第92話 東の国で
「風が少ししょっぱい気がします」
アインは丘の上から景色を望みながら受ける風に、そんな感想をこぼした。丘から続く道の終点には石垣の城壁で囲まれた街が広がり、その先の山越しに僅かにだが水平線が見える。
「あれがエドゥじゃな。東方文化の入り口といったところか」
アインの隣に立つツバキは、懐かしげに言う。
「入り口ですか?」
「そうじゃ。西から来ればまずあの街に最初に至る。故に西方の文化も混ざった独特の街となっておる」
「確かに……建物も見慣れたものに見慣れないものも混ざっていますね」
アインが言う通り、丘から見える街の建物は奇妙だった。
瓦造りの家が固まっている区画があれば木造らしい平屋建てが固まっている区画もあり、その両者が入り乱れている区画も見える。
「あの建物は?」
ユウはツバキに訊ねる。
街並みの中に一際目立つ建造物が二つあった。
一つは周囲を水堀に囲まれ、中心には4階程の天守閣のような建造物が鎮座している。もう一つは、白塗りの塀に囲まれた武家屋敷のような建物だ。
「城のようなものは領主の住まい兼役所じゃ。屋敷は土着の魔術師の家だったか……まあ、よくは知らぬ。どうでもいいじゃろ」
「そうですね、どちらも私達が関わるような相手じゃないでしょう」
それよりも、とアインは言って大きく伸びをする。
「馬車移動ばかりでストレスも溜まりましたし、早速発散に向かいましょう」
「1週間は乗りっぱなしじゃったからな。途中の宿も良いものとは言えぬ」
げっそりとした様子でツバキは口にする。
ここまでの中間点には山ばかりで、村らしい村は少なく馬車の中で一晩を明かすこともあった。
仕方ないとは言え、見知らぬ他人と寝所を同じくするのはかなりのストレスだったろう。
アインは大きく頷き同意する。
「そうです、そうなんです。だから、このストレスは美味しいもので発散しましょう」
「お前は本当単純だな……」
「何か言いました? ほら、ツバキ。案内をお願いします」
「そんなに引っ張らんでもついていけるわい。まったく、子どもじゃのう」
見た目は一番子どものツバキはぼやき、目を輝かせながら手を引くアインと共に丘を下っていく。
ツバキが案内した店は、店先に暖簾がかかった木造建ての飲食店――寿司屋だった。
店内には和服っぽいものを身に着けた客が目立つ。普段なら浮くツバキの格好は馴染み、逆に真っ黒い外套のアインは浮いていた。
珍しい客の姿に目を向ける先客達の視線から逃れるように端の席につき、小さくなっていたアインだが、
「ほう……これがスシですか……」
ツバキが注文した寿司が運ばれてくると、フードを取り払い感慨深そうに息を吐く。
銀髪が珍しいのか、それとも黙っていれば美少女な容姿に惹かれたのか再び彼女に視線が集まる。
しかし、本人は目の前の寿司に集中しているためまったく気にしていない。
「この匂い……なるほど、これが酢飯というものですね」
船の形に握られた酢飯。その上に乗る魚介類は白身魚が中心だが、そこに2貫だけ赤身のものがあった。
白が中心の中に差した赤は特別感をかもし出しており、紅一点とも言えるその正体についてアインは訊ねる。
「これはなんですか?」
「それはマグロじゃよ。腐りやすいせいで海まで行かないと食べられぬものじゃったが、魔術による保冷が発達したお陰で鮮度を落とさずここまで運ばれるようになったのじゃ」
「なるほど……やはり魔術は生活を豊かにするためにあるのです」
自分の手柄とばかりに胸を張るアインに、ユウはぼそりと呟く。
「お前は殆ど暴力にしか使ってないけどな」
「さあ、食べましょう。ええと、ショーユ? につけて食べるのですよね」
そのつぶやきを無視して、アインは箸を手にする。
初めて箸を持つにしては様になっている彼女に、ツバキは感心したように言う。
「随分と器用な奴じゃのう。四苦八苦する様を眺めたかったのじゃが」
「ふふふ……ここに来るまで寝る前に特訓をしていましたからね」
「毎晩何をしているのかと思ったらそんなことをしていたのか……」
「出された料理は相手の作法で答え、笑顔で完食する。異文化交流に大切なことです」
呆れたように言うユウに対して、指を立てながらドヤ顔で語るアイン。
その理屈は間違っていないし、大切というのも事実なのだが、彼女が言うと途端に怪しくなるのは何故だろうか、と思うユウ。
ただまあ、嫌な顔で故郷の料理を食べられるよりは、今の彼女のように上機嫌にしてくれたほうが嬉しいのだし、別のいいのだが。
「では……マグロから頂きましょう……」
アインはやや緊張した声でつぶやき、寿司を箸でしっかりと挟む。そして、皿に広がる真っ黒な醤油に少しだけつけると、一口で頬張る。
気がつけば店内は静まり返っていた。西方からの旅人が寿司に対してどんな感想を持つのか――客達はそれが気になっていた。
静かに咀嚼し終えたアインは、小さく息を吐く。その次に紡がれる言葉を客たちが固唾を呑んで待つ中、彼女は、
「美味しいですね! 生なのに生臭くないですし、このショーユも独特な味ですが嫌ではありません。むしろ良い、とても良い」
満足気に頷くと、すかさず次のネタに箸を伸ばし口に運ぶ。そして満足気に頷く。誰かがほっと息を吐いた気がした。
「気に入ったようで何よりじゃ」
「はい、気に入りました! ありがとうございます、ツバキ」
「……そんな笑顔で言われると、流石にこそばゆいの」
まさしく花が咲いたような笑顔のアインからツバキは視線を外し、湯呑みのお茶をすする。
それにしても、魚の生食に抵抗を覚える人間は現代でも多いというのに、彼女はあっさり受け入れているのが驚きだ。
美味しいと伝えてあるとは言え、普通であれば未知の料理には多少は嫌がるものなのだが。このこだわりの無さは、彼女の美点だろうか。
ユウがそんなことを考えていると、アインはネタの一つを指して言う。
「ところでツバキ。これは何と言う魚ですか? 丸い吸盤? のようなものがついていますが」
「ん、それか? 蛸じゃよ」
「へえ、蛸……」
アインが伸ばした箸は、蛸を掴む直前で止まり、ゆっくりと離れていく。その箸先はわずかに震えていた。その原因は、箸に不慣れなせいではないだろう。
冷や汗を浮かべたアインは、乾いた声で一字一句確認するように言う。
「蛸って……あの海にいるらしい……あの蛸ですか」
「そうじゃよ。なんじゃ、蛸を見たことがないのか?」
「内陸暮らしだったので……いえ、本の挿絵で見たことはあります……ありますが、アレを食べるんですか?」
「食うぞ。歯ごたえと僅かな甘みが美味いぞ」
あっさりと言い放つツバキ。アインは頭を振ってユウに訊ねる。その声は震えていた。
「ユウさん? 嘘ですよね? ツバキが騙しているんですよね? だって、あんなニュルニュルした足が何本もあって、頭が不気味に膨らんだ生物を食べるわけが」
「……残念だが、本当だ。そして俺は食べる文化圏出身だ」
「……そんな」
アインはふらつく頭を両手で支える。余程ショックだったようだ。
日常的に食していた自分には理解できないが、蛇を食べていると言われたような感覚なのだろうかと考えるユウ。
ツバキは狙い通りと言わんばかりに笑っていた。
「いらんのなら我が食うてやるぞ?」
「……い、いえ。食べる、食べます。恐怖を飲み込んでこそ人は進めるのです」
悲壮な決意を持ってアインは眼前の悪魔へと立ち向かう。
その手にしているのは剣ではなく箸であり、悪魔もユウからすれば美味しそうな寿司でしかないのだが。
「い、頂きます……」
震える箸で寿司を落とさないように慎重に――あるいは怖いのかゆっくりと口まで運ぶアイン。僅かに逡巡し、目を閉じ一息に口に入れる。
先程よりも長い咀嚼を終え、アインは蛸を飲み込む。そして、カッと目を見開き、
「なんだ美味しいじゃないですか! 見た目で判断するのは駄目ですね!」
そう言ってさらに蛸を口に放り込む。とても機嫌良さそうに蛸を咀嚼する姿は、数秒前は怯えていたとはとても思えない。
あまりの変わり身の速さに呆れる前に感心してしまうユウだった。
「そんなに気に入ったのか?」
「はい、素晴らしいですね!」
「そうかそうか、それはよかった」
頬杖をついて言うツバキは、穏やかに微笑んでいた。
一見すれば食事を気に入ったことを喜んでいるようにも思えたが、その口の端が吊り上がっていることにユウは気がつく。
そしてそれは、悪巧みをしている時に見せるものだった。
「しかし美味しいですね……ここにいる間の主食にしましょうか」
アインの箸が新たな寿司を捉えたとき、ツバキは顔を背けて俯く。夢心地のアインは、それに気が付かないまま寿司を口に入れ、味わうように咀嚼し、
「……ッ!!!!??」
声にならない悲鳴を上げて口を抑える。口から鼻にかけて走る未知の刺激に、彼女は祈るように両手で鼻の付け根を抑えて耐えていた。
からい、つらい、辛い。その刺激は赤い唐辛子をトマトの仲間だと勘違いしてかじった時を思い出させる。
しかし、この刺激は舌を攻めているのではなく、体の内部から攻め立てていた。唐辛子が外部からの破壊を極意とするなら、これは内部からの破壊を極意としている――!
数秒間テーブルに顔を俯かせていた彼女は、呼吸を整えながら顔を上げる。両目には涙が浮かんでいた。
「わ、悪いのう……山葵が入っている、と……くくっ、言うのを忘れておったわ」
「……わざとだろ」
さあのう、とツバキはアインの恨めしい視線とユウの指摘を受け流す。
彼女は笑いを噛み殺しながら寿司を口に運ぶが、
「んんっ!? はっ、か、から……! おい店主! 我はサビ抜きと言ったじゃろうが!」
涙目になりながら厨房に向かって怒鳴りつける。その姿は癇癪する子どもだった。
「因果応報だな……」
「ですね……ああ、それにしても辛かった……タバスコや唐辛子とはまったく別の辛さです」
アインが涙を拭っていると、背後から横開きの戸が滑る音が聞こえてきた。
新たな客が来たのだろうと、彼女もユウも気に留めなかったが、
「……アイン?」
聞き覚えのある声と、既視感を感じるシチュエーションにアインはすすっていたお茶をむせ、咳き込む。
「な、なんで……」
アインは咳き込みながらも振り返る。
鼓動が煩いのは、予想外のことに動揺しているのか、それとも喜んでいるのか。或いは両方か。
自分がよく知る少女の名前をなんとかアインは呼ぶ。
「ラピスが……なぜここに……?」
「……まあ、半分の偶然と半分の必然ってとこかしら」
赤い髪の少女は、そう言って微笑んだ。
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