第131話 涙を流すのは明日のため
明日の決戦に向けて、アイン達は早めに床に就くことにした。テーブルを部屋の端に寄せ、左端からツバキ、アイン、ラピスと布団を並べて横になる。
どんな時でも寝付きの良いアインは布団に入ってすぐに。不安があっても眠るコツを知っているラピスは10分後に寝息を立てていた。
しかし、ツバキだけは数分おきに寝返りを繰り返しており、未だに止まる気配がなかった。
「眠れないか?」
枕元に置かれたユウは、小声で喋りかける。
ツバキは、被っていた布団から顔を出す。大きな耳は、彼女の心情を代弁するように萎れていた。
「すまぬな。どうにも落ち着かぬのだ」
「何か気がかりなことでもあるんじゃないか? 眠れないなら付き合うぞ」
「しかし……」
「俺もまだ眠くないんだ。自分の頭の中だけで考えているより、誰かと話したほうがすっきりするぞ」
その言葉にツバキは少し考えていたが、やがて小さく頷くとユウを手元まで引き寄せ、
「おお?」
自身の隣に横たわせる。まるで添い寝のような体勢に思わず声をあげるユウに、ツバキは不思議そうな顔をした。
「なんじゃ、素っ頓狂な声を出しおって」
「んや、なんでもない。なんでも」
ユウは口ではそう言いつつも、すぐ間近にあるツバキの顔に声は自然と上ずっていた。はだけた襟から見える細い鎖骨から目を逸らすが、先日見た素の笑顔を思い出してしまい動揺は収まりそうもない。
こんな時ばかりは剣で良かった。赤くなった顔を見られないで済むから。こんなところで見栄だの意地を見せても仕方ないが、そういうことを気にしてしまうのが男というものだ。
「照れておるのか? 純なやつじゃのう。こういう経験は無いのかえ?」
そして、狐はそういうところを突っついてからかってくるものである。
一瞬言葉に詰まったユウの、
「ノーコメントだ」
白状したも同然の発言にツバキは声を噛み殺しながら小さく笑う。
彼女はひとしきり笑ったところで、余り拗ねるなと言って頭を撫でるように柄に指を触れさせる。
「無意味にこうしてるわけではない。アインらを起こしては悪いじゃろ?」
「ラピスはともかくアインは心配するだけ無駄だけどな。朝になるまで絶対に起きないぞ」
「だとしてもじゃよ。まあ、結局方便なんじゃがな」
自嘲するツバキは、声を落として続ける。
「……泣き言なぞ、やたらめったら聞かせるものではあるまい」
「……ナギハとベツのことなら、心配はいらないさ。アインがやると言ったら、それはきっと上手くいく。これまでもそうだっただろう?」
「そうじゃな、それは疑っておらんよ。ナギハとベツは信頼しあっておるし、何があっても大丈夫じゃろうな」
「だったら、何が不安なんだ?」
「不安なんて前向きなものではあるまいよ。これはきっと……後悔や羨望と言うのが相応しい」
深い溜め息と共に吐露された言葉の意味を、ユウは考える。
不安とは、これから起こる将来に付随するものである。何が起こるかわからない未知に不安を覚えるということは、裏を返せば期待しているということだ。
しかし、後悔は既に終わってしまったことに向けられる感情だ。そして、羨望。それは、そうであって欲しかったものに対して抱くもの。
――きっと幸せになるのだと思っていたのに、そうならなかった。
記憶の中で舞い上がったのは、先日聞いたばかりのありふれた――けれど哀しい出来事の一片。
ツバキは独りごちるように喋り続ける。
「お互いを好きあっていた男女がいた。きっと幸福な将来があるのだろうと思っていた。けれど、違った。男は狐に唆されていると周囲から心配され、村から逃れるために嘘をついた。『わかった、彼女を退治するまで村には戻らない』と」
「……」
「そんなつもりはなかった。ただの方便でそう言って二人で逃げ出すつもりだった。だが、それを聞いてしまった女の仲間がいた。人間への疑念を捨てきれなかった仲間は、女を案じて男の前に立ち塞がった」
「……ツバキ。いいんだ、思い出さなくても」
震えた手で柄を握りしめるツバキは、小さく首を振る。そうされては、ユウが今言える言葉はなかった。
「武器をチラつかせたのは、ただの脅し。そのはずじゃった。だが……女の仲間を矢が襲った。心配して男の後をつけてきた親友が、彼を守ろうと放ったものだった。それは、男の嘘を本当にするには十分過ぎた。そうして男と女は誤解をしたまま別れ――真実がわかったのは男と永遠の別離をしてからだった」
ツバキの目に浮かんだ大粒の涙は、頬を伝って枕にシミを作っていく。彼女は大きく息を吸って天井を仰ぎ、振り絞るように言葉を紡ぐ。
「なぁ……どうしてそんなことになってしまったのかな。誰にも悪意は無かったのに、誰もが幸せを願っていたというのに……どうしてナギハとベツのようにはならなかったのかな……」
普段の飄々とした態度は形もなく、ツバキは弱々しい少女の口調で疑問を重ね続ける。
「私が子どもで何も出来なかったから――だから、今の私がなんとかしないと二人もそうなってしまうと思っていた。けど、私が何もしなくても二人は大丈夫だった。じゃあ、あの男女と二人の差は? 信頼の固さ? 種族? 周囲の環境? ……私にはわからない」
それは、ユウにもわからず無言で返すしか無かった。
「同じ信頼し合った男女なのに、同じ幸せを望んだのに……そうなったものとそうでないものがいる。それが哀しくて……羨ましい……」
深い水底から吐き出されたような言葉は、泡となって弾けて消えていく。悲しみもそうやって消えていけばどれだけ楽だろう。
ツバキは、目元を腕で隠しながら啜り泣いていた。もっと声を上げて泣き喚いてしまいたいだろうに、眠る二人を気遣って声を殺して涙を流している。
本当に優しい狐だ、とユウは思う。
誰よりも人をからかって、誰よりも人を見守り、誰よりも人を案じ続けた。そんな彼女が泣いているのは、理屈や理論ではなくただ嫌だった。彼女が願ったように、彼女自身も笑っていて欲しいのだ。
「……上手く言えないけど、誰も悪くなかったんだよ、きっと。誰もが正しいことをして、けれどその時は噛み合わなかった。ただ……間が悪かったんだ」
「間が悪かった……けど、それでは……正しさが結果に結びつかぬなら……正しいことの価値が無いではないか……」
「価値がなくても意味はある。その時は結びつかなくても、何時かはきっと……」
ユウが言葉にしたそれは、答えではなく願望に近かった。
正しいことが全て報われるわけではない。正しいことが最善ではないことだってある。それは理解している。
それでも、そうであって欲しいと願い行動しなければ叶わない。例え星に手が届かなくとも、伸ばし続けなければその過程にあるものまで取りこぼしてしまう。
正しいことを為したのなら、それに相応しい結果を迎えて欲しい。ツバキが願ったそれを、ユウも願っているのだ。
「例え結果が間違っていたとしても、人を思う気持ちは間違いじゃない。それを否定してしまえば、次は全て間違えてしまう。だから……ツバキがナギハとベツに向けた思いは絶対に無駄なんかじゃない」
「……ユウ」
「だから、ええと、あまり思いつめるな。過去はもう変わらないけど、今と明日はどうにでもなるんだ。笑って過ごしたほうがきっと楽しいさ」
それが、ユウが言える精一杯だった。
言葉を聞き終えたツバキは涙を拭い、ぼんやりと天井を見上げていた。遠くを見るような瞳は、過去と未来、どちらに向けられているのだろう。
それがしばらく続き、ユウが声を掛けようとした時、彼女は寝返りを打って隣に置かれた彼と視線を合わせる。大きな緑色の瞳には、もう涙は浮かんでいなかった。
「うむ、そうじゃな……お主の言う通り、笑っていた方が楽しいな」
「……そうだな、きっと違いない」
薄暗い部屋でもツバキが笑っているのがはっきりとわかった。
安心した声をあげるユウを彼女は軽く叩いて言う。
「心配をかけたが、もう平気じゃよ。それと」
「誰にも言わないよ。それくらいの気遣いは出来るさ」
「……うむ。ありがとう、ユウ。おやすみなさい」
安らいだ声で言って、彼女は目を閉じる。泣いたことと安堵したことで緊張の糸が切れたのか、すぐに寝息が聞こえてくる。
ユウは、その表情が明るいことに再び安堵の息をこぼし、
「さて……誰が一番早く起きるかな……」
この添い寝状態をアインとラピスに見られたら何と言い訳しようと頭を悩ましていた。
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