鬼の狂気

「……竜神さん?」


 一ノ瀬アザトは既に、狂っていたのかもしれない。


「どうしたんだ?」


 怯えて電柱の陰から出てこない竜神ツバキが、何に怯えているのか、まるで気づかなかったのだから。


「こ、来ないで……」


 震えた声で拒絶され、ようやくアザトは理解した。


 ツバキが恐れているのは、自分だ。


 さもありなん。銃を向けてきた相手と穏やかに会話をし、何発もの銃弾をその身に受けて平然としているような者を、自分と同じ人間だと思えるほうがおかしい。


 そんな当たり前のことを忘れてしまうほど、アザトは背負わされた力の大きさに参っていた。感覚が麻痺していたといったほうが正しいかもしれない。


「それもそうか。どうかしているな、俺……」


 たかが銃弾を受けた程度でなぜ、と一瞬でも思ってしまった自分が、本来なら一発銃弾を受ければ死にかねない人間だったことを思い出したアザトは、死というものが不可逆の終焉かもしれないという事実さえ忘れていたアザトは、もうツバキに呼びかける言葉を持ち合わせていなかった。



 鉄窓学園についたアザトが最初にしたことは、校庭に据え付けられている水道の水を頭から被ることであった。春先という時期にあって、地下の水道を通った水の冷たさは多少の痛みを与える程度にアザトの頭を冷却した。


 そう。痛みだ。この程度の、少々冷たい水にさらされた程度で苦痛を覚えるほど、人は脆い。脆いのだ。銃弾の持つ圧倒的初速に裏付けされた貫通力でもって体内を引っ掻き回されて、平然としていることなど本来不可能なのだ。ましてや、それが一発ではないのならば。


「ダンナ、何やってんだ?」


 いっそ溺死しそうなほど水を浴び続けているアザトに声をかけるような物好きは、もはや旧友にしてかつての恋敵、時雨坂シュウただ一人。


「頭を冷やしていました」


 水道の蛇口を締め直して水を止め、濡れた髪の水けをきりながら答えたアザトの頭にかけられたタオルは、アザトの予想に反して女物だった。つまり、シュウのものではない。


「余計なお世話だとは思いますけど、風邪ひいちゃいますから……」


 そう言いながらアザトの髪をタオルで拭いだした神宮寺サクラは、あくまでも「人間」である一ノ瀬アザトを気遣っていた。異形を相手に大立ち回りを演じるだとか銃弾を平然と受けるだとか、そういうアザトの怪物性を無視して。


(引っ込み思案と見える割に胆力と行動力があるタイプか。頼もしい、と感じるのはまだ俺の感覚が姉さんの力に追いついていないから、なんだろうな)


 ……そうだね。でも私は、アザトくんにとってはできるだけ使いたくない切り札、でしょ。だったら、頼もしい仲間は大切にしたほうがいいよ。これから異形は、アザトくんに復讐しに来るだろうし、現実改変で異形を消すのはしたくないでしょ?


(一片の曇りもなく肯定だ)


 姉とそんなことを相談しながら、しばしアザトはタオル越しに自分の頭をなでるサクラの手に、姉の手の感触を重ねるのであった。

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