病夢とあんぱん その40
氷田織畔の『
負けを認めたのだ。
ビルの裏庭へと繰り出し、戦いが始まったその瞬間、詩島は負けを認めた。
両腕を天高く突き上げ、両膝をつく。
完全に降参の姿勢である。
「・・・なんの
氷田織が
当然だろう。
「僕が相手ですね」と言って外へと連れ出した敵が、いきなり負けを認めたのだ。「はい、そうですか」と簡単に認められるはずもない。何かの作戦だと考えるのが普通だろう。
「見ての通り、降参です。というか、僕には最初から、戦うつもりなんてなかったんです。僕は『
誠実そうな口調で、まっすぐと氷田織の目を見ながら語る、詩島。
「あなたたちと、交渉させてほしいんです」
交渉。
それは本来ならば、柳瀬の役割だった。
皮肉にも、柳瀬と氷田織の役割が入れ替わってしまった形になる。
「交渉、ね・・・まあ、話だけは聞いてあげるよ。聞いた後にどうするのかは、また別としてもね。それと、その格好は相当
「・・・ありがとうございます」
と、詩島は立ち上がる。ポンポンと、スーツの汚れを払いながら。
「で?今更、何を交渉しようっていうんだい?少なくとも、金髪のチャラい彼は、交渉なんてする気はなかったように見えるけど・・・」
「疫芽君は戦闘係ですから・・・戦うのが役割です。そして、僕は交渉係。こうして、話し合うのが役割です」
と、軽く微笑む詩島。
見るからに正直そうで、
氷田織とは正反対である。
「あなたたちは
「そりゃそうさ。そうじゃなきゃ、こんな薄汚れたビルにわざわざ足を運んだりはしないよ・・・。何だい?莉々ちゃんを
あの子の『病』は、とても役に立つからねぇ・・・。と、氷田織は心の中で呟く。
「いいえ。そういうことを頼みたいんじゃありません」
と、しかし、氷田織の予想に反して、詩島は首を横に振る。
「むしろ、逆です」
「・・・逆?」
「はい。あなたたちには、莉々さんを助け出してほしいんです」
「・・・・」
何を言っているんだ?と、さすがの氷田織も少し
自分たちで
「・・・それはつまり、莉々ちゃんを返してもらえる、ということかな?その代わりに、僕たちに何かやってほしいことでも?」
「いいえ」
と、またしても詩島は否定する。
「莉々さんを助け出してほしい。ただ、それだけです。見返りは求めません」
「・・・ちょっと意図が読めないねぇ。それだと、そもそも莉々ちゃんを攫った意味がないと思うんだけれど・・・。一体、どういうつもりなんだい?」
「僕の雇い主、今は当主と言っておきますが・・・当主の目的は、莉々さんを手に入れることです」
それは間違いありません、と詩島は語る。
それに対し、氷田織は「当主?」と
「だから、これは僕の一存です。僕は、当主には、莉々さんに
「多分・・・・・当主は迷っているんです。莉々さんを手に入れるべきかどうか、迷っている。それなら、こんなことはしない方がいい。莉々さんに、こだわり過ぎるべきじゃないんです」
ギュッと唇を噛み、詩島は決断する。
大きく、一人よがりかもしれない決断を。
どうしようもなく、わがままな決断を。
「だから、どうかお願いします。莉々さんを助け出してあげてください。僕たちが・・・いえ、僕が望んでいるのは、ただそれだけなんです。僕は、当主に
と、詩島は必至で頭を下げる。
「・・・なるほどねぇ」
氷田織は、表面上だけは真剣に
部下の暴走・・・といってしまえば簡単だが、事情はそんなに単純ではなさそうだ。『シンデレラ
が、氷田織にとって、それらの事情は大したことではなかった。どうでもいいことだった、と言ってしまってもいい。
氷田織がやろうとしていたことは、二つだけ。
一つは、機桐はたぎり莉々の居場所を知ること。
もう一つは・・・・。
「・・・君の気持ちは、理解したよ」
と、氷田織は返事を返す。
「僕らは、莉々ちゃんを必ず助け出すと、約束しよう。君の望みを叶えられるよう、努力しよう」
「・・・ありがとうございます」
詩島は顔を上げる。
時は、
「ただ・・・君に当主のところまで案内してもらうのは、マズいだろうねぇ。君たちの当主が本当のところ、何を考えているのかは分からないけれど・・・。表面上は、君が『シンデレラ教会』を裏切る、という形になってしまう。それがご当主様に伝わってしまうのは、君も本意ではないだろう?」
「・・・はい」
「それなら、『シンデレラ教会』の本拠地・・・というか、当主の居場所を僕らに教えてほしい。僕らの目的を果たすために。そして、君との約束を守るために、だ。もちろん、むやみに君たちを傷つけたりはしない。莉々ちゃんを回収したら、それ以上、君たち『シンデレラ教会』には踏み込まないさ」
氷田織は、
微笑みを浮かべて。
「・・・どうかな?教えてくれるかい?」
「・・・・・ええ」
重苦しい返事を、詩島は返す。まるで、何かを悟ったかのように。
そして、詩島は伝えた。『シンデレラ教会』の本拠地を。当主の居場所を。
大恩ある、
彼にとって、大切な居場所を。
嘘うそ偽いつわりなく、氷田織に伝えた。
「・・・ふむ。分かったよ。しっかり覚えた」
住所を頭の中にメモし、氷田織は微笑んだ。
「そういえば、まだ、ちゃんと自己紹介していなかったねぇ。僕は、氷田織畔という。よろしく」
と、氷田織は左手を差し出す。
「必ず、僕らの願いを成就させようじゃないか」
「・・・僕は、詩島志吹といいます」
握手をしようと、詩島もまた、左手を差し出す。
「どうか。どうかお願いします、氷田織さん・・・。当主と莉々さんを、救ってあげてください」
どうか・・・・・どうか。
彼らは、互いに握手する。
もっとも。
握手をしたとき、詩島の方はその
詩島志吹。
恩人の幸せを望み、恩人にとって大切な人の幸せを望んだ彼は。
まったく望まない、最期を迎えた。
「ふぅ・・・」
一息つきながら、氷田織はバイク用グローブをつけ直した。
握手のときにグローブを外すのは、とても常識的な行為である。
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