

「うめぇ!」

「うんまぁ!」

 味わっているようには到底思えないスピードで肉が減っていく。他の者も食い尽くされまいと肉を食うのに必死になっていた。

 カズキはというと。

「ビールってどんな味なんですか?」

「にがい……」

 小倉は興味津々にカズキの動向を見守っていた。

 しかしカズキはお祝いにと頼んだビールに悪戦苦闘しているのである。

 なんだこの只々苦いだけの飲み物は。舌がおかしくなりそうだ。

 しかもアルコールに弱い体質だったのか、一口飲んだだけで顔は既に真っ赤である。頭がポーッとしてきて視界がグラつく。

「大丈夫?」

 柊の心配げな声。彼女の近くのテーブルにはジョッキが三杯。他にお酒のビンが二本転がっている有様である。魔王、というラベルが見える。

「大丈夫! 多分こっちなら!」

 ビールは苦くて飲めないけれど、あんな水みたいなやつなら余裕だろ!

「あ、それは!」

 柊の制止も虚しく、カズキは小さなグラスに注がれたそれをぐいっと呷る。

 ふんわりと甘い香りが鼻に広がる。あ、美味しいかも、なんて思った瞬間。

「うっ!」

 黙ってトイレに走り出した。

「公平さん!?」

「日本酒は度数が高いからやめといたほうがいいよ……」

 ケロっとした顔でグラスを呷る彼女は、まごう事なき酒豪であった。

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