鬼を愛する者

 一ノ瀬アザトは、いつになく早い帰宅ののち、即座に布団に倒れ込んだ。


 逃避してしまいたかった。旅にでも出てしまいたかった。いやいっそ人であることすら捨てて、誰もいない場所まで行ってしまいたかった。


 それを許さないのは、一ノ瀬アザトの贖罪意識。だが、それすらも少しずつ揺らいでいる。


 それが、自慰行為に過ぎないことを突き付けられてしまった今となっては。


 誰も求めていない償いを、押しつけがましく断行して、それで誰の心を慰められる? 誰の心を慰めるための償いなのか。それを履き違えているアザトの贖罪は、その第一歩からして間違っている。アザト自身を慰めるための償いならば、それはもはや償いではないのだ。そんなことに、人であることを失ってから気付くとは、笑止。


「先輩、どうして今日は一緒に帰ってくれなかったんですか?」


 悲しげに自分を責める声に、謝罪の言葉さえ返せない。


 謝罪したところで、ただ己の罪悪感を減ずるだけではないのかと不安になるから。


 どうやって入ってきたのか、なぜ来たのか、そんなことを問う気力さえない。


「先輩……今朝のこと、怒ってるんですか?」


 だが、涙をこらえているのが手に取るようにわかるその声を聴くのが辛い。


「違う」


 だから、否定する。咎のない彼女の謝罪など聞きたくないから。

 所詮、アザトは自分の望むようにしか行動できない。誠実で『ありたい』から、贖罪が『欲しい』から。そうやってアザトは、ただ自分の心を満たすためにしか行動してこなかった。


「なら、どうしてですか? 私、先輩に嫌われるようなこと、しちゃいましたか?」


「違う」


 否定しながら、しかし竜神ツバキに満足な答えを返すことさえできない。

 できるはずがない。

 アザトはどうしようもなく自己中心的で、他人に今自分が何を求められているのかなど、考えたこともなかったのだから。


 だから。アザトは今回も、ただ自分勝手に吐き出した。


「俺は、君の好意に応える能力に欠如している。だから、君から逃げることにした」


 ツバキのほうを向こうともせず、アザトは呟くように告げた。

 直後、のしかかられたような重圧をアザトは感じた。

 ツバキがのしかかってきた、否、寝ているアザトに抱きついたのだと理解するのに、さしたる時間は必要なかった。理解できないのは。


「何故だ」


 何故、そうまでしてアザトを繋ぎ止めようとするのか。


「いなくなっちゃ嫌です」


 アザトの問いには答えず、ツバキはアザトを掻き抱く。ふてくされたように寝ているアザトにのしかかる姿勢であるツバキの抱擁は、決して絵になるものではない。

 だが、いや、だからこそ、それはなりふり構わずアザトを求めているツバキの意志をアザトに容赦なく伝達する。


「もう一度言う。俺は君の好意に応える能力に欠如している」


 逃れるように、呻くアザト。与えられるだけの関係は、苦しい。その苦しみから逃れようと、アザトは必死に抵抗した。相手を思いやってではない。ただ与えられ続け、少しづつ積もる罪悪感から逃れたいというだけの理由で。


「何も返してくれなくても、いいんです。受け取ってさえ、くれれば」


 ツバキが返したのは、死刑宣告にも等しかった。


「なら俺は、君が俺に飽きるのを待とう」


 その宣告を拒む気力を、もはやアザトは持たなかった。

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