鬼の悪夢

 竜神家で何の祝いかまるで見当もつかない赤飯など御馳走になった一之瀬アザトは自室に戻るなり、布団に倒れ込んだ。


 ……大丈夫?


(昔を思い出すな。俺が不貞寝していると、姉さんはいつもそう言っていた)


 心配げに尋ねる姉にそう返しつつ、アザトはそのまま目を閉じた。


 ……おやすみ。


(ああ)


 深呼吸を幾度か繰り返すと、まどろみはすぐにやってきた。



「おはよう、父さん、母さん」


 寝ぼけ眼をこすりながら、アザトは両親に朝の挨拶を飛ばす。


「ああ、おはようアザト。ルイはどうした?」


 いつもならアザトを起こしてリビングまで引っ張ってくる役割の姉、一之瀬ルイは、その日に限って起きてこなかった。


「吐き気がするんだって」


 その吐き気の意味を、誰も、誰一人として正しく理解していなかった。


「そうか。母さん、任せていいか」


「ええ。心配せずに仕事に行って大丈夫よ」


 だから、誰も、あんなことになるとは思っていなかった。


「行ってきまーす」


「行ってきます」


 一人分の席が空いた朝食を終え、身支度を整えたアザトと父親が家を後にする。そんな、どこの家庭にもありそうな、いつもの光景。


 水面下で狂っていた歯車は、まだ、その光景を破壊するには至らなかった。



「姉さん、」


 学校から帰ったアザトが、母親からまだ姉が不調を訴えていると聞いて見舞いに行ったとき、崩壊は、始まった。


「殺して……」


「え?」


 はじめ、アザトは聞き間違いだと思った。姉が死にたがるような理由は、アザトには何一つとして心当たりがなかったから。


「お願い。私を愛してくれるなら、殺して。殺して証明して……」


 ルイはアザトにすがりつき、涙を流し、哀願する。自らの死を。


 アザトは、しばらくの逡巡ののち、姉の首に手をかけた。


「ありがとう……」


「ごめん。俺、力強くないから……一瞬ってわけにはいかない」


 涙は、まだこぼしていなかったはずだとアザトは記憶している。


「いいの……アザトくんの手で、終わりたいから」


 涙を流しながら、それでも作り上げた精一杯の笑顔で、ルイは最後の一言を発し、そして……。


 枯れ木を手折るような簡単さで、アザトの手でその命は折り取られた。


 何もかも、アザトの記憶のまま、姉を殺した呪わしいあの日を、夢に見た。



 だが、いつもならそこで眠りが終わり、嫌な汗をかいて飛び起きるはずのアザトは、まだ夢の牢獄から解放されなかった。


 見上げれば、そこには、光、いや、ただの光ではないナニか。何かが、あった。


「ごめんね……」


 その何かは、アザトに分かる言葉で、アザトにとって馴染み深い声で、謝った。


「謝るな。姉さん。姉さんが謝るなら、俺は何のために姉さんを殺したんだ」


 未だに悪夢に見るほどの苦痛を弟に強いた姉の謝罪を、しかし弟は拒絶する。


「そうだね。ありがとう、っていうべきかな。あと、おめでとう、かも。アザトくんが私を殺したことは、地球人類すべての利益になってるみたいだから」


 次の姉の言葉は、弟にとって謝罪以上に受け入れがたい物であった。


「はっ、そいつはいい。姉さんは全人類のための尊い犠牲になったってわけだ。全人類のために殺人を犯した俺はさしずめ英雄さまってか」


「うん。そうだね」


 淡々と悍ましい事実を告げる姉に対し、アザトは、吐き気を堪えつつ自身の偏愛を告白した。


「人を馬鹿にした話だ。俺は全人類より姉さんの方が好きだから、法律より倫理より姉さんの頼みを優先したんだ。それが全人類のためになっちまったら、まるで俺が姉さんより全人類を選んだみたいじゃないか。胸糞悪い!」


 怒鳴りつけたアザトはその自分の声で目を覚まし、窓の外の白んだ空を見て二度寝を諦めるのであった。

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