携帯電話

 時代は再び二十一世紀の冬へ戻る。ツヨシが出張から戻ってきた日のこと。


「ただいま……あー寒い」

 とツヨシ。

「おかえりなさい。出張はどうだった?」

 妻のエリはキッチンで夕食の準備をしながら、帰宅したツヨシの顔も見ずに話しかけた。

「うん、予定通り、無事、終わったよ。特に問題無し」

 ツヨシも特にエリの顔を見るわけでもなかった。

「そうなんだ、お疲れ様」


 二人は新婚当時とは違い、会話はそれ以上続かなかった。決して仲が悪いわけではなく、それはお互いに心地よい、適度な距離感だった。彼らは結婚して三年目を迎えていたが、いわゆる倦怠期というのも何か違う気がする……確かに付き合い始めた頃のアツアツカップルではなかった。しかし、アツアツのコーヒーをそのまま飲むと火傷するし美味しくもないが、少し冷めた方がむしろ旨味を感じる、そんな感じかも知れない。少なくともツヨシはそう思っていた……あの瞬間までは……。


 暖かい食事の用意ができて二人は食卓に着いたが、彼らは、別段、お互いの顔を見るでもなく、料理とテレビの画面とビールの入ったグラスを順繰りに見ながら、黙ったまま、そして時々テレビ番組に突っ込みを入れながら、夕食を取っていた。


「あ、そうだ。エリ、昨日の晩ご飯はどうしたの? 一人じゃ、寂しかったんじゃない?」

 テレビ番組がCMに入ると、ツヨシはやっと会話らしい会話を始めた。

「それがね、アユミちゃんがさ……ほら、学生時代の友だちで、結婚式にも来てくれた、あの子。彼女、仕事でこっちに来てたから、一緒に食べに行ったの。彼女、結構稼いでるから、おごってもらっちゃった。で、ツヨシは?」

 エリもやっと会話に乗って来た。

「アユミちゃんか、懐かしいなあ……彼女、すごく面白い子だったよね……ああ、オレは一人で食べたよ……いやいや、別に寂しいとか、そんなんじゃないよ。慣れてるし」

「へえ、そうなんだ。どこで?」

「居酒屋だよ」

「ああ、男の人って、割と普通に一人で居酒屋さんへ行くわよね」

「そうそう、気楽だし、案外お一人様も居心地いいもんだよ」


「ふーん。それで?」

 少し、エリの声のトーンが変わった。

「それで、って……?」

 ツヨシは一抹の不安に駆られた。

「あ、分かりにくかった? じゃあもう少し詳しく言いますね。はい、あなたは一人で居酒屋へ行きました。ごはん食べました。お酒も飲みました。お腹いっぱい、ごちそうさまでした。ただいま時刻は夜の八時です。では、ホテルへ帰っておやすみなさい……って、そんなはずは、ないわよね?」

 エリは子供に諭すような口調で言った。

「そりゃまあ、そうだよな。まだ子供の寝る時間じゃないか」

 そうやって口を尖らせるツヨシは、少々、子供じみていたようだが。


「で、その後は、また、女性のいるお店にでも行ったんじゃないの?」

 エリが、ニヤニヤしながら、意地悪く言う。

「また、だなんて、人聞きの悪い。そんな店には行ったことないよ」

 これは嘘だった。本当は、接待でたまに利用する、行きつけのキャバクラやスナックがあるのだが、妻には秘密にしていた。仕事とはいえ、説明するとなると色々面倒なので……。

「雰囲気のいいショットバーを見つけたので、そこで、まったりとね」

「ふーん……そうなんだ……」

 エリの笑顔は消え、目を細めて遠くを見た。何かを見透かすような、その目……


「お洒落な店だったの?」

「まあね……」

「どんな感じ? たとえば、若い女性が一人で飲んでいても、絵になるような?」

「えっ……そ……そうだね、そんな感じ」

「まさか、その人と意気投合したりして!?」

「……」

「なんで黙ってるの……? まさか……」

「い……いや、違うよ……」

 エリはツヨシの目を真正面から見つめた。ツヨシはまるで蛇に睨まれた蛙。ガマの油のような汗が出てきた。

「……なんかあったのね?」


 エリの勘の鋭さは、恐ろしい。改めて思うツヨシであった。彼が黙秘権を行使しようとすると、証拠物件として携帯電話を取り上げられた。当時はまだガラケーで、スマートフォンではなかったようにツヨシは記憶している。


 ところが、エリが携帯電話を突き返してこう言った。

「ちょっとこれ、ロック掛かってるじゃない。解除しなさいよ」

 強い口調で、そう命じるエリ。彼の選択肢は残されていなかった。パソコンの画面でいうと、ポップアップメニューが出てきて、こんな感じ。


 『暗証番号を入力してロックを解除しますか?』

 『はい』


 そう、今の彼に『いいえ』の選択肢など、ないのだった。


 そして数分後、エリは激怒した。爆発と言ってもいい。ロックが解除された携帯電話からは、同じ電話番号の着信履歴、発信履歴、そして、ハートマークだらけのメールが、幾つも幾つも出てきたからだ。

「なんなの、このバカップルみたいな、ラブラブメール……それに『リサちゃん』って誰よ!?」



 ***



 エリが激怒した、数日後のこと。夕食後に自宅でくつろいでいると……いや、ツヨシはまだ、そんな気分にはなれなかったが、まあそんなフリを装っていると、エリが突然告白した。


「わたし、あの人に電話してみたわ」

 しかしその表情からは怒りなど全く見て取れず、それどころか、何かを達観したかのような、平穏なものであった。それが逆にツヨシには恐怖だった。ツヨシは全身の毛が逆立つのを覚えた。

「あの人って……?」

 そう、『あの人』と言えば、もう、例のリサしかいない。


「あなたの携帯の通話履歴から、電話してみたの」

 そう平然と言ってのけるエリにツヨシはおののいた。

「な……なんてことを……」

「よく人のことが言えるわね。お互い様よ」

 エリは、こともなげに続けた。

「それでさ、『あなたの浮気相手の妻ですけど、詳しく、お話聞かせてもらえませんか?』って言われて、普通『はいそうですか、なんでしょう?』とかって、言う?」

「彼女、度胸あるな……」

 ツヨシはそう言ったが「よく人のことが言えるね」とは、さすがに言えなかった。


「そう、度胸はあるし、でも話してみたら、素直で、賢くて、優しそうで、とってもいい子だった。わたし、話をしてるだけで、彼女の事が好きになった……あなたが惚れたのも無理ないわ」

「うん、そうそう、そうなんだよねー」

 エリはツヨシを「キッ」と睨みつけた。ツヨシは縮み上がった。

「それに、あなた、彼女に嘘をついて、独身だとか言ってたそうね……彼女、本当の事を知って、泣いてたわ。あんな純粋な人を騙すなんて、最低ね。彼女も同じ事を言ってた」


 妻に見切りをつけられた最低男は、それが原因で離婚することになった。

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