第75話 決闘前の小休憩
朝、目を覚ましたアインは眠気を払うように頭を振ると、すぐに布団から這い出し洗面所に向かう。普段は目覚めても十分以上は布団に留まり続ける彼女だったが、今日ばかりは違った。
向かう途中、カーテンを開け外を覗く。
窓から見える街の風景は、いつもと変わらない朝のもので通りを歩く人もまだ少ない。しかし、そこに漂う空気は冷たいものではなく、高揚感に熱されたそれだ。
その理由は言うまでもない。
「祭りが始まる……」
数時間後には自分もそこに立つ。そう考えると身震いした。
「武者震いか?」
ベッドサイドに立てかけられたユウが言う。
アインはその言葉の意味はよくわからなかったが、震えの理由はわかっている。
「その、今更ながら人から注目を浴びるんだなと考えると……マスクとか被るべきでしょうか」
「……余計に注目されるからやめておけ」
真剣な顔で提案する彼女にユウは呆れ、そして安心する。いつも通りの他人の目にはビビっても、勝負にはビビらない彼女だ。
だったら、自分もいつも通りでいるだけだ。
「準備を済ませたら下に行こう。ラピス達も待ってる」
はい、とアインは答えるとそそくさと洗面所に向かった。
「調子は……良さそうね、アイン」
階段から降りてきたアインの顔を見て、ラピスは言う。
アインは頷き、問い返す。
「ラピスはどうですか?」
「問題なし。魔力の調子もいいし、目も冴えてる」
「それは何よりじゃの……ふぁあ……」
テーブルに突っ伏したツバキは欠伸をすると眠たげな目を擦る。被ったフードの下では、狐耳が萎れていそうだ。
「ツバキは昨日どうしていたんですか? 帰りが遅かったようですけど」
「ちょっとしたビジネスをの……」
「ビジネス?」
「まあ、すぐにわかることよ。それより、レースの開始は正午からじゃろう。それまでどうする気じゃ?」
訊ねられたラピスは、少し考えてから、
「船の最終調整はマシーナがやってくれる。その邪魔をするのも悪いし、コースの下見をしておきましょう。想定されるコースの練習はしたけど、実際に見ないことには始まらないわ」
「その後は?」
「その後は……そうね、折角だし祭りを回りましょう。今更バタバタしてもしょうがないしね」
「ははっ、いいのう。強者の余裕というやつを見せつけてやろうではないか」
「ええ、そうね。そうしましょう」
くつくつ笑うツバキに笑い返すラピスだったが、僅かにその表情は強張っていた。
無理もない、とユウは思う。
たった2週間で操縦を覚え、競い合うのは名高いアメンボ二人。緊張するなというのは無理がある。祭りを回ろうという提案も、それを隠すためなのだろう。
それを解かすことができるのは、自分ではなく、
『アイン』
『なんですか?』
『ラピスに気の利いたことでも言ってやれ』
親友である彼女の役割だろう。
アインは、少し考えるように顎に手をやり、そして小さく頷く。
「ラピス、安心してください」
「あ、アイン?」
ラピスは上ずった声を上げ、掴まれた手とアインの顔を交互に見やる。
「ラピスなら大丈夫です。貴方となら勝てると信じていますから」
「なっ、何よ急に……」
赤面した顔を背け、ごにょごにょと呟くラピス。しかし、その口元は確かに緩んでいた。
アインは掴んだ手を持ち上げ、目を覗き込むようにしながら続ける。
「そして私を信じてください。弱い私ですが……皆が居るから強くなれます」
「……馬鹿ね。今更疑うわけが無いじゃない」
そう言い切るラピスの表情に不安は無い。あるのは、親友への信頼と勝利への希望だけだ。
彼女は強く手を握り返し、言い切る。
「勝つわよ、絶対に。エドガーやギルドだの関係なく、私は負けたくない」
「それは私もです。勝負するからには、やはり負けたくはありません」
お互いに勝利への意志を確認し、笑い合う。すれ違ってギクシャクした時期があったことを思い出すと、感慨深い光景にユウは心が暖まるのを感じた。
「……」
その後ろでツバキは、ラピスに向かって何かジェスチャーを送っていた。
腕を大きく横に広げて、前に持ってきたそれを交差させる。クロスチョップせよ――ではなく、
「ッ!?」
「ラピス? どうしました?」
「な、なんでもないわ!」
抱きしめろというジェスチャーに、何故そんなことをする必要があるのかと目で訴えるラピス。
それに対してツバキは、今なら自然だし行為も伝えられるぞと目で答える。
それはそうかもしれないけど……と目を伏せるラピスに、ツバキは機を見るに敏という言葉を知らんのか! と目で怒る。
『……あの、ユウさん。ラピスはどうしたんですか?』
そしてその視線のやり取りに挟まれたアインは、不安げにユウに訊く。
どう答えたものかとユウが悩んでいると、
「アイン様っ」
宿の入口の方から聞こえた声にアインは向き直り、直後体を襲った衝撃にたたらを踏む。思わず抱きとめたそれの正体を認めると、驚きの声をもらした。
「……シーナさん?」
「はい、お久しぶりです」
そう言って彼女は微笑み、喜びを全身で伝えるようにアインの背中に腕を回して抱擁する。アインは戸惑ってはいたが、嫌な顔はしなかった。
随分明るくなった、とシーナの表情を見てユウは思う。
前から根暗というわけではなかったが、どこか自分を抑えているような感じがあった。今の彼女は、自信がついたお陰ということだろうか。
その恩人に再会したのだから、この喜びようはおかしくはない――が、それが納得できるかは別の問題である。
「…………」
二人を見るラピスの表情は、食事に手を伸ばした瞬間取り上げられた猫というか、自身が乗り越えられないハードルを踏み台にして跳ばれたような――要するに穏やかではない表情をしていた。
それに気がついたシーナは、バツが悪そうな顔でアインから離れるとラピスに頭を下げて挨拶する。
「ラピスさんもお久しぶりです」
「ええ、久しぶり。元気そうで何よりだわ」
アインとシーナの間に割って入りながら、ラピスは挨拶を返す。拗ねたような口調の理由がわからないアインは首を傾げ、ツバキは声を殺して笑っていた。
ラピスは咳払いすると、シーナに訊ねる。
「それで、ここにはどうして? 偶々来たってわけじゃなさそうだけど」
「はい、アイン様方がレースに出場すると聞いて、応援に参りました。父もお礼を言いたいということで、一緒に来ています」
「応援? その話って誰から聞いたの?」
「それは――」
「ああ、ラピス君! いやぁ、元気そうで何よりだ!」
再び開いた宿のドアから顔を出したのは、一見すると20代にも見える男の笑顔。その顔と陽気な声を認めたラピスは、額を押さえながら言う。
「アルカ隊長……お久しぶりです」
「うん、久しぶり! しかし、休暇とは言えここまで長期になるなら先に言って欲しかったな!『隊長じゃなくてラピスさんがいればなぁ』と言われるボクの身が持たない!」
「それは申し訳ありません。ここに来たのは連れ戻すためですか?」
「そういう名目でのサボりだよ! ああいや、可愛い部下の晴れ舞台を見に来たんだ! ほら、手紙も貰ったしね!」
「それは経過報告のようなもので、サボる口実にさせるつもりはなかったんですが……」
「固いことは言わないで欲しい! 何しろ空の色が何だったのか忘れるくらい籠もりきりだったからね!」
「大袈裟なことを……」
どちらかが上司で部下なのかわからない会話を繰り広げる横で、シーナは苦笑交じりにアインに言う。
「……ええと、アルカさん伝手に話を伺い、ならば一緒に向かってはどうかと提案したのです。急な話だったので、到着は今朝になってしまいましたが」
「そういうことでしたか……わざわざありがとうございます」
「いえ、好きでしていることですから……。朝食は召し上がりましたか?」
「まだですが」
「それでしたら、外で食事をしませんか? 既に提供を始めた屋台があるようです」
シーナの提案に、
「いいね! 街を回りながらの食事も良いものだよ!」
ラピスの口撃から逃れるようにアルカは賛成し、
「我も構わんぞ。どうせ屋台連中とは会う必要がある故な」
ツバキも賛成する。ユウが反対する理由はないので、何も言わない。
アインはラピスと顔を見合わせる。
「そうしましょう。順番の問題だしね」
彼女はそう言って、肩をすくめた。
街の中央水路に掛けられた大橋、その中央は準備中の人々でごった返していた。
ゴールでもあるここには、普段は人が行き来する街路の半分以上を使って白い幕が張られたスクリーンのようなものが設置されていた。その傍には椅子と机が何席か置かれている。
橋の下には足場とそこから欄干まで続く階段が仮設されている。最後はここを駆け上り、いち早く領主に親書を渡したものが優勝となる。
アインは欄干に手を掛け、水面を覗き込む。
「思っていたより地上から水面まで遠く見えますね」
「いけるか?」
「4、5メートル程度ですし、大丈夫だと思います」
そう言って手にしたフィッシュサンドを頬張る。良い油を使っているのか、臭くもなくサクサクした食感の衣に満足気に頷いた。
「おい、そこのアンタ。関係ないやつは出ていってくれない? 邪魔だからさ」
そこに掛けられた横柄な言葉に、アインは眉をしかめて声の先を見やる。金髪の男は、彼女の顔を見るとぎょっとしたように後ずさった。
その態度にアインはムッとしたのか、刺々しい口調で言う。
「なんですかその態度は。流石に失礼ですよ」
「おま、お前……なんでここに……」
「……あれ、貴方……何処かで見たことがあるような」
あからさまに動揺する金髪の男に、アインは記憶に引っかかるものを感じる。それを探っていくと、数ヶ月前の記憶に行き着いた。
ラピスと再開する前に決闘をした男。名前は――。
「……ああ、ヴィオリーラ家の……名前は、確かゼノギアス……でしたっけ」
「違う! なんで家の名前は覚えてて僕の名前は覚えてないんだよ!」
「ええと、そう、ゼノサーガでしたね」
「違うって言ってるだろ!」
地団駄を踏む金髪の男。アインは、真剣な顔で考えていた。嫌味とかではなく、本当に忘れ去っているようだ。
『ゼグラスだよ』
溜息混じりのユウの言葉に、アインはぽんっと手を打ち、そして首を傾げる。
「そのゼグラスがどうしてここに?」
「ふん、ヴィオリーラ家くらいに名高くなると、付き合いも増えるんだよ。伝統ある祭りのスポンサーを務めるくらいにね。まっ、流れ者にはわからない苦労だろうけどね」
嫌味っぽく言うゼグラスに、アインはああ、と納得したように返す。
「犯罪者のレプリに出資していたせいで火消しが大変なんですね。ご苦労様ですね」
「ふ、ふん……! 好きに言えばいいさ……!」
本当にどうでもいい相手には口が悪くなるなこいつ。
顔を引きつかせながらも余裕の表情を保とうとするゼグラスに、思わず同情してしまうユウだった。
「で、お前はなんでここにいるんだよ。レース関係者以外は出ていってくれないか」
乱暴に髪をかきあげながら言うゼグラス。何を言っているんですか、とアインは残るフィッシュサンドを全て頬張り答える。
「私はレースに出るんですから、関係者中の関係者ですよ」
「……はっ? マジで言ってんのそれ?」
「ええ」
ゼグラスはぽかんと口を開けていたが、次の瞬間には腹を抱えて大声で笑い出す。
相変わらず人を苛立たせる笑い声に、アインは不快げに顔をしかめた。
「本気? 本気で言ってるの? 素人が勝てるわけ無いだろ! ハハハハハハハッ!」
ゼグラスは欄干に寄りかかって笑い続ける。背筋をのけぞらせ脚をバタつかせる彼だったが、そんな所でそんなことをすれば当然、
「――――あ?」
ぐるん、と欄干の外に傾いた体は一回転し、そのまま重力に従って落下していく。一瞬遅れて、水音が辺りに響いた。
「なんだ!?」
「人だ、人が落ちてきたぞ!」
「何処の馬鹿だ!」
橋下から聞こえる作業員達の声を確認したアインは、
「さて、ここは確認しましたし、ラピス達と移動しましょう」
どこか晴れ晴れとした表情で言うと、踵を返してその場を後にした。
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