病夢とあんぱん その外 ~詩島志吹のビーフシチュー~①


 理解できるものと、わけの分からないもの。

 暗い夜道で遭遇するならば、どちらの方がマシだろうか。

 前者と言う人もいるだろう。納得できる。確かに、理解できるものの方が、多少は安心できる。

 後者と言う人もいるだろう。納得できる。確かに、そういう冒険心的な感情を抱く人もいるだろう。

 どちらも怖いと言う人もいるだろう。納得できる。確かに、そもそも暗い夜道というのは、それだけで危険なイメージがある。

 ただ、どちらも怖くないと言う人がいるならば、その意見には絶対に納得できない。是が非でも、反対するしかない。

 そんな風に、じまぶきは考えていた。

 約半年前。昨年の十二月。凍えるような、真冬の真っ只中。詩島は、就職活動にいそしんでいた。ピシッとしたスーツを身にまとい、様々なところに自分を売り込んでいた。

 結果は・・・・・散々だったが。

 就職活動中とはいっても彼は、周りのフレッシュの若者と同じというわけにはいかなかった。二十代前半の、ピチピチな若者たちと同様に就活を進めているわけではなかった。

 詩島志吹。二十九歳。独身。

 三十路前の、見る人が見ればおっさんと言われてしまうような年齢だ。・・・まあ、だからといって、そう言われても構わないとは思っていないが。

 一度は、社会へと飛び立った身である。今でこそ、新しい仕事口を探して四苦八苦しているが、前までは商社に勤めていたのだ。

 上手くはいかなかったが。

 一年で、辞めてしまったが。

 高校生で浪人し、大学を留年し、やっとの思いで卒業した先の就職先でも、人間関係のトラブルを起こし、脱落してしまった。


(人生・・・上手くいかないものだなぁ)


 そんな風に、彼は考える。まるで他人事のように、彼は考える。


(分かってる。現実逃避だと、よく分かっているんだ。でも・・・)


 彼の就活が上手くいかない理由は、そこにあった。なにぶん、目を逸らしがちで、マイナス思考なのだ。また上手くいかなかったら、どうしよう。また失敗したら、どうしよう。

 就職できたとしても、またトラブルを起こしてしまったら。

 また会社を辞めることになってしまったら。

 どうしよう。

 そんなことばかりが、彼の頭の中で渦巻いていた。

 結果、そんな性格が表に出てしまい、なかなか思うように就活が進んでいないのだ。悪い性格ではないのだが、そんな失敗を恐れる性質たちは、相手に好印象を与えなかった。


(・・・寒いな)


 寒空の下、彼はブルっと体を震わせた。


(早くアパートに帰って、温かくしよう・・・)


 彼は寒さから逃れるため、我が家であるアパートへと急いでいた。安い賃貸の、古いアパートではあったが、居場所のない彼にとっては大切な我が家だった。


(・・・近道するか)


 寒さに耐えきれず、彼は細い路地へと入って行く。普段はあまり通らない、落書きだらけ、ごみだらけの路地だ。アパートへの近道にはなるのだが、街灯がなく、夜道は真っ暗なので、意図的に避けていた。今日も暗いことには変わりがないのだが、家への帰還を急ぐ彼は、ショートカットをせずにはいられなかった。


(今日くらいは、いいよな)


 ただ・・・・・理由は、それだけではなかった。

 彼は、「何か」を求めていた。

 自分の生活を変えてくれる、「何か」を求めていた。

 自分の情けない性格を変えてくれる、「何か」を。

 こんなことをしたところで何も変わらないのは分かっていたが、それでも、普段とは違う「何か」をやってみたかったのだ。

 二十代後半にもなって、一体何を考えているんだ。と、呆れたように溜息をつく。こんなことだから、何も上手くいかないんだ。こんな価値のないことをするよりも、もっとやるべきことがあるだろうに・・・・・。

 意味のないこと。価値のないこと。

 それでも彼の行動は、「何か」を招いた。

 結果的に、彼は「何か」を得ることになる。そして、「何か」を失うことになる。

 小さな「何か」を得て。

 大きな「何か」を失う。

 この夜、彼はそういう選択をしたのだった。


「・・・え?」


 暗く、明かりのない路地を少し進んだところで、僕はあっにとられてしまった。

 目の前の光景に、目を疑った。

 人間がいた。真っ黒な人間がいた。頭のてっぺんから爪先まで真っ黒な人間が、また別の誰かを肩に担いで、そこに立っていた。

 髪が黒いとか、服が黒いとか、そういうレベルではない。

 本当に、全身が真っ黒に塗り潰されているかのような人だった。影そのもののような人間だといっても、過言ではないだろう。

 人間であることは分かる。

 ただ・・・・・それ以外の全てが分からない。

 怖い。

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

 恐怖。

 ただただ、怖いという感情が僕の中を支配した。とにかく怖い。どうしようもなく怖い。

 それしか、考えられないのだ。

 目の前の黒さに、震えることしかできない。逃げなければならないのに、僕はその場に座りこんでしまった。


(だ、だめだ・・・。立てない・・・)


 立ち上がるどころか、動くことすら、ままならなくなってしまった。体の動かし方を、脳が忘れてしまったかのようだった。


(あれに捕まったら・・・きっと、殺される・・・・・)


 確証はない。けれど、その「死」そのものが近づいてくるような感覚に、生き残る希望なんて見い出せない。「死」は、目の前に広がっている。

 震えが止まらない。

 恐怖を抑えられない。

 もう。

 死ぬしか、ないのかもしれない。


「こっちだ!」


 そんな声が聞こえた。

 低く、力強い声だった。しかし、どこか温かさがにじんだ、優しい声だった。

 その声が、僕の体を微かに動かした。

 黒い何かがいる方とは反対側へと、僕は逆走した。逆走、とはいっても、走ることなんて、とてもできなかった。うのていで、相変わらずの恐怖に怯えながら、僕は進む。後ろを振り向くこともできずに。

 ただ、その温かい声が聞こえた瞬間から、恐怖心は少しずつ薄れていった。

 その声が、僕を逃がしてくれたのか。

 その声が、あの黒い何かを遠ざけてくれたのか。

 それは判断がつかなかったが。


「大丈夫かい?」


 路地の出口に近づくと、そんな風に声を掛けられた。僕を包み込むような、光だった。

 彼との出会いは、希望だ。

 もしくは、絶望だったかもしれないが。

 少なくとも僕にとっては、彼は、紛れもなく希望だった。

 どこか安心感に包まれた気がして、僕は、気を失った。

 

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