第110話 剣には見えぬ湯煙の中で
「ここが温泉宿……」
ようやくたどり着いた目的地に、アインは感慨深そうに呟く。目の前には、年季を感じさせる平屋造の宿があった。
ユウには写真やテレビでしか見たことがない高級旅館であり、アイン達にとってはまったく未知の宿泊施設を前に、彼女たちは興奮した様子だった。
「いいですね、これがワビサビというものでしょうか」
「マツビオサの無骨な屋敷とは違って、ホッとするわね」
「予想よりも上等ではないか、これは期待できそうじゃ」
三人が口々に感想を言い合っていると、
「あら、旅のお方かしら?」
背後から意外そうな声が掛けられる。振り返ると、割烹着を着て箒を手にした年配の女性がこちらを見ていた。
女性はこちらに駆け寄ると申し訳なさそうに告げる。
「ごめんなさいね、ここは決められた人しか泊められない宿なの。一日でいいなら、従業員用の空き住まいを使えるけど……」
口振りから察するにここの従業員のようだ。
「ええと、私たちは、その」
「その決められた人よ。たぶんね」
怯むアインに代わってラピスは答え、手の平に置かれたものを見せる。それは、一見何の変哲もない割れた木板だ。
しかし、それを目にした女性は目を丸くして驚く。
「あらあら……割符を持っているということは、貴方達がお客様だったのね」
「そういうことじゃ。このちっこい奴が勝ち取ったんじゃよ」
一番背の低いツバキは、二番目に背の低いアインの頭を叩いて笑う。
その言葉に、女性は増々目を丸くしていた。
「あらまあ、貴方みたいに可愛い子が……? そんな細い体の何処に入るのかしら」
アイン以外の誰もが気になっていることを女性は言って、咳払いする。
「っと、お客様ならいつまでも立ち話させるわけにはいかないわね。改めて温泉宿『ぷりむら』にようこそ。ゆっくりと疲れを癒やしてくださいね」
「はい、こちらこそ」
「では、こちらへ。案内します」
微笑み先導する女性に従って、アイン達は宿に足を踏み入れる。玄関は広くはないが、狭苦しさは感じない。無駄の無さとゆとりを両立した繊細なものだ。
アインは、廊下に置かれた高そうな壺にぶつからないようビビりつつも、忙しなく周囲を見渡していた。その様子は、上京したての地方民のようで何処か微笑ましい。
「ここがお部屋になります。温泉はこの廊下の突き当りにあります。何か御用があれば遠慮なくお呼びください」
「あ、ありがとうございます」
頭を下げて立ち去る女性にお礼を言って、アインは部屋の戸に手をかける。戸はさしたる抵抗もなく横へ滑っていった。
「へえ……」
「ふむ、なかなかではないか」
ラピスとツバキは、部屋を覗きこんで感嘆の声をあげる。
三人が泊まるには十分過ぎるスペースには、重厚な木製の卓が中央に置かれ、それを囲むように人数分の座椅子が置かれている。
踏みしめた畳は硬過ぎず柔らか過ぎず、擦り切れた箇所は一つもない。窓の襖を開けると、新緑の山と澄み渡る青空が望めた。
アインは、窓から吹き込む爽やかな風に目を細めて言う。
「流石領主御用達というだけありますね……」
「本当ね。これは良い骨休みになりそうだわ」
「ここのタンスにあるのは……なんでしょうか?」
「タオルと……ローブかしら?」
荷物を置いたアインとラピスが部屋を探索していると、
「おい、御主らもはよう用意をせんか」
待ちきれないと言わんばかりのツバキの声が掛けられる。
「用意って、何のですか?」
アインが訊き返すと、
「決まっておろうが。温泉に浸かる準備じゃよ」
彼女は、ニヤリと笑ってそう答えた。
「良い……これは良い……とても良い」
ほう、とアインは気の抜けた声とともに息を吐く。
体を覆うのはかけ流しの乳白色の温泉。上を見上げれば何処までも広がる空。火照った体を冷ますのは、時折吹く柔らかい風。
なんということだ。善人が死後に行き着くという天国とは、こんな所にあったのだ。
「大袈裟……なんて言えないわね。外にある風呂がこんなに気持ちいいとは思わなかったわ……」
アインの隣で、風呂を囲む岩に体を預けるラピスは緩みきった声を出す。普段は引き締められた表情も、温泉の魔力の前には蕩けてしまっていた。
「我も温泉は久々じゃ……はぁ、やはり良いものじゃ……」
ツバキは、耳も尻尾も隠さず完全にリラックスした状態だった。濡れて萎んだ尻尾が、水面下でゆらゆらと動いている。
「ここらに住んでいる人は……毎日温泉に入れるんでしょうか……」
「どうかしら……けど、街中で温泉が湧き出す街は聞いたことがあるわ……」
「羨ましいですね……ああ、そうです。各地の温泉を回ってそれをレポートしましょう……きっと売れますよ」
「いいわね……それが売れた金で温泉付きの家を建てれば、いつでも温泉に入れるわね……」
「夢が広がりますね……」
アインとラピスが思考の緩みきった会話をしていると、含み笑いを浮かべたツバキが割って入る。
「甘いぞ御主ら。温泉の楽しみはこれからじゃぞ」
「なんと……堕落の極みだと思っていたというのに、まだ底があるというのですか」
「無論じゃ。……うむ、しっかり用意されているな」
ツバキはそう言ってお湯から上がると、もう一つの小さな湯船に近づく。湯気が立ち上り見るからに熱そうなそれは、人は入らないようにと忠告された場所だ。
彼女は、竿先に吊るされた籠を引き上げる。中には、白いボールのようなものが幾つか入っているようだ。
「それは?」
「卵じゃよ。いわゆる温泉卵じゃな」
「温泉卵……?」
すぐにわかるぞ、とツバキは楽しげに言うと、用意されていた器に卵を割り入れる。そして、小さなポッドを傾け黒っぽい液体を一回りかけた。
ツバキは、足早に二人のもとに戻るとそれぞれに器を差し出し、
「さあ、食え。これは間違いなく美味いぞ」
「ゆで卵……とは違いますね。固まってはいますが、固まりきってはいません」
アインは、渡された木匙で黄身を破く。とろっと溢れ出した黄身が白身と黒っぽい液体と絡むと何とも食欲をそそる匂いが立ち上った。
「この黒いのは?」
「それは出汁醤油じゃよ。温泉卵にはそいつが合うんじゃ」
「ふぅん……不思議ね。半熟っぽいけど、白身も固まってないなんて」
ラピスがしげしげと掬った卵を眺めていると、隣からの視線に気がつく。
「……」
無言で訴えるアインに、ラピスは苦笑いで答えて木匙を口に運ぶ。それを確認するやいなや、アインも同様に口に運んだ。
「……美味しい」
アインは恍惚とした表情で呟き、すぐさま二口目を運ぶ。
固まりきっていない黄身が、口の中で蜜のように広がっていき、そこに出汁醤油のしょっぱさと香りが効いてくる。
これは、危険だ。幾らでも食べたくなってしまう。夢中になってアインは匙を動かし、瞬く間に器の中身は空となった。
「ただ温泉で茹でただけなのに、こんなに美味しいなんて……」
「そうじゃろそうじゃろ。そこでさらにコイツを飲むんじゃ」
アインは、ツバキの言うままに差し出された猪口を一気に傾ける。
喉からその先へぬるま湯程度の熱さが広がったと思うと、体の奥からじんわりと熱が噴き出してくる。この浮遊感は、お湯に使っていることだけが原因ではあるまい。まさに天に昇る心地だ。
「ああ駄目です……これは駄目になってしまいます……」
体の外も内も心地良い熱に包まれたアインは、お湯に沈むように体がずり落ちていく。表情には、普段は絶えず向けている緊張感の欠片もない。
「ツバキ、何を飲ませたの?」
「酒じゃよ。こちらの酒は米から作るんじゃが、アインも気に入ったようじゃな」
「はい、気に入りました……温泉卵と酒、もう一つください……」
「あんた、酒は強くないでしょ。飲むなら上がってからにしなさい。ほら、髪がお湯についてるわよ」
ラピスは呆れたように言うと、お湯に溶けたようにぐでっとしたアインの体を引っ張り上げる。
既に酔いが回りっているのか、彼女はふらつく頭を支える場所を求めて視線を彷徨わせ、
「こ、こら! 酔っぱらいは風呂から上がりなさいっての!」
一番手近にあり座りの良さそうなラピスの鎖骨辺りに頭を置き、心地よさに目を細める。
顔を赤くするラピスだが、突き放そうにも酔っ払った彼女から離れるとそのまま溺れてしまう危険があるし、何よりも――。
「……ふふっ、気持ちいいですね」
ふにゃっとした笑顔を見せる彼女を突き放すことなど出来るわけがなく、
「ああ、そうね。そうでしょうね……」
結局、熱くなった顔を手で覆い、間近にいるアインから顔を逸すだけに終わる。
それを眺めながら猪口を傾けるツバキは、
「はぁ……いいのう」
乾杯するように猪口を掲げ、満足げに笑った。
一人部屋に残され暇が極まったユウは、
「先生。あの葉っぱが全部落ちた時、俺は死ぬ気がするんです……」
窓から緑葉が生い茂る木を眺めながら独りごちた。
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