第51話 食事はマナー良く
「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしています」
店から出ていった客にお辞儀をして見送るアイン。数日前は不格好だったその動作も、今は及第点といったところまで成長していた。表情にもやや余裕が見える。
「人間やれば出来るもんだな。ここに雇ってもらうか?」
「勘弁してください……知らないことを聞かれる度に頭が真っ白になってるんですから」
「わからないならわからないって言えば良いんだよ。ここの客層ならいちいち怒っったりしないさ」
「それはそうですけど……それが出来るならこんなに疲れませんよ」
椅子に背中を預けてアインは視線を窓に向ける。赤煉瓦製の酒造所が見えた。
シーナはアルミードが倒れた日から殆どを地下の酒造所で過ごしていた。始めこそ集中しているのだろうと思っていたアインとユウだったが、それが数日続くと流石に不安になってくる。
「あまり根を詰めてないといいんですが……」
「無理もないさ。今年こそ優勝を狙えるかもしれない酒の調整をするんだ。プレッシャーだって掛かる」
「とは言え、私たちに出来ることはこれくらいですしね……」
アインは立ち上がり、酒造所に向かう。時刻は12時を回っており、彼女の胃は空腹を訴えていた。
アインが伝声管の蓋を上げて、ユウがパイプに向かって声を上げる。
「シーナさん、そろそろ休憩しませんか?」
ここ数日と同じく返事はない。もう一度言って返事が無ければパンでも買ってこようと考えるアインだったが、
「……ええ、今そちらに向かいます」
その前に声が返ってくる。続いて小さい吐息が聞こえたが、倦怠感からくるものではなく達成感によるものだ。
彼女を出迎えるべく、アインは床にハッチを持ち上げる。開いた空間から、より強い甘い匂いが吹き出てくる。それにやや遅れてシーナが顔を出した。
「ありがとうございます、アイン様」
「蜂蜜酒は完成したんですか?」
「ええ、一つは及第点の味といったところです。残る二つで更に味を高めるつもりです」
「二つ?」
「はい。コンテストのために用意した蜂蜜酒は3つ。そのうち二つを使って昨年を上回る味を目指し、残る一つはそれが失敗した時の保険です」
「保険……」
ということは、昨年3位の味が及第点というのか。それは、かなり高いハードルではないか。
驚くアインに、シーナは大したことじゃありませんと自嘲気味に言う。
「同じ条件を揃えればある程度は再現できます。今回は、
シーナはそこで言葉を切ると、開きっぱなしだったハッチを閉じる。そして、背中を向けたままアインに言う。
「着替えてきますので、少々お待ち下さい。パンばかりでは飽きたでしょうし、パスタなどは如何でしょうか」
「あ、はい……わかりました。待ってます」
「お願いします」
アインは、仕事着から着替えるために事務所に向かう。酒造所のドアを閉める際、その隙間からシーナの姿を窺う。
彼女は、しゃがみ込み閉じられたハッチを名残惜しそうに撫でていた。それは情熱から来るものではなく、不安に後ろ髪を引かれているように感じられた。
「味は如何でしょうか?」
「とても素晴らしいです」
分厚い鹿肉のステーキを飲み込んだアインは、満足気に頷く。数分前は縦か横かわからないくらい高さと幅があったそれだが、既に幅は半分以下となっていた。
対面に座るシーナは微笑み、上品にナイフとフォークを操る。こちらのステーキは、常識的な大きさだった。
「ですが、良いんですか? こんな物を頂いてしまって」
肉汁の旨さに思考の大半を割かれているアインに代わってユウが訊ねる。
シーナが昼食のために向かった店は、高級という概念が形になったような店構えだった。店内に敷かれた絨毯は足音をまったく立たせず、天井には絢爛なシャンデリアが吊るされ、BGMはバイオリンの生演奏というユウには生涯縁がなかったであろう場所だ。
そしてアインもこんな店は初めてだったようで、汚すと困るからと普段着に着替えたことを後悔していた。パリッとしたブラウスに着替えたシーナを、随分気合入った格好だなと呑気に考えていた自分を殴ってやりたいとさえ考えていた。
黒い外套にラフなシャツというドレスコードに引っかかりかねない格好だったが、アインは一言も言われること無く入店出来た。それはおそらく、
「勿論です。アイン様は信頼できる方。これくらいでは見返りとしては不十分でしょう」
なんてこと無く言うシーナのお陰だろう。アイン一人では、追い返されていたに違いない。
「んぐっ……これくらいなんてことはありません。むしろ大したことの出来ない私たちには勿体無い味です」
入店当初の緊張は何処へやら、今では肉の脂のお陰か口までよく回るアイン。それはいいのだが、
「……私たち?」
「……! い、いえそれは言葉の綾です。忘れてください」
冷や汗を流す彼女に、ユウも内心ドキドキものだった。シーナなら問題ないとは思うが、そうやって失敗したのがレプリの事件だ。やたらと噂を広めるようなことは避けたい。
アインは話題を変えるべく、咳払いして言う。
「その、数日こもり切りでしたが体調は大丈夫ですか? 根を詰める気持ちはわかりますが、倒れては意味がありません」
「お気遣いありがとうございます。ですが、ご心配なく。限界は自分がよくわかっています」
「そう、ですか……」
アインは呟き上目でシーナを窺う。楚々とした態度こそ崩れてはいないが、目には確実に疲労の色が浮かんでいた。食事を進める手が遅いのも気のせいではないだろう。
『お前が早すぎるだけじゃないのか?』
沈み込むアインをからかうように、ユウは言う。シーナの数倍の量があったにも関わらず、アインの皿は既に空となっていた。
アインが反論しようとした時、
「おやおや、アルミード氏の一人娘ではありませんか」
割って入った脂ぎった声にそちらに視線を向ける。
大柄で禿げた頭の男がこちらを見てニヤニヤと笑っていた。体格こそアルミードと同じく大きいが、逞しいという形容詞が似合う彼とは違い、こちらはだらしないという言葉のほうが似合いそうだ。
この態度、どう見ても友好的な挨拶では無い。身構えるアインを無視し、男はシーナに喋りかける。
「御父上は魔女の一撃を受けて入院と聞きました。いやはや、こんな大切な時期にとは魔女も性悪ですな」
「かもしれません」
「ですがご安心を! 我が『グイン・ワイドネット』が御父上の分まで表彰されますゆえ!今回は運が悪かったと諦めなされ!」
「ご忠告感謝します、グイン様。ですが、コンテスト用の蜂蜜酒は私が調整を行います。貴方が心配することはありません」
どうやらこの男――グインはアルミードの同業者らしい。そして、店名と同じということは店長なのだろうか。
『そうだとしたら、店長自ら嫌味を言いに来たってことですか……いい性格してますね』
嫌悪感を露わにするアイン。しかし、グインはシーナの言葉に息を飲んでおりまったく気がついていない。
「……今、なんとおっしゃいましたかな」
「私が調整すると言ったのです」
「ふっ……ハハハハハハハハハ! 面白い、実に面白い冗談だ! 酒の神に愛想を尽かされた女がよくもまぁ!」
耳障りな笑い声をあげるグイン。談笑していた周囲の客は会話を止め、怪訝そうな顔で眺めていた。アインはますます顔をしかめ、シーナは表情を変えずナイフとフォークを置く。
唐突に笑いが止み、真顔になった彼はテーブルに拳を叩きつける。衝撃に皿が僅かに浮き上がる。
「冗談で済ませておけ。恥をかきたくなかったら棄権しろ。お前程度が勝てる世界ではないのだよ」
グインは青筋を立てシーナに迫る。それを前にしても、彼女は毅然とした態度を崩さず正面から見据えたまま告げる。
「……それを決めるには、貴方ではありません」
「貴様!」
激高するグインが右手を振り上げる。シーナは、逃げようともせずじっと彼を睨みつけていた。
その態度が気に入らなかったのか、グインは震える手を振り抜こうと力を込めるが、
「なっ! 何を!?」
アインが魔術で伸ばしたナイフを喉元に突きつけられ、裏返った声をあげる。彼女は、心底からうんざりした声で言う。
「それはこちらの台詞です。せっかくの食事が台無しじゃないですか。それに、今何をしようとしたんですか」
冷たい青の瞳は、熱い怒りをもってグインを刺していた。その鋭さに、彼は怒鳴ることで恐怖を紛らわせようとしていた。
「き、貴様!」
「貴方、誰かに似てるかとも思ったらゼグラスです。そのムカつく態度と笑い方」
「何を言っている! いいからこれをどけろ!」
「ですが、それでも彼のほうが100倍マシですね。彼は、少なくとも自分に自信を持っていた」
「わけのわからんことを!」
「グイン。貴方は自分の酒に自信がないんでしょう」
つまらなそうに吐き捨てた言葉に、グインは目を見開き肩を震わせる。それは、真実を突かれたものの反応だった。
「自信があるのなら、『恥をかかないために棄権しろ』なんて言いません。『せいぜい恥をかけばいいさ』と言うんですよ。そうしないということは、自分の実力が不安でしょうがないということ。見下しているのではなく、羨ましくて仕方がないから見上げているんですよ、貴方は」
「貴様ァ! ……ヒィ!?」
ナイフの背で顎を持ち上げられたグインは、情けない悲鳴をあげて尻もちをつく。アインは彼を一瞥し、伸ばしたナイフを元に戻す。テーブルの反対側に回り込み、
「シーナさん、行きましょう」
「えっ……は、はい……」
シーナの手を取って立ち上がらせる。固く握られた彼女の手は、小さく震えていた。その手を引き、二人はグインに背を向ける。
「支払いはあの方に」
ウェイターにそう告げ、背後で喚くグインの声を無視してアインとシーナはその場を去った。
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