病夢とあんぱん その14

 

 一日は、あっという間に過ぎた。


 特になんの問題もなく、ごはんを食べ、設備の説明を受け、少し子どもたちと遊んだりもして、一日は過ぎ去っていった。

 ・・・まあ、厳密にいうならば、夕食のとき、しんじょうさんに軽くおどされたが。


「言っておくが、逃げよう、とかは考えるなよ。私たちが守るとはいっても、それは私の手の届く範囲で、だ。この保育園から少しでも外に出れば、命はないと思っとけ」


 いや、軽くはないか。

 しかし、そんなことは言われるまでもない。命を狙う刺客から逃れるすべは、僕にはない。今のところは、この奇妙な保育園に身をひそめるしかないのだ。


 そして、その日の深夜。住人が全員、寝静まったと思われる頃。


 僕は、逃げ出すことにした。


 そく前言ぜんげん撤回てっかいだ。


 いや別に、殺されたくてここを出て行こうとしているわけではないのだ。しかし、やはり無理だ。こんなところで生活はできない。

 心を読む女性。

 死なない老人。

 たった二人の『やまい』を知っただけでも、僕には相当のストレスがかかっていた。他にどんな『病』があるのか知らないが、もうこれ以上は聞きたくないというのが本音だ。これ以上、得体の知れない人たちとしんしょくを共にしたくはない。

 もちろん、命の危機にあることを忘れたわけではない。

 計画としては、夜のうちに都心まで戻り、そこから交通機関を利用して実家の方に戻るという感じだ。危険は承知だが、別に、僕のことを四六時中監視しているというわけではないだろう。それくらいのことは、できるはずだ。

 当たり前だが、僕にも父と母がいる。

 社会人にもなって両親に頼るというのは恥ずかしい限りだが、しばらくは実家に身を潜ませてもらうとしよう。少なくとも、一人でいるよりは安全なはずだ。

 事情を理解してもらえるが、得体の知れない人たちがいる所。

 事情は理解してもらえないが、親しい人たちがいる所。

 どちらが安全なのかと問われれば・・・・どうなのだろう?どちらかといえば前者かもしれないが・・・僕は精神衛生上の問題で後者を選ぶ。

 そんなわけで。

 僕はこっそりと二階の奥部屋を出て、玄関を目指していた。

 まずここから出たら、コンビニを探して道を聞こう。その後、夜のうちに都心、とまではいかなくても人目の多い地域まで逃げて・・・・・。


 殴られた。


 下駄箱の陰から、思いっきり頬を殴られた。突然のことすぎて、受け身も取れずに床に思いっきり倒れる。

 どうやら僕は見くびっていたようだ。

 敵を、ではなく、味方を。

 完全に見くびっていた。


「お前さあ、本当に馬鹿野郎だな・・・・あきれちまうわ」


 僕を殴りつけた張本人である信条さんが、そんなことを言いながら、のっそりと下駄箱の陰から出てくる。


「・・・なんで分かったんですか?」


 僕は立ち上がりながら、彼女に問いかける。


「お前が出て行こうとしていることに、か?本気で言ってんの?私は心が読めるんだっつったろ」


 信条さんは、うんざりしたような表情を隠そうともしない。


「私が夕食で忠告してやったとき、お前、口では逃げませんとか言ってたくせに、心ん中では逃げる気まんまんだったじゃねえか。そりゃあ、ばれるだろうよ」


 かつだった。

 いや、信条さんの『病』のことを忘れていたわけではなかったのだ。

 『真空しんくうせいげんのうぜんの病』。その恐ろしさを、忘れられるはずがない。

 しかし、たとえ心を読んで、僕の逃亡を知ったところで、彼女は僕のことを止めないと考えていた。そんな義理堅い性格ではないと。そう思っていた。

 まさか、という感じだ。その点において、僕は迂闊だった。


「なぜ・・・」

「なぜ止めたんです?と聞かれる前に答えといてやるよ」


 と、僕の質問を先読みして、彼女は言う。


「私は別に、お前が生きようが、死のうが、どっちでもいいんだよ。でも、死にに行こうとしている奴を止めるのは、当然のことだろう?人間として、やらなきゃいけないことだ」

「いや、それを言うなら、人を殴るのは当然のことではないんじゃ・・・」

「うるせえ」


 一喝されてしまった。


「逃げて・・・家族のところに戻るつもりだったのか?なんで?」

「なんでって・・・・信用できる人たちのいるところの方が、安全だと思ったんですよ。分かるでしょう?」

「いや、分かんねえな」

「心が、読めるんでしょう?それなら・・・」

「分かんねえっつうのは、お前が、両親のことを『信用できる』とか言ってることを、分かんねえつってんだよ」


 ・・・・・。


「分かんねえ理由は二つだ。一つ目。お前は両親のことを『信用できる』だなんて、これっぽっちも思ってねえ。よくもまあ、心にも思ってねえことを、いけしゃあしゃあと喋れるな?いや、それどころじゃねえ。いざとなったら、両親を盾にして逃げよう、とさえ考えてる。違うか?」


 ・・・・・。


「信用できる人たちのいるところの方が安全?ふん。『信用できる』じゃなくて、『信用してくれる』の間違いだろう?両親からお前への、一方的な信頼。その信頼を利用して、自分だけでも助かろうって魂胆こんたんなわけだ。まったく、大した人間じゃねえか。あん?」

「・・・二つ目は?」

「・・・は?」

「『分かんねえ理由』、二つあるんでしょう?」


 僕は、信条さんに促す。

 そんなことは、言われるまでもないのだ。初対面の人間に指摘されるほどのことじゃない。

 だが・・・できることなら、そんな自分とは向き合いたくない。そういう自分の人間性を嫌いなわけでも、恥じているわけでもないが・・・他人に知られたい性格ではない。

 『病』と同じだ。他人と違っていて、異常である。

 だから、僕は、信条さんに『二つ目の理由』を促す。


「・・・二つ目の理由は」


 と、目を細めて僕の顔を見ながら、彼女は続ける。


「これは私の個人的な事情なんだが・・・私には『信頼できる両親』って奴がいない。だから、なんでみんながそんなに『家族を大切にしよう』とか『家族が大事』とか言ってんのか、よく分かんねえ」

「それは・・・信条さんが親の顔を知らないってことですか?それとも、昔、虐待されていたとか・・・親と絶縁ぜつえん状態にある、とか?」

「全部違う。けど、最後のは惜しいな。良い線いってる」


 こんな話で良い線いっていても、別に嬉しくないのだが・・・。


「親の顔はよく知ってるさ。虐待もされていない。何せ、私が両親を殺したんだからな」


 だから、虐待したのはどちらかといえば私だな、と彼女は言った。

 事もなげに、どうでもよさそうに、彼女は言った。

 自分の『病』に比べれば、これほどどうでもいいことはない、という風に。


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