第44話 幸福と不幸は巡り廻る

目を凝らす。目を擦る。穴が空くほど見つめる。

 そこまでして、アインは目の前で起こっていることが理解できた。正確に言うなら、何が起きているのかわかったが、何故そうなっているのかはまったくわからない。

 

「ラピス……何をして……」


 茹った思考では、そんな意味のない言葉を出力するので精一杯だった。

 ラピスは笑う。聞き分けのない子どもを優しく見守る母親のように。


「言ってるでしょ? 水浴びをしようって。そのためには服を脱がないと」

「それはわかってます……けど、こんなところで……」


 アインは視線を落とし――なめらかで引き締まった肢体が目に入り、慌てて背を向ける。目を固く閉じ忘れようとするが、焼き付いた映像は熱を体に残し続ける。

 おかしい、絶対におかしい。彼女は、こんなことを言う性格ではない。こんなコミュニケーションはとらないはずだ。

 じゃあ、ここにいる彼女は一体――。問い続けるアインの肩に、そっと手が置かれる。


「恥ずかしがる必要ないじゃない。風呂だって一緒に入ったでしょ?」

「ふ、風呂と外は全然違います……ひゃっ」


 耳元で囁くラピスの声が、息が、アインの耳を震わせる。思わず逃げ出そうとする体に、絡みつくように腕が回された。

 荒い息を吐き続けるアインに構わず、むしろ楽しんでいるようにラピスは唄う。


「アインの綺麗な体……見たいな……」

「きれい……なんて……」

「綺麗よ。綺麗で、可愛い体」


 腰に触れていたラピスの指先が、アインの大腿部をつっと撫でていく。指先は大腿部から腰へ、腰からへそと上へゆっくりと上っていき、


「ほら、大きくはないけど小さくもない。綺麗な形ね」

「……ッ!」


 アインは、指を噛んで漏れかけた声を抑える。熱がこびりついた体は、痛覚すらも曖昧だ。なのに、ラピスの指が触れた箇所だけは電流が走ったように痺れる。彼女に支えてもらわなければ、立っていることさえ出来ない。

 ラピスは、アインの手を口からそっと引き離す。そんなもので口を塞ぐ必要はないと、囁きながら。


「アインは、甘いものが好きだったわね。ねえ、試してみない?」


 アインの頬に手を添え、振り向かせたラピスは言う。瑞々しい唇が、舌で舐められより妖艶な輝きを照り返す。蕩ける瞳に見据えられ、すべての思考を放棄してしまいそうになる。


「これは……」

「んっ?」


 正気を失ってしまいそうな光景を前に、アインは何とか口を動かし、言葉を紡ぐ。

 

「夢……ですか……」

「そう、夢よ。けど、寝ながら見る夢じゃない。起きていながら見る現の夢。だから、目を覚ますことは出来ないの。だって、眠ってないんだから」


 クスクスと微笑いながら、ラピスは頬に添えていた手を下に滑らせる。シャツのボタンが一つ、二つと外されていく。止めようにも、弛緩しきった腕はまったく動かない。

 最後のボタンが外される。されるがままのアインの耳元に、ラピスは口を近づけていき――。


「アイン、左耳元だ!」

「えっ、だ、誰!?」


 叫んだのはユウ。しかし、驚きの声をあげたのはラピスではなかった。ずっと幼い子どもの声だ。

 

「……!」


 アインの体を緩ませていた熱が一気に冷え、消えていく。余計な熱を失った体は、ユウの声に応えるように瞬時に腕を動かしていた。


「んぎゃ!?」


 左耳元に伸ばした右手が柔らかいものを掴む。アインは大きな、心底からの嘆息をすると掴んだものを確かめる。


「悪ガキめ……捕まえましたよ……」


 右手には、衝撃に目を回す妖精の姿があった。





「急に立ち上がったと思ったら、ふらふらと歩きだすから何かと思ったよ」

「妖精の魔術でしょうね。それを待っていたとは言え、酷い目に会いました……」


 外されたボタンを嵌め直しながらアインは言う。視線の先には宝石の砂が沈む泉などなく、あるのは枯れ木が沈む泥沼だけだった。もちろんラピスの姿もない。全ては夢だった。


「追う必要が無いって言うのはこういうことか」

「ええ、妖精は追うと逃げるが待てば来る。まるっきり構ってもらいたがりの悪ガキの思考パターンなんですよ」


 嫌味を込めた言葉を中空に放つアイン。そこには、カゲロウのように薄く美しい羽根を持つ15センチくらいの少女が浮かんでいた。


「ちぇっ。独り言の多い変なやつだと思ったのに、そんな変な剣を持ってるなんて」

「ユウさんは、貴方みたいに脳味噌が小さくないんですよ。ちゃんと私の意図にも気がついてくれましたしね」

「ああ、うん。そうだな」


 誇らしげに言うアインから目をそらすユウ。

 実のところ、妖精を捕まえるチャンスは直前にも幾つかあったのだが、艶っぽく悶える彼女の姿に叫ぶタイミングを逃したというのが真実だった。しかし、剣の身になろうと男であることには変わらない。そんなチャンスを逃せるだろうか、いや逃せまい。

 ユウがそんなことを心で叫んでいるなどと知らず、アインは妖精に向かって指を突きつける。


「さて、本題です。妖精の悪戯がバレたなら、何か見返りを渡す。それが貴方達のルールのはずです」

「わかってるってば。『これは勝ち負けのあるゲームで、勝者には賞品が与えられる。だから負けても怒らないでね☆』って体裁で悪戯してるんだもの」

「ええその通りです。退治されたくなければ、さっさと寄越しなさい」


 余程頭にきているのか、アインはぶっきらぼうに言い放つ。何をされたんだ、とはユウは聞かない。怒りの矛先が自分に向けられるのがわかっていながら、どうして言えようか。


「こんなストレートに要求してくるやつは初めてだわ……で、何が欲しいって?」

妖精蜜ニンフハニーを一杯ください。これに」


 そう言ってアインは、ザックから瓶を取り出す。そう、瓶なのだが、


「……アンタ、遠慮って知ってる?」

「さあ、知りませんね。知ってても貴方にする義理はありませんが」


 妖精は呆れた顔をしていたが、アインは涼しい顔でワイン瓶を突き出す。

 苦々しい顔で瓶を眺めていた妖精だったが、嘆息すると腕を組みながら言う。


「わかったわよ。一杯は一杯だからね……はぁ、運がないアタシ可哀想……」

「問題ありません。貴方が不幸な分、私は幸福です。幸不幸のバランスは何処かで釣り合いが取れるようになっています」


 がっくりと肩を落とす妖精と鼻歌交じりのアインという実に対象的な絵に、ユウは社会というモノの一端を見たような気がした。




 ワイン瓶いっぱいの妖精蜜ニンフハニーを受け取ったアルミードは、鼓膜が破れるのではと思うほどの歓喜の声をあげアインを讃えた。報酬にはかなりの色を付けること、完成したら一本贈ることを約束されたアイン達は、そのまま魔術協会へと向かった。

 妖精蜜ニンフハニー以外の納品物は、街のあちこちからの依頼だった。そこへ一軒一軒回るのは面倒だったため、協会にまとめて渡し納品してもらおうと考えたのだ。アインが依頼人と顔を合わすのに難色を示したというのもあるが。


「では、よろしくお願いします」


 無言のアインに代わって受付に言うユウ。間違いなく、と応える受付に背を向けたアインに、


「あら、アイン。もう仕事は終わったの?」


 廊下から現れたラピスが声を掛ける。とくに怒っているようには見えず、声を掛けたのもただの挨拶だろう。


『あっ、おい』


 にも関わらず、何故かアインは返事もせず足早に出口へと向かう。深くフードを被り俯く彼女の表情は窺えず、その意図はユウにもわからなかった。

 急ぎドアノブに手をかけるアインだったが、


「……!」

「……その態度は無いんじゃない。もう怒ってないわよ」


 先回りしたラピスに手首を掴まれ、ドアノブから手を引き剥がされる。

 じっとアインを見つめるラピス。アインは、彼女から目を逸らし深く俯いていた。


『なあ、どうした。彼女の言うとおり、今朝のことはもう怒ってないみたいだぞ。怒ってるとしたら、今のお前の態度だ』


 ユウの言葉にも、アインは何も答えず俯いたままだった。その理由がわからず、困惑するユウ。

 彼女は、ラピスに負い目があったときでも無言のまま答えないということはなかった。むしろ、出来る限り誠意をもって答えようとしていたはずだ。なのに、どうして今になってこんな態度をとるのか。

 ユウがそうだったように、ラピスもその理由がわからなかった。しかし、ユウと彼女には決定的な差がある。


「ああもう! ちゃんと目を見なさい!」


 彼女には動かせる手があり、割りと怒りっぽいということだった。彼女は、アインの頬に手を添えると半ば無理矢理に視線を合わせ――。


「えっ?」


 言葉を失い、その手を離す。


「…………ぐすっ」


 アインは、泣いていた。ボロボロと大粒の涙を流しながら、冷たい床にへたり込む。静かに嗚咽をもらしつづける彼女に、その場に居たもの全員が何も言えずにいた。

 どうして泣いているのかは、アインにもよくわかっていなかった。

 ただ、ラピスの声を聞いたら先程の『夢』を思い出して、顔を見ることができなかった。そして、『夢』を想起させる行為に思考は追いつかず、しかし彼女を蹴っ飛ばして解決するわけにもいかず――。限界を超えた思考は、それを涙という形で発散させることを選択した。


「あ、アインなんで泣いて……わ、私のせい……私のせい……?」

「ラピ……ス……」

「と、とにかく場所を移して……」


 ラピスは狼狽えながらもアインを立たせると肩を抱き、衆人の目を避けるように廊下へ彼女を引っ張っていく。嗚咽は段々と遠ざかり、何もなかったような静寂がロビーに戻った。

 現場に残された人々は、互いに顔を見合わす。さっきの光景は夢ではなかったよな? というように。



 次の日には、『焔色の魔女が銀色の死神を泣かせていた』という噂が広まるのだったが――それはまた別の話。

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