鬼の喧嘩
踏み込んだ竜神ナガレは振りかぶった右拳を一之瀬アザトの顔面に打ち込み……。そこで、ナガレの世界は反転した。
「か……」
突進の勢いを利用され、投げ飛ばされた。そのことにナガレが気づいたのは、アスファルトに背中を叩きつけられた直後だった。
そんな技量が、何故アザトのものとなっているのか。
人一人斬れば、初段の腕などと言われることがある。アザトは既に80近い異形を、守護霊の支援を受けながらとはいえ素手で仕留めている。投げ飛ばし、殴り、蹴り、およそ無手でなしうる戦闘方法を圧倒的不利の状況で実践してきているのだ。
「失礼。お望みは一方的に俺を殴ることではなく喧嘩であると勝手に判断し、抵抗いたしました。誤解であるならば言ってください。抵抗をやめます」
挑発的ですらなく、あくまで相手に誠実であろうと確認するその態度は、逆説的にナガレを徹底的なまでに挑発した。
「上等だ!」
飛び起きたナガレはしかし怒りに身を任せることなく、油断なく拳を構えじりじりと間合いを詰めつつボクシングにも似たジャブを繰り出す。
アザトは、それを防がず顔で受け、ナガレの腹に痛烈なボディブロウを返した。
その一撃はナガレの鍛え抜かれた腹筋を撃ち抜き、内臓にまで衝撃を与えた。
異形の群れが繰り出す即死級の攻撃の驟雨にさらされたアザトは、本人も知らないうちに牽制打を意にも介さない胆力を身に着けていた。
「ちっ……俺も焼きが回ったもんだぜ……」
体をくの字に折って嘔吐したナガレは、口元を拭いつつ吐き捨てた。それを見下ろし、アザトはあくまで丁寧に問いかけた。
「御尊父、今しばらく、楽しまれますか?」
あくまでこの喧嘩は男同士の娯楽に過ぎないという態度を崩さないアザトに、ナガレは屈辱という感情すら遠い敗北を感じた。
「いや、やめておこう。若造相手に情けない話だが、勝ちの芽が見えねえ」
その言葉を聞いたアザトは、ナガレの腹にそっと手を触れた。
(姉さん、御尊父の傷を頼む)
……任せて!
アザトの一撃でいくつかの小さい血管が破れたナガレの腹部は、人撫でで完全に無傷の状態に戻された。
(徐々に姉さんの力を借りることに抵抗がなくなっている気がする)
……私は嬉しいけどね。
少しずつ人倫を忘れ、それを恐れる自分と、それを喜ぶ姉という板挟みに顔をしかめたアザトは、しかしそれを噛み砕いて胃の腑へ落とす。
今は、一人でうじうじと悩んでいていい場面ではない。
「御尊父、痛みのほどは」
「奇妙なくらいに引きやがった。……ありがとな。何かしたんだろ」
勘のいいナガレに、あえてアザトは肯定も否定もしなかった。
「礼などは無用に願います。自分で殴っておいて礼を受けてしまえば、マッチポンプもいいところ。身の置き所が無くなります」
それを受けたナガレは、くつくつと笑った。
「それもそうか。全く、老けたガキだ……」
ナガレの言葉を、アザトは全く否定できなかった。
「さあ、晩飯にしよう。食って行けよ」
どこかさっぱりとした表情で、ナガレはアザトの肩に腕を回した。アザトが同じことを返したとすれば、肩を組んでいる姿勢になるだろう。
「ご厚情、痛み入ります」
が、肩を組みあうほど人と距離感を近づけることができるわけでもないアザトは、ただナガレの行為を肩でしかと受け止めるにとどまった。
「遠慮すんな。もう息子みたいなもんだろ」
そう言ってからからと笑うナガレの意図を、アザトは理解できなかった。
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