外伝2 一歩進んだ後
失敗した、と思う瞬間は誰にだってあると思う。
それは、例えば大事な日に寝坊した時だったり、あるいは試験でしょうもないミスをした時だったり、もしくは友人を傷つけてしまった時だろう。
だが、それはある意味仕方ないことなのだ。人は失敗をするものであり、大事なのは立ち上がって歩き出すことだ。もちろん、だからといって失敗の誤魔化しや言い訳にして良いというわけではないのだが。
だから、私もそろそろ向き合おう。今、私は布団から上半身を起こしたところで、身につけているのは、はだけた浴衣が一枚。
そして――すぐ隣には同じような格好のアインがまだ寝息を立てている。
「…………やっちゃったぁ」
未だふらつく頭をそのまま枕へと倒し、どうしてこうなったのか私は思い出していた。
その日、私達は冬の温泉地を訪れていた。凍える風が肌を刺すような寒い季節だったので、どちらから言い出すでもなく次の目的地がそうなっていたのだ。
大陸の東寄りに位置するその村は、規模こそ小さいが村全てが宿というべき宿泊地で、当然のように温泉も湧いている。その中で私達の目を引いたのは、何時かに訪れた武家屋敷のような宿だった。
「ここ、良いんじゃないですか? 個室温泉なんて素敵な響きです」
「個室温泉ねえ。確かにすごい贅沢な感じね」
「ちょうど報酬ももらったばかりですし、贅沢のしどころですよ」
「そうね、そうしましょう。お金は使いたいと思ったときが使いどきよ……っと、雪も降ってきたしね」
差し出した私の手のひらに、綿のような雪が舞い落ちると、すぐに水へと戻っていく。暗くなり始めた空を見上げれば、虫のように小さな雪が覆い尽くすように舞っていた。
「この調子だと積もるかもね」
「積もる雪ですか……私は見たこと無いので楽しみです」
「ユウはそういう街生まれなんだっけ。どんなふうに冬を過ごすのかしら」
「わかりませんが、私達が羨ましいのは間違いないですよ」
温泉と食事が楽しみで仕方ないとそわそわした様子のアインに肩をすくめ、私は宿の戸を叩いた。
出迎えてくれた女将に宿泊の旨を伝えると、少し驚いたようだった。まあ、普通ならこの年齢の女性二人が出せる宿泊費ではないし、無理もないが。
「お部屋はこちらです。何かあれば遠慮なくお呼びください」
案内してくれた女将にお礼を言って、私達は部屋に踏み込む。何度めかになる畳敷きの部屋だが、この部屋もエドゥの温泉に劣らない中々の部屋だ。しかし、その中央には見慣れないテーブルがあった。
「これは?」
女将に訊ねると、それはコタツという暖房器具だという。足の低いテーブルは、床との隙間を分厚い幕で覆い隠されており、その中に足を突っ込むのだそうだ。
「熱源には赤い宝石を使っているんです。魔術師さんから購入したものなので、原理は私達にはわかりませんでしたが……ただ、使い方は簡単です。足を入れていれば段々温まってきますよ」
「なるほど」
「と、長々と申し訳ありません。ごゆっくりと過ごしてくださいね」
一礼して去っていく女将を見送り、私とアインは早速コタツに足を入れてみる。中は人が居なかった部屋と対して変わらない冷たさの空気だったが、
「おお、なんだか温まってきましたね」
「人の魔力に反応して起動しているのかしら」
ほぼ密閉された空間ということもあり、発せされた熱ですぐに温まってくる。そして、その温もりが中々に心地よい。ストーブの前でじっとしているのとは全く異なる未知の感覚だ。
これは、寝転がってしまえばさらに気持ちが良いのでは。
そんな考えが脳裏に浮かぶが、それは流石に行儀が悪いと思い直す。いくらアインしか居ないとはいえ――。
「……気使わせたのかな」
それまで共に旅をしていた二人の友人は、自分たちの目的を果たすために一時別れていた。その理由に嘘はないだろうが、気遣いが無いというのは嘘になるはずだ。とくに、あの青年は私とアインのことを気にしてくれていたから。
それを考えるとこうして彼女と二人で過ごすことに申し訳なさを覚えることもあるのだが、まあそれはそれだ。悩んでつまらない時間を過ごすことを私も彼らも望んでいない。だったら、楽しい時間にしたほうがよほど有意義だ。
うん、と私が思考を切り替えていると、伸ばした足に何かがぶつかった。正面を見てみると、座椅子に座っていたはずのアインの姿がない。
ということは、
「……あんたは遠慮しないわね」
「うん……なんですか……?」
立ち上がって覗き込むと、ザブトンを枕代わりにしたアインが横になっていた。既に眠いのか、返す声も胡乱だ。
私は、彼女の隣に移動する。銀髪を撫でてやると、彼女は気持ちよさそうに息を吐いた。
「来てすぐに寝るのは勿体無いんじゃない?」
「けど……外は寒かったのに……ここは楽園で……」
「だったら尚更寝ぼけて過ごすのは勿体無いと思うけど? 温泉に入りながら温泉卵を食べて、酒を呑むのだって良いわ」
「あれ……良いんですか……前は叱ったのに……」
「あれは……まあ、たまには良いでしょう。私が見ていればね」
「なるほど……じゃあ……起きます……」
のっそりと起き上がったアインは、犬のように大きな欠伸をした。目元を拭う動作もなんだかそれらしくて、つい吹き出してしまう。
「どうしました……?」
「なんでもない。ほら、しっかりしなさいって。温泉に入る前から気を抜いてたんじゃ溺れるわよ」
ふぁい、とアインは大きな欠伸を返事にして立ち上がった。
「良い……とても良い……このまま雪のように溶けてしまいそうです……」
肩までお湯に浸かったアインは、文字通り溶け切った声と共に白い息を吐き出す。ずるずると乳白色のお湯に沈んでいくのを見ていると、本当に溶けているみたいだった。
「冷たい空気の中で熱い温泉に入る……思えば贅沢なものね」
吐く息は白いが、お湯の温もりのおかげで寒さを感じることはない。岩肌に背を預けて上を向くと、屋根と仕切りの間から雪が舞い落ちるのが見えた。故郷ではすぐに溶けてしまう雪がこんなに降っている。それを眺めながら温泉に入るというのは、考えてみると不思議だった。
「……」
「……」
私達は、ぼうっと降り続ける雪を眺めていた。会話のない無言の時間だったが、不安になることはなかった。今の気持ちをわざわざ言葉にしなくともわかっているのだから、敢えて言う必要もない。それだけなのだから。
ただ、まあ。言葉にする必要がないというか出来ないというか。そういうのもある。具体的には、
「……はぁ」
目を閉じて息を吐くアインの横顔が可愛いとか、項から首筋にかけてのラインに妙にドキッとするとか。そういう事は思っても言わないのが懸命というものである。一歩進んだ関係になったと言っても、そのへんの線引きは大事だし。
だけど、
「……ん」
手を握るくらいは、いいだろう。『これくらい』と言いたいが、反応に緊張してしまう自分が情けない。
アインは、水面下にある握られた手へと目を向け、次に私へと向ける。どうすれば良いのかと考えている風だった彼女は、ふっと微笑むと握られた手に指を絡めて握り返してきた。そして、肩が触れ合う距離まで近づいてくる。
「……ふふっ」
「……あによ」
訳知り顔でこちらの顔を覗き込んでくるアイン。以前なら何もわからないというように惚けた顔をしていただろうに、何時からそれがわかるようになったのか。
それがちょっとだけ腹立たしくて――どうしようもなく嬉しかった。勝手にニヤけてしまう口元を隠すために、深く湯船に沈み込む。
「ラピス」
「……」
「良いですね、こういう時間は」
感慨深そうにアインはつぶやくと、そのまま体を私の肩へと預ける。お湯の熱に紛れてわからないはずの彼女の熱が、はっきりと伝わってくるような気がした。
まあ、そんなことがあったせいで私は浮かれていたのかもしれない。湯上がりの気持ち良さにやられてもいたのだろう。
だからだろうか、コップに注がれているのが水ではなく酒だったことに気が付かず、アインが慌てたときには半分を呑み込んでしまっていたのだ。
「ラピス、水です! とりあえずこれを飲んで!」
慌てたアインが差し出すコップを――受け取ったのかもわからない。そんな気もするし、そうじゃなかったかもしれない。酷く酒に弱い私は、その時点でもう視界も思考もふらついていた。
そして、ふらついた者は支えを求めるものであって。ちょうどよい人物がそこにいると、倒れるようにしなだれかかった。
「ラピス!」
そんな大声を出さなくても大丈夫だと伝えたかったが、声を上げるのも億劫だった。それよりも、触れた彼女の熱とか感触とか匂いとか――そればかりに気を取られていた私は、強く彼女を抱き締めた。
「ラ、ラピス……くすぐったい……」
首筋にすりつく私から身を捩って逃げようとするアイン。その困った顔をする彼女が可愛らしくて、つい意地悪したくなってしまった。
「こうされるのはいや……?」
「嫌じゃないですけど……照れますから……」
「わたしも……」
「だったら」
「いーや」
私は、笑って飛びつくようにさらに体を預ける。支えきれなくなったアインが背中から畳へと倒れ込んだ。
「ラピス……落ち着いて……」
「うんかんがえておく」
「考えるだけでは……」
何か言ってるようだけど、その意味まではわからない。湯上がりで疲労し、アルコールで弛緩した体は休息を欲し始めていた。自然と下がってくる瞼と訪れる眠気に堪えることが出来ず、それを受け入れる。
「手……にぎってて……」
意識を手放す直前、触れた手を強く握りしめ――そこで記憶が途切れた。
「……はっずかしい」
ここまでの経緯を思い出した私は、心底からそう呟いていた。いっそ記憶まで飛んでしまえば良かったのに。
だが、過ぎたことは仕方ない。気持ちを切り替えてまずは身支度を――。
「うん……?」
立ち上がろうとしたところで右手に引っ張られるような抵抗を感じた。見てみると、アインの右手が絡むように私の手を握っている。
「……もう、変なところは真面目なんだから」
それとも、私の頼みだから?
そんなことを考えてしまったせいで、肌寒い朝だというのに顔が熱い。まあ、寒いからきっとちょうどよいだろう。
「たまには寝坊もいいでしょう」
私は誰に言うでもなく呟き、出かけていた布団へと戻る。中は少し冷えてしまっていたが、すぐそこにちょうど良い熱源がある。
静かに寝息を立てるアインを抱き寄せると、彼女はもぞもぞと頭を動かしていたが起きる気配はない。さらに抱き寄せて体が触れ合うと、その熱に安心したように動きを止めた。
「本当に犬みたい……」
空いた手でアインの髪と頭を撫でると、再び睡魔がやってくる。冬の日の布団は魔物よりも手強く、直ぐ側には大好きな人がいる。だったら、身を任してしまうのも良いだろう。
「今日も……よろしくね……」
ふわふわとした温もりの中、私は瞼を閉じた。
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