第52話 ミスは望まぬ時に起こる
「アイン様、先程はありがとうございました」
シーナは、不意に立ち止まりアインに向かって頭を下げる。レストランを出てしばらく無言のまま歩いていた二人の最初の会話がそれだった。
「いや、お礼を言われることでは……それに、やり過ぎたかもしれません。あれでは余計こちらを目の敵にするでしょう」
そう言って目を伏せるアイン。
適当にあしらって帰らせるのが大人の対応だったのに、暴力で答えたのは短絡的だったと言われても仕方ない。むしろ彼女に迷惑になってしまったのでは。
気に病むアインにシーナは言う。
「……確かに、正しくはなかったかもしれません」
けれど。シーナは過去を懐かしむように胸に手を当てる。
「お父さんもそうでした。高慢な相手を気に入らないと殴って、嫌がらせを受けたことは何度もあります。けど、そうしてでも自分の酒と誇りを守る姿を、私はかっこいいと思っていたんです」
「シーナさん……」
「だから、先程のアイン様もかっこよかった。それでいいのです」
「……ありがとうございます」
胸のつっかえがとれたアインは思考を切り替える。考えるべきは過ぎたことではなく、これからのことだ。
「あの男……グインはどんな男なんですか?」
思い出すだけで苛立つ矮小な男。まずは、敵がどのようなものか知るべきだ。
訊ねられたシーナは、わずかに眉をひそめて答える。
「あまりいい話は聞きません。彼の商店『グイン・ワイドネット』はワインにウィスキー、エールと酒なら大抵のものは扱っていますが、その酒を仕入れさせるために強引な手を使うこともあるようです」
「強引……それは、暴力的なことも含めて?」
「はい、暴漢を送り込まれた店もあるようです」
そんなことまでするとは、まるでヤクザだ。あまりの横暴さに呆れるユウ。
しかし、そこまで話が広まっているのに店を続けられるのだろうか。憲兵に目をつけられそうなものだが。
ユウが声を借りて訊ねると、シーナは小さく溜息をつく。
「彼の店は強大です。迂闊に手を出せば何をされるかわからない。それが憲兵であってもです」
「まるっきりギャングですね。全く気に入らない」
「ええ……コンテスト2位を獲得できる実力があるというのに、どうして暴力的なのか」
「……2位?」
溜息混じりのシーナの言葉に耳を疑うアイン。コンテストというのはヴァッサで開かれるという酒のコンテストだろう。まさかテーブルクロス引きコンテストなわけはない。
そして、そのコンテストのアルミードの記録は3位だったはず。彼を上回る味を造るというのか、あの男は。
驚愕するアインにシーナは、
「いえ、グインは酒を造っていません。彼の部下たちが任されているだけです」
「……なるほど。それであんな態度を」
その言葉にアインは納得したように頷く。
何がなるほどなのだろう。ユウが訊ねる。
『おそらく酒の味なんてわからないんですよ、あの男は。だから、他人の評価でしか酒に対して自信が持てない。今の地位がいつ揺らいでしまうのか不安で仕方ない』
『だから、棄権しろと言っていたのか』
『そういうことです。他人を見上げることしか出来ないのに、そのくせ格下に足もとを掬われることに怯えている。どうしようもない男ですね』
先程のことが余程頭に来ているのか、嫌悪を込めた答えを返すアイン。
おそらく食事を邪魔された怒りがなのだろう。食事時に余計な事を言うのはやめておこうと自戒するユウだった。
ともあれ、そういう男なら逆恨みで何をしでかすかわからない。警戒するにこしたことはないだろう。
「夜も出来る限り監視します。シーナさんも気をつけてください」
そう伝えられたシーナは頷き、
「アイン様も無理をなさらないよう」
不安にさせまいと気丈な答えを返すのだった。
カウンター内でアインは隠すこともなく大きな欠伸をこぼす。元々客が訪ねてくることは少ない店だが、今日は一人も来ていない。それがさらに眠気を誘う。
アインはしょぼしょぼした目をこすると、ユウに喋りかける。
「さすがに……昨日今日では仕掛けてきませんでしたね……」
何か仕掛けてくるなら人通りの無くなる深夜から明け方だろうと、寝ずの見張りをしていた彼女はとても眠そうだった。その後に数時間の仮眠をとったもののその程度で覚める眠気ではない。ユウがいなければ監視中に眠っていたかもしれない。
「動きがないのはいいけど、これが毎日だと堪えるな……」
それに付き合ったユウも眠そうな声を返す。剣の体に睡眠は必須ではないが、一日の記憶整理や思考を休ませるという点では必要な行動だ。何本も無作為なジャンルの映画を続けたようなぼんやりとしたモヤが思考を覆っていた。
「ええ……向こうもそれを狙っているかもしれません……ふわぁあ……」
「今日からはツバキにも頼んでみるか……」
「彼女は寝付きが良いですし、あてに出来ますかね……」
愚痴混じりに二人が会話していると、事務所のドアが開く。アインは慌てて姿勢を整えお辞儀をし、
「いらっしゃいませ。ご用件は――」
顔を上げたタイミングでべしゃっと軽い音がした。それに伴い何かをぶつけられたような衝撃がアインの顔にあった。
ぬるり、とどろどろしたものが髪を伝い頬に垂れる。指で拭うと黄色いヌメリが付着する。それは、食卓には欠かせない食物――卵だ。そして、そんなものが虚空から出現するわけはない。
「ハッ、バーカバーカ! このバーカ!」
ドアから入ってきた、中指を立てて子どもじみた罵倒を繰り返す派手な格好の男の仕業だった。
「……ふっ」
アインは口の端を吊り上げる。その表情は大別すれば笑顔の範疇に入るのだろうが、友好的なそれとは程遠い。『おい、こいつから殺して良いのか』と言わんばかりの怒りを纏っていた。
時に、手の込んだ罵倒よりも単純な罵倒の方が苛立たしさを感じる瞬間がある。
それは、食事を邪魔された時。それは、睡眠を邪魔された時。そして、アインの場合は――。
「ギッタギタにしてやります!」
寝不足のときに絡んでくる者がいた時である。ギッタギタなんて使うやつ初めて見たというユウの呟きも聞かず、彼女はカウンターを乗り越え男に迫る。
男はアインが魔術を放つよりも早くドアから飛び出し、すぐに通りの人混みへと紛れる。アインは舌打ちし、唱えかけていた魔術をキャンセルし後を追う。
「右に逃げていったぞ」
「わかってます!」
男が逃げた通りは、人はそれなりに多いが派手な格好のお陰で見失うことはない。振り返っては挑発を繰り返す男に向かって、アインは走り出す。
「ああもう、このスカートは走りづらい……!」
慣れないタイトスカートに悪態をつくアイン。男との距離は10メートルほどだが、それがなかなか縮まらない。魔術を使おうにも、この人通りでは巻き添え兼ねず躊躇していた。
何十人とすれ違いなら男を追跡し続けたところで転機が訪れる。男が通りを外れて路地に入った。
「今なら……!」
アインは力を振り絞り路地の入り口まで一気に近づく。直線の路地の先には、男の背中が見えた。
これなら逃がさない! 彼女は右手を壁につき、唱える。
「汝が道はここに無し!」
右手を付いた地点から男に向かって光が奔る。光は男を追い越した瞬間に弾け、同時に道を塞ぐ壁を作り上げる。
「なっ、なぁ!?」
男は突然壁が出現したことに声を上げ、さらに脇を光球が掠めたことに悲鳴を上げる。へたり込む男に、アインは右手を突きつけたままゆっくりと近づいていく。
「や、やめてくれ! 俺は頼まれただけなんだ!」
「知ってますよ。けど、それとやったことが許されるかは全く別問題です」
抑揚のない声で言うアインの突きつけた右手に光球が生まれる。それを見て、男は悲鳴をあげて後ずさろうとするが逃げ場はない。震える声でただ叫ぶ。
「あの店から女を引き離したら金をやるって! それだけなんだよ!」
聞き苦しい言い訳と聞き流そうとしたアイン。しかし、引っかかるものを感じ突きつけていた右手を下ろす。
「引き離す……まさか!」
「アイン!」
その言葉の意味に気がついたのは同時。へたり込む男を無視して、アインは路地を飛び出す。走り出した先は、シーナが作業中の酒造所だった。
「迂闊でした……! こんな露骨な陽動に引っかかるとは!」
グインは、アインが魔術を使えることを昨日の一件で知っていた。だから、シーナの元から引き離すために陽動を行った。男が派手な格好をして何度も挑発したのも見失わせないためだったのだ。
酒造所までかなりの距離を稼がれてしまった。事務所から飛び出すと同時に仕掛けられていれば、シーナの身が危ない。慣れないスカートに転びそうになりながらも、必死でアインは走り続ける。
息を切らしながらも全力で走った結果、店はすぐ目の前に見えた。そこから数人の男が走り去るのが目に入る。
「あいつら、酒造所から出てきたぞ!」
「わかってますが、今はシーナさんの無事を確かめるべきです!」
男たちと入れ違いにアインは酒造所に飛び込む。普段は閉め切られているはずのハッチが、開け放たれていた。
「シーナさん! 大丈夫ですか!」
地下室に向かって叫ぶが返事はない。焦る気持ちを抑え、アインは階段を下っていく。
むっと蜂蜜酒の甘い香りが漂う地下室。しかし、今はいつも以上にその匂いが漂っている。原因は、床にぶちまけられた蜂蜜酒のせいだ。
「シーナさん!」
彼女は、樽にもたれかかるようにして目を閉じていた。目立った外傷は無いが蜂蜜酒で濡れた体は小さく上下し、荒い息を繰り返している。肢体に力は入っておらず、投げ出されるままだ。
「酷いことを……酒がめちゃくちゃだ」
「……今は、彼女を運び出しましょう。様子がおかしいです」
「……ああ」
悔しさを堪えるように奥歯を噛みしめるアインは、シーナに肩を貸し引きずるように階段に向かう。
途中、アインは振り返る。アルミードとシーナの大切な場所は、荒らし尽くされていた。花咲く瞬間を待っていた蜂蜜酒という花は、心無い者に蹂躙され無残を晒している。
「……」
彼女は、その光景を目に焼き付ける。この報いは必ず支払わせると、決意の炎を灯らせた。
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