第116話 狐娘の知らない一面
リュウセンと呼ばれるその村は、長い谷を超えた山中に位置する。周囲を山に囲まれたそこへ至るには、大小の砂利が散らばる道以外にはなく、通常であれば村が存在することすら知られていないだろう。
だが、その村はある一点のみで知る人ぞ知る場所となっていた。
「それこそが、龍の湯ってわけだ」
手綱を握る農夫は、何処か誇らしげに言う。
若い女子三人を乗せているせいか上機嫌な彼は、リュウセンに向かっていると伝えると詳しい情報を教えてくれた。
曰く、かの村の温泉は正確に言えば温泉ではない。龍がその身を清めたという泉の水を沸かしているからだ。
しかし、その効能は本物であり、熱心なマニアや癒やしを求める人々が遠方からも訪れる秘湯となっているのだ。
それを守っているのが守人と呼ばれる職人たちだ。彼らの繊細な温度管理によって、本来であれば温泉と定義されない冷泉が、あらゆる疲れを癒やす温泉として讃えられているのだ。
「なるほど……」
アインは明後日の方を向いて頷いていた。頷いてはいるが、話を聞いていないのは誰の目にも明らかである。
どうせ名物料理は何だろうとか考えているのだろう。こんな態度でも、出会った日のリアクションよりは余程マシなのがなんとも言えない。
ユウが当時を懐かしんでいると、農夫は声を潜めて続ける。
「ただな……最近どうも様子がおかしいんだ。何人か村に行ったはいいが、追い返されたみたいでな」
「ほう、一見はお断りとでも?」
「いや、そんなことは一度も無かったはずだ。それに、理由はわからないが騎士団も村に行っているそうだ」
「騎士団? なんでそんな連中が温泉村に……」
不可解そうに顎に手をやるラピス。
ユウは、ようやく話を聞き始めたアインに訊ねる。
『騎士団って?』
『憲兵の上位みたいなものです。立派な鎧を着て、雄々しい馬を駆って悪党どもを剣で切り捨てる。いざ戦となれば先陣を切って敵の軍勢へと飛び込んでいく……という理想ですね』
『理想ってことは、実態は違うのか?』
『まるっきり嘘ではありませんが、実態は"領主はこれだけの戦力を保持しているんだ"というアピールに使われることが大半で、名声と実力が伴わない騎士団も多いそうです』
『騎士団は庶民が憧れる
『そういうことです。華やかな騎士を庶民は尊敬し、騎士はそれを誇りとして領地を守る……まあ、そう上手くいくことばかりじゃないんですが』
アインは、何か思い出したのか顔をしかめる。
『嫌な思い出でもあるのか?』
『……その、騎士になると何でも許されると思い上がる者もいるんですよ』
『うん、それだけで何があったかわかったわ』
『なっ! まだ何も言ってないじゃないですか!』
『どうせ、絡まれたから叩きのめしたら追いかけられたとかそんなんだろう?』
ぬぐ、とユウの指摘に言葉を詰まらせるアイン。どうやら図星だったようだ。
おそらく非があったのは絡んだ騎士の方だったのだろうが、それに相応しい対応はしなかったに違いない。彼女に"目には目を"という考えは無いのだから。
『失礼な。私だって尊い教えの一つや二つ知っていますよ』
『知っているのと実践できているかは別の問題なんだが……』
『出来てますって。ええと"右の頬を殴られたら左の頬を殴り返せ"ですよね?』
『そんなカウンター技術を尊ぶ教えがあってたまるか』
黙っていれば普通に美少女なのに、とユウは言いかけ、黙っていればそれはそれで誤解をさせるのが彼女だと思い直す。
『ままならないもんだな……』
しみじみと言うユウに、アインはやや憤慨したように訊ねる。
『……ユウさんって、私に対する扱いがぞんざいじゃないですか?』
『それだけ信頼してるんだよ、色々な意味でな』
アインは、無言で鞘を叩くとふてくされたように勢いよく藁束に背中を預けた。
リュウセンに一番近い街に到着したアインらは、ここまで送ってくれた農夫にお礼とチップを渡し、今は宿を探していた。
リュウセンまでは徒歩しか移動手段がなく、そうするには日は既に落ち始めていた。なので、今日はここで一泊し、明日に向かおうということになったのだ。
「屋台の料理美味しそうですね……」
その途中ふらふらと焼き鳥の屋台に行こうとするアインを、ラピスとツバキが手を引っ張ること数回。そうして、ようやく宿を見つけたときだった。
「ナギハ! やっと見つけた!」
宿の前で突然大声をあげた青年に周囲の目が集まる。アイン達も足を止め、何事かと彼を見やった。
黒い癖っ毛に鉢巻のように手ぬぐいを巻き、作務衣を着た姿は銭湯から飛び出してきたようだった。息を切らした表情は、安堵と不安が交互に見え隠れしている。
「……」
その彼にナギハと呼ばれた女性は、宿のドアから手を離しゆっくりと振り返る。その拍子に後ろで纏められた長い黒髪が翻った。
急所を守る革鎧、左腕にはガントレット。腰には細身の剣が吊るされた飾り気のない格好の彼女は、鋭い目で青年を睨みつける。
「何の用だ、ベツ」
感情を殺したように抑揚の無い声で告げるナギハ。それに戸惑ったようにベツは答える。
「何って……その、騎士団の仕事には慣れたかな?」
「世間話なら付き合う義理はない。もはや、そんなことをする関係ではないとわかっているだろう」
にべもなく答えるナギハの身長は、アインよりやや低くベツを見上げる格好となる。にも関わらず、視線に込められた圧力はそれを忘れさせるほどに強い。
「……っ」
思わず怯んだベツだが、拳を握りしめ意を決したように声を上げる。
「話は、村の温泉のことだ。やっぱり、あんな話をいきなりされても納得できない。皆も不信感を持っている」
「それがどうした」
「だから、まずはちゃんと話を聞いて欲しい。そして説明して欲しいんだ」
「それは団長に言ってくれ。私の知るところではない」
「……っ、その団長が全然出てこないんじゃないか! 本当に話を聞く気があるのかい!?」
淡々と答え続けるナギハにベツは声を荒げる。それでも表情を変えない彼女に、
「……ごめん、君が悪いわけじゃないのに」
バツが悪そうに言って俯く。ナギハは、黙ったままだった。
「……痴話喧嘩、でしょうか?」
「でしょうね」
二人の様子を眺めていたアインは、ぽつりと呟く。それにラピスは肩をすくめて同意する。
「わざわざ止めるほどのことでは無さそうだし、行きましょう。ああも陣取られたら宿にも入れないしね」
「そうですね。ツバキ、行きましょう」
アインはそう言って、ラピスの後を追いかけようとし――その場から動こうとしないツバキの肩を叩いて再度呼びかける。
「ツバキ?」
「……」
彼女は答えず、じっとナギハとベツを見つめていた。戻ってきたラピスが呆れたように彼女の腕を引き、
「ほら、野次馬根性を発揮してないで行く――」
言いかけた言葉を飲み込んだ。ツバキの表情は、痴話喧嘩を楽しんでいるようには到底思えなかったからだ。
無言のまま二人を見続けるツバキの表情は、焦燥感に襲われたようにひりついており、両手は硬く握りしめられていた。口元は、苦々しいものを噛み砕いたように引き締められている。
普段見ることのない彼女の様子に、アインは困惑する。
『どうしたんでしょうか……』
『わからん。あの二人と知り合いなのか?』
『あり得なくはないでしょうが……』
しかし、それとは違う気がするとアイン。ユウもそれに同意する。
ツバキは彼女たちそのものではなく、彼女たちを通して別のものを見ている。そんな感じがしたのだ。
アインとユウ、ラピスがツバキの様子に気を揉んでいると、無言だったベツは絞り出すように言う。
「……ナギハ、団長さんに伝えてくれないか。『僕たちはやましいことは一切してないし、温泉も安全そのもの』だって」
「約束はできないが、努力はする」
「うん……十分だよ、ありがとう。じゃあ、またね」
表情を変えないまま淡々と答えるナギハに、ベツは力無く微笑むと彼女から背を向ける。
「……ベツ」
その背にナギハは手を伸ばし、
「……なんだい?」
「いや、帰り道は気をつけろ。何があるかわからないからな」
彼が振り返る前に手を下ろし、それだけ言うと宿の中に消えていく。
ベツは完全に閉められたドアを見つめていたが、溜息をつくと肩を落として歩きだす。
それは、街の日常にあっても違和感のないありふれた光景だろう。
そんなこともあるさ、と心優しいものであれば内心で慰めの言葉をかける程度のなんてことのない
けれど、普段は飄々と他人をからかうツバキが、苦しそうに襟元を握りしめている。それはありふれてもいなければ、なんてことのない出来事ではない。
それが何故なのかはわからない。しかし、その原因が立ち去ろうとしているベツにあることはアインにもわかった。
わからないのは、どうすればいいのかだった。自分は、何をすればいいのか――。
『声をかければいいんじゃないか? 今のアインならきっと出来るさ』
それでいいのか、とアインが言う前に彼は答える。
『後のことは俺やラピスに任せればいい。今更だろ』
――そうか、そうかもしれない。
アインはふっと表情を緩め、小さく息を吸って整える。そして、
「あのっ」
言葉が震えないように気張ってベツの背中に声を掛ける。
不意に掛けられた声にベツは振り返ると、見覚えのない顔に首を傾げて言う。
「なんだい?」
「ええと、その……」
アインは、緊張を抑えるように胸に手を当てて続ける。
「ちょと、顔を貸してください」
それだけ言ってアインは黙りこむ。大半の者がカツアゲの前フリだと思うだろう言葉だが、当人は言うべきことは言ったという顔をしていた。
それにラピスは頭を抱え、気を取り戻したツバキは目を丸くし、ベツは怯え気味に後ずさりし、
『……まあ、成長はしたんじゃないか』
ユウは、精一杯のフォローを投げかけた。
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