第119話 狐が願うもの
「ここが温泉の素となる泉――龍の泉です」
小休憩後、ベツの案内で泉までやってきたアイン達は、目の前に広がる景色に歓声を上げる。
「透き通って綺麗な水ですね……」
「本当ね。結構大きいのに淀んだ感じもしないし」
「なるほど、ここが
現在アイン達が立つ場所は、草花が咲き乱れる広場のような空間で、それに埋もれるように木製のベンチがあった。展望用なのだろうが、おそらくここに来るものが少ないので放置されているのだろう。
泉は50分程度で一周出来るくらいの大きさで、その周囲を細い遊歩道が囲んでいる。その外側には深い森が広がっており、遊歩道が人の手を入れたか否かの境界線のようだった。
ベツは嬉しげに声を弾ませて言う。
「綺麗なところでしょう? 日が落ちると夕焼けが反射してもっと綺麗になるんですよ」
「それも見てみたいですね。まあ、それは仕事の後ということで」
「っと、そうでした。では、近くに行きましょう」
ベツが先頭となり草をかき分け、アイン達は水辺まで近づく。静かに揺蕩う水面は、底まで見通せると錯覚するほどに透き通っていた。
「……」
アインは陽光を照り返す水面を、目を細めながらじっと見つめていた。素直に自然の美を堪能しているのではく、何か考えているようだ。
ベツは、泉の端に作られた水路を指して続ける。
「水は、ここから水路を通って宿の近くに作られた大釜に貯水し、それを沸かして温泉としています」
「あれ、けど村には井戸も無かった? これだけ水があるのに、わざわざ井戸を使ってるの?」
泉であるということは、水が湧き続けるということだ。絶対量が少ないならともかく、この大きさと村の規模なら生活水としても十二分に事足りるだろう。
ラピスの疑問に、ベツは頭を掻いて答える。
「泉の水は一応洗濯ぐらいには使ってるんですが、炊事や飲用には使えないのでそのための井戸なんです。面倒ですけど、そうするしかないので」
「ほう? 何かしきたりでもあるのか?」
「いえ、もっと単純な理由です。あの水、マズイんですよ」
「マズイ?」
しゃがみ込んで泉を見つめていたアインは、予想外の答えに顔を上げて訊き返す。
ユウも、その回答は予想していなかった。綺麗であることと味はイコールではないが、にわかには信じれない。
その空気を察したのか、そうですよね、とベツは苦笑していた。
「正確に言うなら、飲むと体調を崩すので皆も飲みたがらないんです。それは、水を使って調理したものも同様で」
「体調を崩すって、どんな風に?」
「コップ一杯なら『少し怠いな』くらいなんですが、一日飲み続けると内側に重いものが溜まるというか……大きさの合わない服を着ているような圧迫感がする、って感じでしょうか。そうなると怠さで歩くのも困難です」
「……かなりヤバい水ってことじゃないの、これ」
ラピスは言って、泉に目をやる。
先程は綺羅びやかさに目を奪われた光景だが、それを聞くと何かが潜んでいるように思えてくる。よく見れば、魚はおろか水草も生えていないことがよりいっそう不安を煽る。
過ぎるほどに綺麗な泉に疑念の目を向け始めた一行に、ベツは慌てて弁解する。
「た、確かに飲むのは良くないですが浸かる分には何も問題ありませんよ! 飲むと駄目な温泉だって結構ありますし、その類のものですよ!」
「まあ、それはそうですが……」
薬が毒になり、毒が薬になるように扱い次第で効果が真逆になるものも多い。飲用すべきではない温泉があるのも事実だ。
しかし、それはそれとしても、やはり気になる。どうしてこの泉はここまで澄んでいるのか。生き物はいないようだが、死の泉という気配がしないのは何故なのか。
考え込むアインにベツは言う。
「それに、騎士団が言っているのはハシンの成分です。本当にハシンが含まれているなら、飲むだけでなく浸かるだけでも効果があるはずでしょう?」
「気になることはあるが、ここは此奴が言うとおりじゃろ。泉が気になるなら依頼を終えてからにすれば良い」
「……ですね。一先ずは迫った問題から解決しましょう」
アインはそう言って立ち上がり、思考を切り替える。
まずすべきは、ハシンが周囲に自生していないか調べること。そして――。
『アイン?』
不意に冷めた顔をする彼女に、ユウは思わず声を掛ける。
その表情そのものは珍しいわけではない。悪党を前にした彼女はそんな顔をしているからだ。しかし、今回は敢えてそんな顔をした。そんな風に思ったのだ。
その顔のままアインは、ユウに答えず、
「一ついいですか。昨日、ここ一ヶ月で村を訪れた騎士団関係者は一人だけと言っていましたね」
「そうですが……」
「その一人とは、ナギハさんのことですか?」
ベツは驚いた顔をして答える。
「その通りです、よくわかりましたね。けど、それがどうしました?」
「いえ、ちょっと気になったので」
アインは言って、ラピスとツバキの顔を見やる。ラピスは神妙な表情で、ツバキは小さく溜息をついて頷いた。
彼女は、不思議そうな顔をしたベツに向かって言う。
「探索は4人別れて行いましょう。日が落ちる前には、ここに集合するということで構いませんね」
「あ、はい。わかりました……」
「では、そのように。ああ、ツバキ。彼も連れて行ってください」
それぞれが探索に行こうとしたとき、アインはツバキを呼び止めると、その手にユウを握らせる。
その行動に少なからず驚くツバキだったが、
「……そうさせてもらう。すまんな、アイン」
自嘲気味に笑うと、尚も心配そうな顔をするアインに向かって言う。
「なんじゃそんな顔しおって。我の方が年上なのだぞ?」
「そうですが……」
「心配するな。我は御主らよりも含蓄あるつもりじゃよ」
では、また後で会おう。
ツバキはそう言って、アイン達から背を向け歩きだす。草木が生い茂る森に進んでいく彼女を、アインは目を伏せて見送った。
「大丈夫か?」
聞こえるのは吹き抜ける風とそれに揺らされる木々。この場にいるのは、木の根元に座り込むツバキと彼女の腰に提げられたユウだけだ。
訊ねられたツバキは、枝の天井から見える空を仰ぎながら答える。
「何のことやらわからんな……などと言っても無駄か」
「そりゃあな。俺を預けたってことは、傍にいてやれってことだしな」
ツバキは人より遥かに長命なフクスであり、若干17歳でありながら見かけ以上の知識と含蓄がある。それは嘘ではない。
しかし、それでも本質は17歳の少女なのだ。目の前で人が死ねば動揺し、理不尽を全て受け入れられるほど老成もしておらず、現実と理想のギャップに悩むこともある――普通の少女なのだ。
その点で言えばアインと何も変わらない。だからこそ、彼女も傍にいるように頼んだのだろう。
自分が出来ることはそう多くないが、それでもやるだけやってみようではないか。
「悩みがあるなら聞いてやるぞ。聞くだけ以上は出来ないけど、壁に話しかけるよりはマシだろ」
「……そうじゃな。壁は何も答えてくれぬからな」
ツバキはそう言って笑うと、独りごちるように語り始める。
「御主もわかっておるだろうが、今出揃っている情報で考えると一番怪しいのはナギハじゃ」
「まあ、そうなるな」
温泉に違法成分が含まれているという話は、騎士団関係者であるナギハが村を訪れてから浮上した。そして彼女が唯一の関係者ともなれば、怪しいと考えるのは妥当だろう。
ただ、何故そんなことをするのかという動機はわからない。あくまで現時点で怪しいというだけだ。
そうユウが言うが、ツバキの表情は優れないままだった。
「そうじゃな、確かに怪しいというだけじゃ。だが、疑心暗鬼に陥るにはそれで十分じゃろ」
「どういうことだ?」
「ベツも言っておったじゃろ。『村人の中には彼女を悪く言う者もいる』とな。動機がわからなくとも、勝手に作り上げてしまう可能性は十分にある」
「……『あいつは俺たちを売って出世する気なんだ』とか、そういうことか?」
「そういうことじゃ。勝手に都合の良い敵を作ってしまうのではないかと、我は不安なのじゃよ」
物憂げな表情で空を見上げ続けるツバキ。空は、枝に遮られて全景を見渡すことは出来ない。
「なあ、訊いてもいいか」
ユウは、遠慮がちに訊ねる。
彼女がどうして不安なのかは理解した。しかし、
「どうしてナギハのことをそこまで気にする? 知り合いってわけでもないんだろう?」
ツバキとナギハは、宿の前が初対面――いや、ナギハはツバキを認識してすらいないだろう。それなのに、どうしてそんな相手を気にするのかがわからない。
確かに彼女の真意はわからないが、村人が考えている通り私利私欲で村を売ろうとしている可能性だってある。少なくともアインは、その可能性を考えて行動する気だろう。
なのに、ツバキはそう考えていないようだった。ナギハの行動の裏には、必ず何か事情があると信じているようだった。
その理由を問われた彼女は、深く息を吐くと静かに言葉を紡いでいく。
「……そうであって欲しいと思っとるだけじゃよ。顔馴染み同士が対立して、その挙句が悲劇では余りにも悲しいではないか」
「……昔なにかあったのか?」
「なに、ありふれた話じゃよ。好きあった者は必ず結ばれると幼い我は信じていた。なのに、些細な誤解ですれ違い傷つけあった挙句、そのまま別れてしまった同胞がいた。きっと幸せになるのだと思っていたのに、そうならなかった」
その時を思い出したのか、彼女は水底にいるような重く沈んだ声で続ける。
「『あの人のためなら』と言っておった者が『あんな奴なんて』と泣きながら言うんじゃ。お互いを想い合っていたのに、別れても尚忘れられずにいる。そんなありふれている出来事が、酷く理不尽に思えた」
なんてことないすれ違いで傷つけあって、そして当人たちも望まなかった結末を迎える。それは、彼女が言う通り世の中にありふれている話だ。
「だから、それは嫌じゃ。正しいことを為したのなら、それに相応しい結果であって欲しい。そんなことばかりではないとわかっていても、そうあって欲しいのじゃ」
けれど、ありふれていることと受け入れられるかは別の問題だ。死を必ず迎えることがわかっていながらも、人が必死に生きるように『ありふれているから』と諦めたくないのだ。
「ベツがナギハを信じているなら、彼らにとって良い結末になって欲しい。これは理屈では無く――ただの我儘じゃよ」
そう言ってツバキは俯く。
すれ違いで傷つけあった二人。それは、ユウにも覚えがある出来事であった。
「……アインやラピスを気にかけていたのはそのせいか?」
「……それもある。あやつらと旅をするのは面白いが、見ていてどうにも危なかっしい時がある故な。ああ、そう深刻に考えるでない。今のあやつらは、もう大丈夫じゃろう。世話を焼くのは、からかうのが面白いからだけじゃよ」
いつもの飄々とした態度を取って嘯くツバキ。
それは嘘ではないのだろう。実際、アインをからかっている時の彼女は楽しげだ。
けれど、根底にあるのはきっと――。
「優しいんだな、ツバキは」
不意にユウが発した言葉に、ツバキは一瞬呆けるがすぐに声を上げて笑う。
「なんじゃ、今更気がついたか。良いぞ、今なら褒めればやる気くらいは出してやろう」
「ああ、そうしてくれ。いつも助かってるよ、本当にな」
「良いぞ良いぞ。どんどん褒めるが良い」
本音を交えつつ冗談半分に褒め称える言葉に笑っていたツバキだったが、ふっと笑い声を収めると
「……私もそう思っているよ、ユウ」
老獪な言葉で飾ることのない慈しんだ言葉と、年相応の少女の笑顔。それにユウは息を呑み、何を口にすればいいのかもわからなくなる。
大きく綺麗な緑色の瞳に間近で見つめられた彼は、吸い込まれそうなそれを見つめ返すことしか出来なかった。
それが数秒続いた時、ツバキはユウを腰に戻して急に立ち上がると、
「っぷはぁ……。ふふっ、どうじゃ? ドキドキしたか?」
何処か上ずった声で言う。その表情は、ユウからは逆光となり窺うことが出来ない。
出来ないが、
「……人を誑かす悪い狐め」
「狐とはそういうものじゃよ。さて、そろそろ働くとするかの」
照れてるのは、きっとお互い様だ。それなら、まあ引き分けということにしておこう。
足早に歩くツバキに提げられたユウは、記憶に焼き付いた声と表情に動揺を抑えながらそう思った。
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