病夢とあんぱん その6

 

 異変に気付いたのは、三時間ほどが経過してからだ。自室のベッドで眠りに落ちてから、約三時間後。

 僕はその蒸し暑さに、眠りを妨げられた。


 暑い。

 熱い熱い熱い。


 ばっと飛び起きると、部屋はサウナ状態と化していた。いや、サウナなんて生易しいものじゃない。砂漠で直射日光を浴びているかのような、とてつもない暑さだった。

 もちろん、砂漠なんて行ったことはないけれど。

 何が起こっているのか訳が分からず、辺りを見回す。エアコンの暖房温度が最大になっている、というわけでもない。しかし、熱気はそのエアコンから発せられていた。どんな使い方をしても、これほどまでに熱を発生させることはできないだろう。


 ならば故障か?

 しかし、そこで気付いた。


 エアコンだけではない。充電器につないでおいたスマートフォン、部屋の照明、テレビ、DVDプレーヤー、ポット、炊飯器、電子レンジ、オーブントースター、パソコン、冷蔵庫などなど。とにかく、電気の通っているあらゆる電化製品が、尋常ではない温度で発熱していた。


(ひとまず部屋から出ないと・・・)

 

 こんなことになっている原因はわからないが(少なくとも故障じゃない)、このまま部屋にいれば蒸し焼きになってしまうことだけはわかった。せっかく絞殺を免れたのに、高熱で死ぬなんて御免だ。

 それでも、せめてもの連絡手段としてスマートフォンを持って行こうと手を伸ばそうとしたところで。


 スマートフォンが爆発。

 炎上した。


 これはブログが炎上した、とかの比喩ではなく、言葉の通り、リアルに目の前でスマートフォンが爆発したのだ。と同時に、スマートフォンを置いておいたベッドが火に包まれる。


「!」


 服に火が燃え移りそうになり、思わず後ろに飛び退ける。

 確かに、機械は想定されている以上の高温には耐えられない。そして、耐えられなくなれば壊れるのだ。壊れ、爆発し、火を噴く。では、部屋に置いてある電化製品が次々に高温になっていけば、最終的にどうなるだろうか・・・・?

 もう、なりふり構ってはいられなかった。

 机に置いてあったカードキーだけを引っ掴み、玄関へと走る(この一瞬にも、部屋の照明が爆発した。天井が真っ赤に燃え上がる)。そして、カードキーを扉の読み込み盤に押し当てた。


 「ピピッガチャ」という電子音が、聞こえることはなかった。


 何度も押し当てるが、反応はない。いつもは意気揚々と送り出してくれる我が家の扉が、この緊急事態に際しては、断固として開いてくれることはなかった。


(うーん・・・)

 

 ひとまずカードキーをポケットにしまい、冷静になる。扉から外に出るのは諦めた方がよさそうだ。無理やりこじ開けるのも無駄だろう。文明の力に、人力は敵わない。

 では、窓はどうだ?

 いや、多分これも不可能だろう。この部屋は、玄関側に窓がついていない。玄関の反対側、つまり部屋の奥には窓はついているけれど、ここは五階だ。焼け死ぬことはなくとも、落下死は確定。


 八方塞がりだ。

 絶体絶命。


 いや・・・・と、天井を見上げた。さっきまでは部屋の照明がついていた部分だ。照明の爆発によって、天井には穴が空いていた。人間一人が通れるほどの大きな穴ではなかったが。


(だけど、もっと穴を広げれば、なんとか通れるはずだ・・・)

 

 器物損壊で訴えられるだろうか?

 それでも、死ぬよりはマシなはずだ。

 やむを得ない。


 しかし、天井に近づきすぎるのは危険だ。さっきの爆発で天井は燃えている。否、天井だけでなく、今や部屋のあちこちに火が付いているのだ。自分に燃え移らなくとも、上に移動する煙によって呼吸困難になる可能性がある。

 ひとまず窓を開け、外から物干し竿を取った。これで煙は外へ出ていく。窒息までのタイムリミットは延びたはずだ。

 僕は手に取った物干し竿で、天井に空いた穴の周辺を何度も何度も叩いた。

 叩き壊さんばかりに。

 いや、叩き壊すつもりだったけれど。

 数分後、天井にはギリギリ人間一人が通れる程度の穴が空いていた。


「はぁ・・・はぁ・・・・」


 そろそろ限界だ。僕の部屋は、ほぼ全方位を炎に囲まれていた。テレビやら電子レンジやらの爆発も相まって、僕の部屋は、もう相当にぐちゃぐちゃな状態になっていた。


(とにかく、これで脱出だ)


 机の上に椅子を乗せ、その上に、さらに僕が乗る。なるべく煙を吸わないようにしながら、炎が燃え移らないようにしながら手を伸ばし、天井に手を掛ける。


「よっと・・・」


 なんとか上の階の部屋、つまり602号室に侵入した。

 器物損壊罪に加えて、不法侵入も犯してしまった形だ。


(さて、と・・・)


 602号室の住人はいなかった。

 これは留守、という意味ではなく、602号室を契約している人はいないという意味だ。家具がまったく置かれていないことから、これは確実だろう。

 しかし、ピンチには変わりがない。

 契約者がいないからといって、玄関が開きっぱなしになっているわけではないだろうし、窓からの脱出も相変わらず不可能だ。むしろ一階分高さが上がって、落下死のリスクは高まっただろう。いつ、下の炎がこの階にまで燃え移ってきてもおかしくない。

 またしても、何かが爆発する音が聞こえた。


 ここで、しかし僕は、一つ思いついたことがあった。契約者がいない、ということから思いついた、もとい、思い出したことだ。

 502号室に初めて入居したときのことだ。会社に入社する前の、まだ学生気分の抜けていない暢気だった頃。管理者から部屋のカードキーを受け取ったときに言われたのだ。


「あ、部屋の郵便受けに予備のカードキーが入ってるんで。よろしくお願いしまーす」


 いやいや、管理者さん。それはセキュリティ的にどうなんですか?窓からの侵入ができないにしても、それは危ないんじゃないですか?と思ったものだが、このときばかりは、そのセキュリティのずさんさに感謝する他なかった。


(あった!)


 502号室と同じく、602号室の郵便受けにも、予備のカードキーが入っていた。


(管理者も、下の階から侵入されてカードキーを盗まれるなんて、思ってもみなかっただろうな・・・)

 

 窃盗せっとう罪、追加。

 ともかくだ。カードキーは手に入れた。後は扉が反応すれば・・・。


「ピピッガチャ」


 開いた!

 急いで転がり出たいところだったが、焦る気持ちを落ち着かせ、慎重に外に出る。どうしようもなく訳の分からない状況ではあったが、この前の電流ケーブルといい、今日の電化製品といい、これだけ「電気」を強調されれば、警戒しないわけがない。通路の蛍光灯けいこうとうを、スプリンクラーを、そして階段わきのエレベーターを、警戒しないわけにはいかない。


「!」


 予想どおり、エレベーターの中からは多数の電流ケーブルが這い出していた。大蛇のようにうねりながら、こちらに向かってくる。

 もちろん、エレベーターを使って下まで降りようと思っていたわけではない。すぐに進行方向を変え、階段を下りる。


「くそっ・・・こっちからもか・・・・・」


 下の階、つまり五階のエレベーター入口からも、電流ケーブルが這い出て来ていた。エレベーターの構造なんて知る由もないけれど、こんなにたくさんのケーブルがエレベーターの中を通っているのだと思うと、少し気持ちが悪くなった。


(上から電流ケーブル、下からも電流ケーブルか・・・)

 

 結果として、六階と五階の間の踊り場で立ち往生することになってしまった。ケーブルの間をすり抜けるのは不可能だ。しばらくの間はかわせるとしても、一階にたどり着くまでには恐らく捕まってしまうだろう。


 一瞬、諦めるという判断が頭をよぎる。

 いや、諦めたくない。諦めれば、死んでしまうのだ。

 死にたくはない。

 死ぬのは、怖いから。


 とにかく電流ケーブルから離れようと、後ずさりをする。すると、コツンと肘に何かが当たる感触がした。


(なんだ・・・?)


 それは、各踊り場に常設されていて、数分前ならば絶対に欲しいと思った物。

 消火器だった。


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