第78話 勝利を掴め

『一体どういうことなのか!? ハンドルを握ったのはただの一回に過ぎないというのは何を意味しているんだ!? アイン=ナットは天才なのか、それともただの馬鹿なのか!?』


 ディーノの絶叫に、固まっていた観客たちもその意味を理解し始めたのか、ざわめきが広がっていく。

 一度の練習で全てを理解した天才なら、もしかするとエドガーらを上回れるのでは。

 しかし、その期待は、


『んー、操縦に関しては酷かったと聞いたぞ。速度のコントロールがヘッタクソだったとか』


 どこか面白そうに言うツバキの一言に否定される。


『オイオイオイ、それじゃただの馬鹿だ! いや、そもそもここまでの酷使で水晶は摩耗しきってる! まともなスピードを出すことは出来ない!』


 観客たちの意志を代弁するゼグラス。無謀な馬鹿だったのかという視線を浴びる中でアインは、


「本当にするんですか……?」

「ああ、ヒーローはそうするもんだ」


 ユウと小声でのやり取りを経ると、大きく深呼吸して呼吸を整える。正面を見据え、そして――。


『ああ!? アインが跳んだ! 空中に跳び上がり、そのまま一回転! だが、その先は水しか無いぞ!? まさか、泳いでゴールを目指すつもりか!?』


 まさか、そんなわけがあるまい。

 バクバクする心臓の音を聞きながら、アインはほくそ笑む。これからすることは、至極単純。

 アインの足が水面に近づいていき――それを踏みしめる。常人であれば沈みだけの水面に、彼女は膝・片手・片足を着く英雄的な着地を決める。衝撃に水が舞い上がる中、彼女はゆっくりと立ち上がった。

 その光景に、どよめきだった観客たちは一斉に歓声を上げる。水面に立てる理由も、何のために立ったのかもわからないが、ただカッコイイということは心に響いたのだ。

 それに、ゼグラスは不満げに口を尖らせて言う。


『何の意味もない無駄な行動じゃないか。何考えてんだ』

『洒落と浪漫がわからぬ男はつまらぬぞ。ここからが見せ場だと言うのに』

『見せ場だって? 船もないのにこっからどうやって逆転できるんだよ。もう、エドガー達は4割は進んでるってのに』

『そうです、その通りです! 水面に降り立ったアインは、ここから何を魅せてくれるのか!?』


 期待されてるぞ、とわくわくした声で言うユウ。

 だったら、それに答えないといけませんね。心地よい高揚感に、自然とそんな言葉が口から出ていた。あれほど嫌だった他人の目が、今だけは悪い気がしない。


「ラピス、表彰台の天辺で会いましょう!」


 ここまでの道を切り開いてくれた彼女にそう告げ、アインは一歩前に踏み出す。

 二歩、三歩、四歩――1歩ごとにその速度は増し、その度に再び観客たちにどよめきが広がっていく。


『お、おい……!』

『まさか……!』

『そのまさかじゃよ! ほら、アイン! もっと気合を入れて走らんかい!』


 面白くてたまらないというツバキの声に応えるように、水面を走るアインの速度は増していく。波で簡単に揺らいでしまうはずの水面を、まるで舗装された道を散歩するような当然さで彼女は走る。

 ロープで区切られた道など無意味。ただ少し高い位置にあるだけの障害物を軽々飛び越え、旋風のようにコースを駆け抜ける。

 そんな正気を疑うような光景に、ぜグラスは頭を抱えて叫んだ。


『馬鹿、馬鹿だろ! あんな、あんなことを!』

『はははははっ! だから言ったろうに! ここからが見せ場だとな!』

『そもそもルール違反じゃないのか!? あいつらロープを完全に無視しているぞ!』


 そう指摘される可能性も、ユウは考えていた。だがしかし、


『いいえ! それは違います! ロープの道を進むというのは状況がそうさせているだけで、ルールに規定されているわけではありません! 『空を飛ぶ』『水路外に出る』ということだけが禁止されています! 『水面を走るな』というルールはありません!』


 強引な解釈ではあるが、ディーノが言った通りルールはそのようになっている。加えて、祭りとはノリと勢いが何よりも重視される。そんな場で水を差すような真似はしないだろうという打算があった。

 そしてそれは、見事に的中する。


「走れ走れ嬢ちゃん! このままなら勝っちまえるぜ!」

「ボスー! 負けないでー!」

「アルベールも意地を見せろ! ガキには負けたくないだろ!」


 熱狂に包まれた観客たちは、口々に自らが応援する者へ声援をあげる。それを後押しするように、ディーノは実況を続ける。


『見せ場はここからという言葉に嘘偽りはありませんでした! 信じられない光景ですが、確かにアイン=ナットは水面を走っています! その速さも信じられない! 馬や鹿のそれです!』


 人間が走って出せる速度の限界は、時速36キロ程度。対して馬は時速45キロ前後。その差は数値では大したことがなくとも、生身で到達するのは不可能な深い谷が存在する。

 そして、それ埋めるのが魔術であり、道具であり、技術であり、知恵である。


『あやつは琥珀の気を体内に取り込む術を知っておる! 独学で身につけたのは大したものじゃが、さらに我が鍛え上げればあの通りじゃ!』

『だ、だけどあんな速度で走り続けられるわけがない! 第3コースを走るだけで精一杯のはずだ!』

『戯けが! それを我が考えておらんと思うたか! そのためにレース前から琥珀を飲ませ続け、その気を溜め込ませておったんじゃよ! 体によく馴染ませ、最高のパフォーマンスが発揮できるようになぁ!』


 なるほど、確かにツバキが言ったとおりだ。風を切り、水を跳ねながら進むアインは納得する。

 両手両足首に巻かれたバンドは、琥珀の気が溢れるのを抑えるための拘束具だった。そのせいで体が重かったのだが、それから解き放たれた今は爽快そのものだ。


「っと!」


 目の前のロープを踏み台にし、そこから10メートル近い幅跳びを行う。着地と同時に助走をつけ、さらにもう一度。水に接する度にブーツに刻まれた文字が淡い光を放ち、残像のように尾を引いていく。


「見えた!」


 一度は距離を突き放されたエドガーとアルベールの背中をアインは捉える。

 彼らの操縦は実に見事だった。自分は勿論、ラピスでもその都度停止しなければ進めないであろう細道をノンストップですり抜けていく。

 だが、それでも速度を人の早足まで抑えることによって可能となっている。馬の襲歩にも匹敵する今のアインとは比べるべくもない。


「……ッ!」

「馬鹿な……!」


 自らを追い抜いていく少女に、二人は目を見開き驚愕する。それは、ここでの差が決定的になることがわかっているからでもある。


「行けるぞ! エドガー達はついてこれない!」

「そうでなければ、この作戦の意味がありませんよ!」


 第1コースを速度で引き離し、第2コースを付け焼き刃の技術で乗り越えたとしても、この第3コースが立ち塞がる。

 しかし、逆説的にそこで大差をつけられれば、勝負はわからなくなる。そのための一手がこれだった。


「もっと、もっと速く……! できるだけ距離を稼がないと……!」


 直線での速さは彼らに分がある。ここでどれだけ距離を取れるかが明暗を分けることになる。

 逸る気持ちを速度に変えるように、アインはひた走る。


「負けられるか……!」


 そして、それを黙ってみているエドガーではなかった。気迫とともに速度を増していくが、その速度では曲がりきれない――はずだった。


『おおっとエドガー=レーゲンバー! ロープを支える杭を蹴りつけることで強引に切り返し、コーナーをクリアしていくぞ!』


 一歩間違えれば体勢を崩し転覆しかねない行為だが、彼はその限界ギリギリを見極めている。断崖に向けって走り続けようと、決してそこから先を超えることはない。


「なんてゴリ押しを……!」

「人のことは言えないけどな!」


 何十本目かもわからないロープを跳び越えたアインは毒づき、ユウは焦る気持ちを抑えながらそう返す。


『さあ、アルベール=ハービヒトはどうする!? 鷹はじっと獲物を見つめたままだ! 何か策はあるのか!?』


 実況にも観客の歓声も意に介さず、アルベールは鋭い瞳をエドガーとアインに向けていた。

 その視線が、彼らから直進できるだけのスペースが有る水路へ、水路からその延長線上にある煉瓦造りの外壁へと移る。

 すっとその目がさらに細まった瞬間、鷹は船首が浮き上がるほどの急加速を始め、壁に向かって突き進む。


『どうしたアルベール!? その先は壁しか無い、ぶつかるぞ!?』


 観客たちが顔を覆うほどの風を拭き上げながら鷹は突き進み、その船首がロープの上に乗った。

 刹那、さらに爆発的な暴風が生まれ、その風によって鷹は宙を舞う。自分たちに向かってくるそれに観客は悲鳴をあげて逃げ惑う。

 船首が壁に激突する寸前、気流と体重移動によって船首は壁と平行になるように切り替えされ、船底のV字部分が壁に接触した。


「……嘘だろ!」

「ユウさん、何が起きてるんですか!」


 振り向く余裕もないアインは、驚愕の声をあげたきり言葉を失う彼に叫び返す。

 それに答えたのは、ユウではなく、


『信じられない光景がまたも目の前に広がっています! 壁に向かって飛び上がった鷹は、壁を走っています!』


 興奮しきった声で叫ぶディーノだった。


『な、何だよアレ!? どうなってんだよ!?』


 人が水面を走るのが正気では無いなら、船が壁を滑るように走る光景は狂気としか言いようがない。だが、現実として鷹は風を纏った船底で煉瓦を削りながら疾走している。


『速度と魔術の風があれば不可能ではなかろう。まあ、可能だということと実際にやってのけるかは全くの別問題じゃがな! しかし……』


 そう言って、ツバキは溢れ出る笑いを抑えること無く声をあげる。


『くっ……はははははははは! 良いぞ! その負けん気、その個人の意地! それでこそ人というものよ!』

「見てるだけの人は気楽でいいですよね!」


 悪態をつきながらもアインは足を止めることはしない。そして、ようやく第3コースの終わりが見える。


「終わったら……美味しいものをいっぱい食べましょう!」


 アインは叫び、跳躍を行う。着地した時、目の前にはロープは見えなかった。


『ここでアイン=ナットが第3コースをクリア! スタート地点まで最初に戻ってきたのは魔術師アイン=ナットだああああああ!』


 歓声の洪水の最中、アインはすぐさま右に折り返す。目指すは、領主が待つ中央橋だ。


『最後のコースはただの直線! 仮設足場まで到達し、そこから階段を上がって親書を渡したものが勝者となります! 速度と気力、そして勝利への執念が試されるこのコース! さあ、勝者となるのは一体誰なのか!』


 ディーノの叫び通り、アインは全てを振り絞ってゴールを目指す。フォームなんてものは無い。ただ足を上げて、手を振り、前へ進む。


『そして壁を進んでいたアルベールが水面に降り立ち、今第3コースをクリア! 最終コースに突入します! それに遅れてエドガーも第2コースをクリア!』


 二人との距離は十分に離れている。ここまでの速度通りなら、ギリギリだが仮設足場の一番にたどり着くことが出来るはずだ。


「負けられぬ……負けてたまるものか!」


 そう、ここまでの速度であれば。


「レーゲンバーの名を持ったものとして、負けるわけにはいかぬのだ!」


 乾いた男は心から叫び、それを持って拳をハンドル中央へ叩きつける。それは、魔力循環のセーフティを解除するトリガーだ。それによって生じる速度を、アインは身をもって体感している。


『ここでエドガーが勝負をかける! 解き放たれたエネルギーが一気に炸裂し、その勢いのままアルベールを抜き去る! さらにアインへと迫っていく!』


 限界まで魔力を注ぎ込まれた水晶が咆哮を上げる。それは搭乗者の意志を反映したかのように力強く、何処までも響き渡る。


「……させぬ! アメンボとして負けられるのは私とて同じ!」


 それに応えるようにアルベールも吼える。張り詰めた帆は軋み、しかし折れることは決して無く風を生み出し、終着点に向けて速度を上げていく。


『アルベールも負けてはいない! エドガーと並走している! そしてその速度は確実にアインを上回っているぞ!』


 水面を走る少女、それを追いかける黒の船と帆船。奇妙なレースの終わりが近づきつつあった。

 仮設足場まであと十数秒もあればたどり着く。だが、背中に届くプレッシャーは確実に近づいている。手を伸ばせば届くのではという錯覚。


「……ッ!」


 そしてそれが現実に追いついた。


『ッ……抜いたああああああああ! この土壇場でエドガー、アルベールの両者が先行していたアインを抜き去る! 後は階段を上がるだけだ!』


 今日最大の喝采の中、エドガーとアルベールは船ごと仮設足場に乗り上げる。直前に速度を緩めてはいたものの、勢い止まらぬまま投げ出されるように船を降りた二人は、蹌踉めきながらも左右それぞれの階段を駆け上がる。


『さあ、ここにたどり着くのはギルド長アルベール=ハービヒトか、それともエドガー=レーゲンバーなのか!? 勝負の女神はどちらに微笑むのか!?』


 ディーノは、アインが脱落したものとして実況していた。彼女は、まだ足場の僅か手前にいたのだから、それは無理もない。仮設足場までたどり着いたとしても、階段を先行する彼らに勝つことは出来ないだろう。

 だが、しかし――。


「いけるな、アイン!」

「当たり前です!」


 彼女らの目は、勝負を諦めてはいなかった。最終的には抜かれることは織り込み済み、その上で勝つ手段は考えている――!

 アインは、ポケットに手を突っ込みんで親書を握りしめる。そして、利き足である右足に魔力を込める。

 1歩、2歩、3歩――。

 渾身の力が込められた右足が石畳のように確かに存在する水面を踏みしめ、


「跳べ! アイン=ナットォオオオオオ!」


 爆発的な勢いが右足から放たれ、琥珀の気を取り込んだ体がそれを後押しし、垂直方向5メートルの跳躍を成し遂げる。

 上方向へゆっくりと景色が切り替わっていく中、アインは声の限り叫ぶ。


「そこをどいてください! どけえええええええ!」


 覗き込んでいた観客たちは、こちらに跳び上がってくる少女から反射的に身を避け、空いたスペースにアインは転がり込む。すぐさま身を起こしたアインは、領主を認めると体中の痛みを無視して足を動かす。

 勢いを緩めないまま向かってくる彼女に、領主は顔をひきつらせていたが、瞬きする時間すら惜しい今、そんなことを気にする余裕はない。

 視界の左右、その端に二人の男が映る。ここまで勝敗を競い合った乾いた男と凍った男の姿は、しかしそこには無かった。

 この場にいるのは、ただ『勝ちたい』という意志を持った者だけだ。


「このっ、届けええええええ!」


 親書を握りしめたを領主に向かって伸ばし、そのままアインは突っ込む。一瞬の後全身に衝撃が走り、視界には青空だけが映っていた。


「くっ……はあ……はあ……」


 今まで忘れていた呼吸を体が思い出したような途切れ途切れの呼吸。アインは親書を握っていた右手を眼前に運ぶ。

 その手は、何も掴んでいなかった。


『勝者は……』


 実況席から飛び出したディーノが、領主の体を起こす。そして、その手に握られていた親書を確認すると、ゆっくりと息を吐く。

 誰もが沈黙し次の言葉を待つ時間の中、ディーノは空を仰ぎ、そして、


「スライダーオブスライダーの勝者は……! 魔術師のコンビ、アイン&ラピスですっ!」


 高らかに勝者の名を告げた。


「信じられないことの連続だったレースですが、確かに彼女たちが勝者となったのです! 皆さん、その栄光を讃えましょう!」」


 嵐のように鳴り響く拍手と割れんばかりの喝采の中、


「……勝ったな」


 ぽつりとユウは呟く。背中に背負われた彼の視界は、真っ暗な地面しか見えなかったがそれで十分だ。


「……はい。私達が、勝ちました」


 そう答えた彼女の表情なんて、見えなくてもわかる。それが、嬉しくて誇らしかった。


「……ラピス、少しは貴方に近づけましたか?」


 アインは呟き、掲げた右手を握りしめる。

 その手は、勝利を掴んでいた。

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