鬼の奮迅

 前方から迫る、顔面に致命的な損傷を負ったツバキ、既に背中に肉薄している、無傷の異形。一撃でツバキの意識を刈り取ることに失敗したアザトを待つのは、挟撃による逃れようのない死。


 一ノ瀬アザト、ここに死す。償いも、一人の少女の愛に応えることも、何もできず、ただ罪だけを重ね、悪行のみを積み上げて。


(そんな最期は……)


 ……アザトくん……。


(そんな無責任な終わりは……)


 アザトは、時計回りに旋転しつつ右の裏拳を振り抜いた。


「誰よりも俺が、俺自身に対して許さない!」


 異形の頭を西瓜のように砕いた右裏拳の手応えが神経を伝って脳髄に伝わる僅かな時間、後方から踏み込んできたツバキの拳がアザトの背面に迫る。


 通常、人間の背中は存外に硬く、訓練を受けていない女性であれば刃物があっても致命傷を与えるのは難しいとされる。一般的な筋力の持ち主であれば。


 しかし、今のツバキは人間と呼べるのかも怪しい状態にある。


(姉さん、防御を切ってくれ!)


 その窮地にあって、姉の支援を断ち切ればどうなるか。


「ぐっ……!」


 ツバキの拳は、アザトを背中から貫いた。


「とった……! 姉さん!」


 アザトは自分の腹を貫いたツバキの腕をつかみ、握りつぶさんばかりに力を込めて姉を呼ぶ。


 ……うん!


 その好機を逃す守護霊ではない。即座に、アザトという端末を介してツバキというハッキング対象に接続、その情報を改竄する。


 その内容は、情報量は、アザトが理解、いや、認識できる領域すら凌駕していた。


 その現実改変ともいうべき、竜神ツバキという存在の再構成は、厳密零時間のうちに行われた。


 アザトがそれを認識できたのは、それを実行した姉と同じ存在になり始めていたからなのかもしれない。


 存在の始まりから、意味、そして現在の負傷状況に至るまで、全てを一度『なかったこと』にして最初から『そうであった』と定義する。


 異形が作り出した何らかの道具から、ただの人間へと、過去から現在、未来に至るあらゆる因果を書き換える。


 アザトは、そんなことができる姉の、守護霊の力に、初めて恐怖した。



「先輩……いつまで待たせるんですか?」


 気が付けばアザトは、ほんの十数秒前と同じように、ツバキの横に立っていた。


 そこには先ほどと全く変わらない、キスをねだる姿勢のままのツバキがいる。


 先ほどと違うのは、どれほど周囲に耳をそばだてても、足音が聞こえないこと。


 異形が、あの人型の異形が、来ないこと。


 それは望ましいことのはずだった。喜ばしいことのはずだった。


 それなのに。


「先輩、なんだか、顔、怖いです」


 アザトは、どうしても恐怖をぬぐうことができなかった。


「なんでも……ないんだ……少し、緊張してしまってな」


 誤魔化したつもりのアザトの言葉は、果たしてツバキを納得させたかどうか。


 しばしば甘いと称される口付けの味は、なぜかひどく苦かった。

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