指輪
話は一旦、二十一世紀に戻る。
ツヨシは当時、妻のエリと二人暮らしをしており、結婚三年目だった。彼は仕事のため、泊りがけで、ある街に出張で来ていた。
「ううう……寒いなあ。腹は一杯になったし、熱燗も飲んだが、こう寒くては、酔いが覚めてしまう……夜はまだ早いし、明日は帰るだけだ。もう一杯行くとするか」
それは寒い冬の、ある金曜日の晩だった。今、彼が一人で歩いているのは、自宅から遠く離れた街。夕方には客先の工場で作業を終えていたのだが、そこから自宅までは、電車も飛行機も便が悪く、その日のうちに帰宅出来ないので、ビジネスホテルを予約していたのだ。しかし寝るにはまだ早過ぎる時間だし、かといってホテルでテレビを見て過ごすのも味気ない、ということで、彼は少々時間を持て余していたのだ。
初めて訪れる街ではあったが、飲み歩くのが好きな彼は、彼なりの「嗅覚」を持っており、見知らぬ街でも、本能的に良い店を探し当てる自信はあった。
「あ、この店が良さそうだ」
早速、彼のセンサーが雰囲気の良さそうなバーをキャッチした。黒くペイントされた、ごつい鉄製の取手をぐっと手前に引き、大きくて重たい木の扉を開けると、ドアベルがカランコロンと鳴った。
「いらっしゃいませ」
バーのマスターは、良く通るが大き過ぎない上品な低い声で彼を出迎えた。この店は当たりだな……彼は直感的にそう思った。マスターの好感度もさることながら、店の内装も、彼の好きな、落ち着いたシックな雰囲気だった。そして薄暗い店内に入ると、まだ時間が少し早いせいか、店は空いており、カウンターに若い女性客が一人いるだけだった。
「こちらへどうぞ」
マスターは、その女性客から少し離れた席に、コースターと、水の入ったグラスを置いた。
ツヨシは黙って座るのもなんなので、その女性客に軽く会釈しながら席に着いた。彼女も、にこやかに会釈を返した。素敵な女性だなと彼は思った。
マスターから熱いおしぼりを受け取り、ウイスキーを注文してしまうと、静かな店内に聞こえるのは、静かなジャズのBGMと、マスターが優雅な手つきで氷の角を取る作業の音だけ。カウンターにはキャンドルが幾つか並べてあり、薄暗い店内を、そして二人の顔を、ゆらゆらと、暖かく、照らしていた。
「あの……お一人ですか?」
狭い店内に客が二人いて、ただ、黙っているのも、何か気まずいので、彼はその女性に話しかけた。最初は適当な世間話をするだけのつもりだった。
「ええ。あなたもお一人?」
女性は、やっと話し相手が見つかったというように、目を輝かせた。
清楚な風貌から、大人しい女性かと思っていたが、いざ話をしてみると、意外と気さくな人だった。彼女はリサという名前で、どうやら全国を、そして時には世界中を回り、フリーライターみたいな仕事をしてるらしく、今日はたまたまこの街に来ていたそうだ。そして会話は弾み、二人とも、ついつい酒が進み、何杯もおかわりをした。気づくと隣同士の席に座っていたのだが、はて、どちらから近づいたのだろうか?
「その指輪、素敵だね」
二人とも、いつの間にか、ほど良く酔っぱらい、いい気分になった頃、ツヨシはグラスを傾けるリサの手元にキラリと光る指輪に気付いた。
「これ、ウミガメがモチーフになってるの」リサは指を伸ばしてその指輪がよく見えるようにした「ほら、ここに彫られている、この模様がそう」
確かに、その銀色の指輪の表面には、象形文字のような模様が彫られていて、言われてみれば確かにウミガメのように見えた。そのウミガメは指輪をぐるりと一周するように等間隔に彫られていた。
「ウミガメってね、神様の使いで、幸運を運んでくるんだって」
彼女は嬉しそうに説明してくれた。
「確かに、ここが頭で、これがヒレだね。しかし、この指輪、すごく綺麗だ……」
ツヨシはリサの手を取り、まじまじとその指輪を見た。それは
「ふーん……男の人って、こんな風にして、女性の手を握るんだ?」
リサは、にやにやしながら、意地悪く言った。
「うっ、なんでバレたんだろう……いやいやそんなことないよ」
そういうツヨシも、まだ手を握ったままだ。
「でも、いつも、そうやって女性を口説いてるんでしょう?」
そう言いつつ、リサもまんざらではないような。
「……そうか、ばれちゃ、しょうがねえな……その通りさ、いつもこうやってオレは女性を口説くんだ。悪いか? ……って、こんな感じで……良かった?」
ツヨシも最後の方は笑いを堪えながらだった。
「そうねえ……とりあえず合格ラインだわ」
そんなリサもムフフと含み笑い。ツヨシはそんな彼女をますます好きになった。
「ところでツヨシさんって、結婚してるの?」
リサは突然尋ねた。
「……あ、いや、独身だよ」
咄嗟に出た嘘だった。彼は普段、結婚指輪をしておらず、それは自宅のタンスの引出しに眠っていたから、見た目では、結婚しているかどうか分からない。だから本人が独身だと言えば、とりあえずそれを信じるしか無い。
だがしかし、彼は、言ってから、心のどこかで後悔していた……。だがもう言ってしまった後でそれは撤回できない。自分が結婚しているかどうか、普通であれば間違えるはずも無いのだから。
結果がどうあれ、彼は騙すつもりはなかった。ただ、その場の雰囲気に流され、つい口が滑ってしまった……そして何より、せっかく掴みかけたリサの心を、どうにかつなぎ止めておきたいと思っていた。そう、彼はリサに夢中だった。
「そうなんだ……彼女もいないの?」
リサが更に尋ねる。
「いないよ」
ツヨシは、今度は正直にそう言った。確かに妻の他に愛人がいるわけではないので、それは本当の事だったのだが、ここで、恋人がいると嘘をついておけば、もしかすると後戻りできたのかも知れない。だがその瞬間、彼は
「わたしも、ひとりなの」
リサは微笑み、ツヨシをまっすぐに見つめてそう言った。
ツヨシは、リサが自分に恋をしていると、その時はっきり確信した。もちろん自分自身も……。彼は一人でこの街に来ている。明日は休みだし、あとは帰るだけだから、朝は慌てて早起きする必要もない。そうなると……。
「カランコロン」
突然、ドアベルの音と共に、スーツ姿の騒がしいグループが入ってきた。結構酔っぱらっているようで、声が大きい。どうやらどこかで宴会を終えて、二次会でこの店に流れてきたらしい。彼らはカウンターの後ろのテーブル席に陣取り、ガヤガヤと、とりとめのない会話を始めた。
「なんだか、にぎやかになってきたね」
とツヨシ。
「そうね。ここじゃなくて、スナックにでも行けば良いのに」
リサも、こう見えてなかなか、はっきりモノを言う。
数分後。テーブル席は相変わらず盛り上がっている。どうもそっちの会話が気になって、リサとツヨシは話に身が入らなくなってきた。課長の武勇伝とか、事業部長より偉いお局様の話とか、ついつい聞き耳を立ててしまう。
「なんか落ち着かないなあ。もっと静かなところで、ゆっくり話したいよ」
ツヨシはそろそろ、うるさい客にうんざりしてきた。
「わたしもよ」
リサも同じ気持ちだったようだ。
「じゃあ、店を出ようか」
「そうね」
「マスター、お会計お願いします……あ、ここはオレが払うから」
「え、本当に? ありがとう。ごちそうさまです」
店を出ると、二人は連れ立って夜の繁華街を歩く。若干、足元がおぼつかないリサを紳士的にエスコートするツヨシ。そうするうちに、いつしか腕をつないでいた二人は、すっかり恋人気分。
「さて、リサちゃん、次はどこへ行こう?」
ツヨシは尋ねた。その息は白かった。
「うーん、どこへ行こうかなあ?」
リサの息も白かった。
「ところでリサちゃんは、どこへ泊まってるの?」
「わたし、こっちへ来たばかりで、まだ、泊まる所は決めてないの」
「オレもだよ」
これも嘘だった。さっきの嘘に比べたらちっぽけなもんだが。まあ、ビジネスホテルはあとでキャンセルすればいい。
そして、次の言葉を選ぶまでの沈黙。たったの数秒だが、ツヨシには、それが、なんと長く感じられたことか。そして、初恋の相手に告白したときの、あのドキドキを思い出していた。口から心臓が出そうだった。
「……じゃあ、一緒に……」
ツヨシは心臓が口から飛び出ませんようにと祈りながら、そう言った。
「……え?」
今度は、ドキドキするのはリサの番だった。
「二人で一緒に泊まろうか?」
ツヨシはささやくように言った。大丈夫、心臓は飛び出さなかった。
「……うん」
リサは殆ど聞こえないぐらいの声で言い、そしてうなづいた。
「君と出会えて嬉しいよ」
ツヨシはリサの手をしっかりと握った。
「わたしも」
リサの手にも、力がこもった。
不意に、二人の恋を祝福するかのごとく、雪の結晶が、はらり、はらりと、舞うように降ってきた。
「あ! 雪が降ってきた」
リサは何か物珍しそうにしていた。まるで生まれて初めて雪を見たかのように。
「寒くない?」
ツヨシはリサを気遣った。
「ううん、大丈夫」
そして二人は繁華街を離れ、街からほど近い温泉地へと消えていった……。雪はやがて、二人の秘密を白いベールに包み隠そうと、本格的に降り始め、いつしか、あたり一面を覆い尽くしていった。しんしんと寒い、冬の夜のことだった。
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