第3話 愚かなり、我が恋


 週末でもありGin and Limeは混んでいた。

 先に来ていたトンチは、まるで遭難者がようやく訪れた救助隊に対して必死に存在アピールをしているかのごとていでデイリンを呼びよせている。


 この上なく嬉しそうにデイリンの迅速な到着をうながす姿は、デイリンの実家で飼っている柴犬のアレキサンドロスに若干似ている。

 つぶらな瞳で遠くからデイリンを見つけると、その場でグルグル廻ったり、デイリンに向けて吼えながら尻尾をブンブンと振り回す光景がトンチの行動と重なって見えた。


「普通こういう時に両手挙げて呼ぶかぁ?… しかも中腰になって大声出して。痛えなあ…」


 第三者には絶対に聴き取れない程の呟きで唯一無二の真友を非難した。たとえ小声ではあっても口に出さずにはいられなかったのだ。


 トンチの近くに座っている“シュッ”とした感じの女性がトンチの様子を見て失笑していた。


 健康的な笑顔がチャーミングな女性だ。

 髪型は前髪を流した黒髪のショートカットで、笑顔と揺れながらキラキラ光るペンダントイヤリングがやたらと気をく。


 デイリンの好みの的のど真ん中を1ミクロンの誤差も無く射抜いていた。「垢抜けた」という表現はこういう女性の為にあるような言葉だとデイリンは思った。


「トンチ、どんだけアピールすんねん。狭い店だからすぐ分かるっちゅーねん。恥ずかしいやんか。しかもなんやねんその服、かなんなぁ」


「ええでしょ? 今一番のお気に入りなんや。ヘビーローテションでおます」


 デイリンは「おます」っというトンチの言い回しがかんに触り腹が立った。好みのタイプの女性がトンチを見て失笑していたことも手伝い怒り倍増だった。自分はその “失笑のまと” の真友であるデイリンもじゃないにせよ “失笑の的” の中に入っている気がしたからだ。


 着ている長袖Tシャツの前面にデカデカとプリントされているのは、くまのプーさんの横にいつも張り付いているピグレットというピンクの豚である。出来るなら蒼か黒で塗りつぶしてやりたいとデイリンは本気で思った。


 この前一緒に浅草に行った時は、犬をモチーフにしたディズニーキャラの「グーフィー」がサングラスをかけ敬礼している絵柄がプリントされたTシャツの上にパーカーを羽織っていた。

 おまけにパーカーのフードには耳らしきものが付いており、よく見ると袖口には何かのキャラのワッペンらしきものも見えた。

 究極的にはカブリモノに辿り着くのでは無いかとデイリンは真剣に心配になった。


 トンチとは半年程所属していた連合「魁!オカマ塾」で知りあった。出会って彼此2年半になる。

 デイリンが次の連合である「具志堅陽子隊」に移籍をした時一緒についてきた。更に「赤い水性ペン」に移籍した時もついてきたので通算3連合を共にしてきた。雲外蒼天に一緒に移籍すれば4連合を一緒に渡り歩るくことになる。


 これだけ長い間一緒に居れば多少の軋轢あつれきやギクシャクが生じても仕方ないなと思う面も無くは無い。

 長年連れ添った夫婦かベテランの漫才コンビもきっと同じ課題を抱えているだろうとデイリンは勝手な推測を働かせた。


 最初に出会った「魁!オカマ塾」に居た時も、トンチはいつも一夜城と助太刀をセットしていた。

 盟主と軍師が優しかったので放任されていたが、追い込み局面で勝手に助太刀を放り込んでくるのでメンバーは皆んな閉口へいこうしていた。

 トンチの助太刀が原因で高戦力メンバーの1人が憤慨ふんがいして連合を出て行った事があるが当然の帰結きけつだった。


 トンチは出て行ったメンバーの事を「ちょっと我儘わがままだよね」と平然とのたまい周囲をてつかせた。


 ある時「優しさの塊」と言っても過言ではないほど気の長い「魁!オカマ塾」の盟主が見かねてトンチに注意をしたことがあった。


「あのね、トンチさん、言いにくいんだけど奥義入れるのは軍師の指示に従ってくれると有難ありがいです。あと、せっかく孔明とか兵法とか良い奥義持ってるんだから、それをセットしたらどうかな?」


 盟主は的確に、そしてマイルドに問題点をトンチに指摘しトンチの反応をうかがった。


「ケンちゃんさん、僕、一夜城と助太刀と籠城策に数珠と勾玉使ってもうてん。あと幸楽にも。今、一夜城は25、助太刀は26、籠城策は…21か2だったと思う。もう後に引けへんのやわ。せやからヨッシーが指示出しする時にはこれらの奥義を考慮して組み立ててもらったらええんちゃうかな……」


 完全なる軽挙妄動けいきょもうどうな発言だった。勇気を持って助言をしてくれている盟主の真意も測ることもせず、一方的に理不尽な論理を振りかざした。盟主「ケンちゃん」から一部始終を聞いたデイリンは反射的に謝罪した。


 ケンちゃんもデイリンの事をトンチの保護監督者的な位置づけと認識していたので、デイリンからの謝罪を自然に受け入れた。それゆえデイリンに対して顚末てんまつを語ったのだ。いや、

 顚末説明と言うよりは、むしろ最終処置依頼と捉えた方がしっくりきていた。


 デイリンは、186日所属した「魁!オカマ塾」を去る決意をした。決意した日から3日後には連合内に知れるところとなり、4日後にはトンチから新連合に同行したい旨のオファーが届いた。


 トンチが移籍したい理由は「現連合との方向性の違い」との事だった。

 トンチの方向性に合致する連合は、おそらくはパラレルワールドにしか存在しない。

 我々が住むこの世界において「右」と認識されている事が「左」と認識される世界だ。


 そんな異世界住人の同行オファーを、デイリンは受け入れた。基本的には底抜けにお人好しなところがあり、どこか憎めない魅力がある異世界の住人と離れるのが惜しかった事が最大の決定要因だった。


「かなんなぁ…」


 デイリンは馬鹿息子の所業しょぎょうが原因で転校、転居を余儀なくされる一家の家長のような心境だったが、事態収拾の為には移籍已む無しであり適当な最終判断だと思う事にした。

 ただ先行きが不安になり、溜息ためいき混じりに独り言ちた。


 最初に出会った連合に所属していた当時は、合戦終わりでデイリンとトンチはよく会話した。

 冗談や反省の弁を述べ合い、そしてリアルでの出来事を報告し合った。

 トンチの家の電子レンジは扉を押さえていないと作動しない事や、冷蔵庫に貼っている「水漏れ110番」のマグネットシートがすぐにがれ落ちてめんどくさい事も知っている。


 その意味ではちょっとした親戚以上の関係かもしれない。それでも奥義に関しては琴線きんせんに触れそうな気がして会話を避けた。


 その結果、他のメンバーとの会話量に比して突出とっしゅつして多くなり、大昔からの知り合いと勘違いされてもおかしくない状態が生まれた。


 それが「デイリンはトンチの管理監督者」であるとの認識が醸成じょうせいされるきっかけとなった。「連合にトンチを誘ったのはデイリン」という誤解をしているメンバーの一人が間違った情報を流布るふ拡散かくさんさせたのだと思うが真相は定かではない。


「お友達ユニークですね? 」


 “失笑美女”が、デイリンに不意に話しかけてきた。これによりデイリンの回顧録確認作業は打ち切りとなった。


「あの、なんか…すいません…」


「いえいえ。私、カオリと言います。この店でお2人の事よく見かけるので一方的に存じあげています。ストーカーみたいで気持ち悪いですよね? フフ。 隣はハルカです」


「こんばんは、ハルカです。嬉しいです! 話せるなんて思ってませんでした」


 ハルカはショートボブの髪型にクリクリした大きな瞳を持つバイタリティ旺盛な感じの女性だ。

 いかにも頭が回るタイプという感じで、目や口、汗腺からに溌溂はつらつとした活力のオーラが吹き出ているようだ。


 ただ、話しかけられるだけでも意外なのに、

「デイリンと話す事がなぜ嬉しいのか」という点が全くに落ちなかった。


「とんでもない。カオリさん、ハルカさん改めて初めまして。向かいにいるのはトンチと言います。友人です」


「知ってます知ってます、私たち……。ゴメンナサイ、怒らないで聞いてくださいね。トンチさんの事を「ひとりランド」さんと呼ばせてもらってるんです。そのピグレット初めて見ましたけど、前にも何種類かディズニー関連の服を着ていらっしゃるのをお見かけしてます。今日はなんだろうって毎回楽しみにしてるんです。mickeyのシャツを見た時は、きっと良い事が起きるとかハルカと話して楽しんでるんです」


 カオリはトンチの事をスターを見るような様子で楽しそうに説明をした。デイリンはまるでスターの付き人になったようで面白くなかった。


「デイさん、トンチさんこんばんは。2人ともカオリンとハルカちゃんと知り合いなの?」


 デイリンからオーダーを取る為に来た紗紅羅さくらが尋ねてきた。


「ちゃうちゃう。今日初めて会ったんだよ。いや…ちゃう……。正確には初めてじゃないかもしれないけど初めて話したんだ」


「ふーん。な〜んかよく分かんないけど、まあいいわ。可愛いからって2人に手を出さないでくださいよ! いい?」


 知り合いかどうかは興味の無い紗紅羅が冷やかすようにデイリンに釘を刺した。


「はいはい、分かってますよ」とデイリンは抑揚よくようもつけずサラリと返した。


「私たちは良いわよ…ねえ、ハルカ。せっかく知りあったんだから期待するわよね〜」


 嘘だとは分かっていてもデイリンはドキドキした。大学時代にも男を翻弄ほんろうするタイプの女性がいた。サークルの飲み会で横に座った「典子のりこ」だった。小悪魔的魅力にあふれた典子もデイリンの好みど真ん中だった。


 どうせカオリも典子と同じタイプに違いない。

 信じたら駄目だ。どうせ傷つくだけだとデイリンは自分に言い聞かせた。


 飲み会で典子はデイリンに気があるような素振りを見せ、今度2人で海に行こうよと言った。

 ただ、その場では具体的な約束はしなかった。

 なかなか再会する機会がない為、学校近くの駅で偶然を装って会おうと目論もくろみ、改札が見える喫茶店で何度か待ち伏せして時間を潰した。

 3回目の待ち伏せで見かけた彼女は男連れだった。後で知人に聞いたところ、数年来付き合っている相思相愛の彼氏がいたとの事だった。


 それ以来、この手のタイプの女性は信用出来ないとデイリンは思うようになった。


 デイリンは、どうせカオリがその場限りの嘘を言っているはずなので自分もその場限り楽しもうと割り切った途端、緊張感が解けて気楽に話が出来るようになった。1時間程経った頃には、「カオリン」「デイさん」と呼び合う仲になっていた。


 デイリンとトンチはお互いを本名ではなく、戦国炎舞のユーザーネームで呼び合っていたため、カオリ・ハルカもそれに準拠した格好だ。


 しばらくしてハルカは家の用事で先に店を後にした。トンチはカウンター近くにいる紗紅羅のそばに侍るかのように張り付いているが、紗紅羅は迷惑そうにしている。

 デイリンには、トンチを引きつけてくれている紗紅羅がこれ以上無く頼もしい援軍に見えた。

 こうしてカオリンと話が出来るようになったのはトンチのおかげだとデイリンは心底感謝した。

 そして金輪際、シャツの絵柄に口は出さないと決めた。


 カオリンは日本橋にある百貨店の内勤で、木場にある実家に両親、妹2人と5人家族で居住している。週末は門前仲町で降りて、常連として通っている大衆酒場だるまか、Gin and Limeに閉店まで居て、歩いて家まで帰るのがパターンだった。


「じゃ、11時半に門仲駅前のマック前ね」


 急遽決定したイベントに胸躍むねおどらせているカオリが弾むような調子で言った。

 明日の土曜にカオリが持つ軽自動車で横浜にドライブに行く事になったのだ。


「了解」


 デイリンは軽い男と思われないように、努めて冷静を装い嬉しい感情を抑えた。


 くたびれた下着と穴の空いた靴下、暫く洗っていない上着のことを考えると憂鬱ゆううつになった。トンチの自転車を借りて東雲しののめ亀戸かめいどのドンキに行って新しいものを購入してくるか否かをこの短い返答の間に考えていた。

 その思案の最中、紗紅羅に冷たくされたトンチが席に戻ってきた。カオリとデイリンの仲が進展したことはつゆ知らず呑気にピスタチオを食べ始めた。


 先程迄ボサノバがかかっていたが、いきなりしっとりとしたピアノ曲に変わった。


「誰の曲?」


 デイリンが紗紅羅に聞いた。明日のドライブでも使えるかもしれないという考えもあり聞いたのだ。


「ピアノがビルエバンスで、歌がトニーベネットっていう人だったかな。「My Foolish Heart」って曲。雪風さんからのリクエストがあったのよ。

 雪風さんからの受け売りだけど、恋の歌? だったような。


 恋する心はいつも愚かみたいな…たしかね。

 何度も失恋してる人が、「騙されちゃダメ。前も似たようなことがあったよね? 早く冷静さを取り戻さないと…でもあらがえない…」って自分の心に向かって語りかけている設定だとか言ってた気がするわ」


 紗紅羅は忙しいこともあって、いつもより早口だが分かり易く説明をしてくれた。まるでさっき迄のデイリンの心情を雪風に見透かされたような選曲だった。


「ちょ待って⁈……雪風さん来てんの?」


 紗紅羅とデイリンのやりとりに聞き耳を立てていたトンチが紗紅羅に尋ねた。


「カウンターの一番端っこでマスターと話してるでしょ? トンチさんがこの席に戻ってすぐ入店したのよ」


「デイさん、ちょ行ってくるわ!」


 トンチは口に残ったピスタチオをジントニックで一気に流し込んでカウンターに向けて小走りで駆けて行った。


「雪風さん、お久しぶりです! 2、3ヶ月前に連合入りをお願いしたトンチです。覚えてますか?」


「あゝ、か。もちろん覚えてるよ。周りに一夜城、籠城策、助太刀に数珠を使う珍しい人が居ないから印象的でさ」


「私達の連合入りはやっぱり不可ですか?」


 早く結論を知りたいトンチは単刀直入に雪風に尋ねた。


「いいよ。前に勧誘かけようとしたけど、お友達の名前分かんないし、“トンチ” でユーザー検索したら該当が300件以上ヒットしたから勧誘出来なかったんだよ」


 雪風の意外な返答を受け、トンチは嬉しい感情半分、自らの愚かさをなじる感情半分に支配された。


「勧誘するから詳しく教えてよ。だけど一夜城とか籠城策、助太刀はウチでは封印ね」


 雪風は事も無げに言い放ち勧誘準備を進めた。本日を以って長きにわたり維持してきたトンチのポリシーは封印され、パラレルワールドは終焉しゅうえんを迎えた。


 トンチは連合入りの嬉しさをポリシー封印により相殺されたが、唯一残った「期待の欠片かけら」を抱いてデイリンのもとへ押っ取り刀で駆けつけた。


「デイさん、やっぱ待った甲斐が……」


 勢い込んでデイリンに説明を始めた出鼻をデイリンの言葉によりくじかれた。


「トンチやったで! 今、絶対進化ガチャ引いたら、コスト19細川4枚と、22上杉謙信2枚、それから22上杉景勝2枚が当たってもた! 既に上杉景勝は2枚持っているのでLG。八徳と大風流人、献身の徳が一遍に…怖え〜ホンマに…」


「ウソやん⁈ ホンマに⁈ めっさええやん!」


 デイリンは、カオリが化粧直しに出かけた隙に「錦糸町の奇跡」で手に入れた軍資金を使って “絶対進化ガチャ” という課金ガチャを25回も利用したのだった。


 今迄カスカードを多く引いて来たデイリンにとってはあり得ない僥倖ぎょうこうであった。


 そしてもう1つの僥倖であるカオリとの出会いと併せると、デイリンの持っている「運」の生涯総量の内、約30%はこの日に消化されてしまったかもしれない。


「あ、デイさん、今話つけてきたで。これから雲外蒼天から勧誘来る思うからよろしくです。せやけどせっかく上げた奥義アカンて言われてもたぁ。なんでやろ。どないしょかな」


 デイリンはほっとした。些細ささいな事かもしれないが、デイリンにとっては朗報だった。

 此処ここでも運を1%程費消したかもしれない僥倖だった。


 そこに長い化粧直しから戻ってきたカオリがデイリンに微笑みかけながら歩いてきた。

 いくつかのアンティークなスタンドライトとダウンライトに照らされ更に魅力が増している。


 髪の毛、洋服のボタン、イヤリング、真っ白い歯、時計、指輪、頬、爪…等、カオリの身体のあらゆる所が照明を反射しきらめいている。


 カオリの身体にぶつかった各種照明の光条こうじょうは、カオリから発散される “優艶の微粒子” を目一杯掴つかむと、今度はデイリンの眼球目掛めがけて勢いよく飛び出していった。

 デイリンは “優艶さというドレスをまとった光輝こうき” を眼の水晶体に一旦閉じ込め、ついには記憶の部屋に数珠繋ぎしている “記憶すべき候補達” の順番待ちの列に割り込みをさせた。


「デイさん、お待たせ!」


 カオリがデイリンに満面の笑みをたたえながら呼びかけた。


 デイリンはその笑みが自分に向けられたものとは到底信じられなかった。

 しかし「デイさん……」の呼びかけと共に、カオリとデイリンの視線が空中連結に成功した事で「それ」が自分に向けられたものとようやく認識し、疑念が瞬く間に氷解ひょうかいした。


 カオリが近づくとローズと石鹸を合わせたよう爽やかで上品なフレグランスがデイリンの鼻をくすぐり、そのたびにデイリンの心にさざ波が生じさせた。

 カオリから絶え間なく発せられる艶めかしい芳香により引き起こされた “さざ波の律動りつどう” が次第にその頻度ひんどを高め、あっという間に巨大な波濤はとうを作り上げた。


 きらびやかな光をまとい、糖蜜とうみつのように甘い優艶ゆうえんな微笑とフレグランスを放つカオリに脳幹の機能を完全麻痺させられ、心の中で暴れ回る巨大な波濤はとうを抑えることに精励せいれいしなければならないデイリンは身体が硬直し、カオリに見惚みとれるしかなかった。


 カオリの放つ “強烈な優艶” に、図らずもGin and Limeの室内装備の各種やフレグランスが絶妙な補助を施し、もう2度と小悪魔に騙されないと心に誓ったデイリンの防御力をやたらめったらに下げまくった。


 カオリがソファに腰を下ろした時点でデイリンの心は完全に陥落した。

 王座に着座したカオリに対して心の中で跪拝きはいするデイリンの心情は、まるで臣下が主君に礼を尽くすが如きていであった。


 脳内にはドーパミン、オキシトシン、アドレナリンがダバダバに分泌され溢れ返り多幸感の極みにあった。顔は紅潮し身体中汗ばんでいた。


 錦糸町で狙いすました敵中突破を繰り出し、戦況をひっくり返した勇烈ゆうれつな戦士の顔はもはや消え失せていた。



 分かりやすくいえば彼は「恋に落ちた」のだ。



「デイさん、具合悪いん」


 トンチが明後日の方向を向いた問いをした。


「なんでもあらへんよ」


 デイリンは努めて冷静さを装った。


「めっちゃ汗かいてるやん」


「本当に大丈夫?」


 カオリが被せて質問してきた。


 大丈夫なわけが無い。君のせいだと言いたかったがそうもいかない。


「全然大丈夫だよ。少し酔ったかな」


 冷静にカオリに返答したが、カオリに見透かされそうな気がしたのでトイレに行くと告げ席を立った。


 トイレに行く途中ふと振り返り見ると、まるで陽光のような幾筋いくすじかのダウンライトに照らされたトンチとカオリが談笑を始めた光景が見えた。


 2時間程前迄は名前も職業も知らない、ましてや石鹸とローズを合わせた様な良い匂いがする事も知らなかった女性と真友が談笑している光景が夢の中の出来事の様にデイリンは感じた。


 それはあたかも、恋のキューピッドと女神アフロディーテがたわむれている様を描いた額縁付きののようにデイリンの目に映った。

 その光景を見ながらデイリンは、今日訪れた僥倖の数々を思い出した。そしてジワーッと身体を包む幸福感を噛み締めた。


「イヤッッホォォオォオウ!!」


 新たな恋の主君に出逢った喜びに打ち震えるデイリンは、周囲20㎝四方にしか聞こえない程度の小さなの雄叫びを上げ、そそくさとトイレ駆け込んでいった。


 よく聞き取れない奇声を上げながら小躍りせんばかりの勢いでトイレに駆け込むデイリンを見かけた紗紅羅にはデイリンが相当酔っばらっているかの様に見えた。


 そう…… 彼は新たに訪れた恋の予感に身を焦がし、恋する自分に酔っていたのだ。それは当のデイリンさえ明確に自覚していなった。


「今度こそ……今度こそは……」


 デイリンは「錦糸町の奇跡」の余勢よせいって明日の横浜デートで2連勝を目論み、「恋の敵中突破」を叩き込む決意をしたのだ。



 この時デイリンは、カオリが「恋の戦国炎舞」において、S階級の一角にどっしりと鎮座ちんざしている100勇クラスの強豪である事に気付いてはいなかった。

 そして自分が実力不足のC階級にいる事にも……



 恋愛は、


 チャンスではないと思う。


 私はそれを意志だと思う。


 ー 太宰治 ー(小説家 / 1909~1948) 

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