病夢とあんぱん その外 ~詩島志吹のビーフシチュー~②


「・・・・・どこだろう?ここ」


 目を開いたとき、自然と、そんな言葉を発してしまった。

 どこかといえば、ホテルの一室のような気がするし、普通の民家の一室という感じもするし・・・そもそも、なぜこんなところにいるのかという疑問もある。

  あの黒々しい「何か」から逃げることができただけで、充分といえば充分なのだが。

 「あれ」は、何だったのだろう?

 約三十年生きてきて、今まで感じたことがないような、極度の恐怖心を喚起させる「黒」。

 もう二度と、出会いたくない。

 本当に、死ぬかと思った。

 と同時に、あのとき、逃げる気力を僕に与えてくれた優しい声も思い出す。あの声が聞こえていなければ、きっと僕は死んでいた。誰かに殺されるとか、自殺するとか、そういうことじゃなくて、ただただ恐怖に押し潰されて死んでいた。

 一体、誰が僕を助けてくれたのだろうか?その人が、僕をここまで連れて来てくれたのか?


「・・・ヘクシュ!・・・・さむ」


 凍えるような寒さの中であんな思いをしたせいか、僕の体はすっかり冷え切ってしまっていた。


(何か、温かいものでも食べたいなぁ・・・)

 

 なんて、命を救われておきながら、図々しいことを考え始めたとき。

 不意に、コンコンと扉をノックする音が聞こえた。


「失礼します」


 女性の声が聞こえ、扉が開かれる。

 落ち着いた所作で扉をくぐってきたのは、エプロンを身につけ、髪を邪魔にならないように後ろで一つ縛りにした女性だった。


(・・・家政婦さん?)


 第一印象で、そう感じた。

 貧困なイメージだが、家政婦やお手伝いさんというのは、こんな感じなのだろうな。というのが、目の前の彼女に対して抱いた印象だった。


「おや?起きていらしたんですか?」


 彼女は、少し驚いたかのように、僕に声をかける。


「え、ええ。おかげさまで」


 何がどう「おかげさま」なのかは分からないが、僕はそんな風に返答する。


「相当なショックを受けていらしたようだったので、目を覚ますにはもう少し時間が掛かると思っていましたが・・・。体調はどうです?落ち着いていますか?」

「万全ではありませんけど・・・まあ、大丈夫です。多少、寒気と頭痛がしますけど、それ以外は普通ですよ」


 上下左右と、体を動かしてみる。

 うん。やはり、動けないほど調子が悪いということはなさそうだ。止まらない寒気から、風邪を引いてしまったかと思ったが、そこまでやわな体でもなかったらしい。


「・・・そうですか」


 ジッと少しの間、僕を観察した後、彼女は目を逸らす。


「あの・・・ちょっと聞いてもいいですか?」


 今度は、こちらから声をかける。


「あなたが、僕を助けてくれたんですか?もしそうなら、お礼がしたいんですか・・・」

「いいえ」


 と、しかし彼女は、首を横に振った。

 だが、これは予想していた答えだ。本気で、彼女が、僕を救ってくれた恩人だと思ったわけではない。あのとき僕が聞いたのは、男の声だった。

 単純に、話の切り口として質問をしただけだ。


「なら、一体誰が?」

「・・・もし、あなたが恩人にお礼をしたいというならば」


 僕に着替えを手渡しながら、彼女は言う。


「私に、着いてきてもらえますか?」



「私は、はしのどといいます」


 僕の前を歩きながら、彼女は名乗る。


「この屋敷の主人の、身の回りのお世話をしている者です」

「えっと・・・じまぶきです」


 身の回りのお世話。

 具体的な職種を口にしてはいないものの、家政婦やお手伝いさんと近しい役割の人なのだろうと、僕は思った。

 そして、聞き流してはいけないのが、「屋敷」という言葉だ。

 屋敷。

 嘘ではないことは確かだ。広い廊下。高い天井。窓から見える、かなりの面積を持つ裏庭。「屋敷」という言葉がこれほど似合う家もないだろう。その広大な屋敷の中の一部屋に、僕は保護されていたらしい。

 どうやら、かなりのお金持ちに拾われてしまったようだ。つい、おどおどと歩いてしまう。こういう豪勢な空間は、どうも苦手なのだ。みすぼらしい自分が場違いに思えてしまう。

 ・・・まあ、服を貸してもらっているので、今に限れば、着ているものだけは超一流なのだが。派手な刺繍やデザインが施してあるわけではないものの、その材質の質感から、高級品であることが嫌でも伝わってくる。


(絶対に、僕に見合ってないよなぁ・・・)


 そんな風に、自信を失ってしまう。

 我ながら、器の小さい奴である。


「こちらです」

「・・・ここ?」


 僕は首をかしげそうしなってしまう。というのも、彼女が足を止めたのは、僕が先ほどまで眠っていた部屋の扉と、大差ない扉の前だったからだ。てっきり王室のような、大扉の前に連れて行かれるのかと思ったのだが・・・。もしかすると僕を助けてくれたのは、この屋敷の主人、というわけではないのだろうか?


「失礼します」


 再びノックを行い、僕らは部屋の中へと入って行く。

 中では、一人の男が机に向かっていた。


「おや、和香さん。お仕事ご苦労様。夜遅くまですまないね」


(この人だ)


 と、すぐに分かった。

 僕を救ってくれたのはこの人だ、と。

 力強く。温かく。優しい。

 そんな、声。


「いえいえ・・・私が勝手にやっていることですから」


 彼女は、小さく微笑んだ。先ほどまで、あまり表情を変えずに話していた彼女が、初めて笑った。


「そちらの人は・・・路地で倒れていた方だね。えっと・・・」

「詩島といいます。詩島志吹です」


 名前を聞かれる前に、僕は名乗る。


「助けてくださり、ありがとうございました」


 そして、すぐさま深々と頭を下げる。


 こうして、僕は出会った。


 機桐はたぎり孜々ししに。

 僕の人生を、変えてくれた男に。

 僕は、出会った。


 

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