episodeー5
暫く
トイレにでも席を外したのだろうとその時は気にも留めなかったが、宴も竹縄、そろそろお開きに近い時間帯になっても、
「あ、
「
出雲屋の長女が慌てた様子で声を掛けて来る。
「雅さん見てない? 締めのご挨拶をって旦那様が仰ってるのだけど、姿が何処にも見当たらなくて……」
実の弟を雅さんと呼ぶこのアラサーの女性は出雲屋の長女で、少女の様に可憐な女性だ。雅にはこの下に
「さぁ……俺は見てないけど?」
「そう……お仕事放り出す様な子じゃないのだけど……」
確かに、雅は仕事を放り出してどこかに行く様なヤツじゃない。
「心当たりを探してみるよ」
「えぇ、お願い。霞さんも鈴さんも探してくれているのだけど……」
とは言え、ここは納戸がある出雲屋本店ではない。
雅が姿を消すとなれば、それ相応の理由がある筈だ。
具合が悪くてどっかで倒れてるか、我慢の限界を迎えてどっかで泣いているか。
依恋にはその二択しか思い浮かばない。
可能性が高いのは前者、と当たりを付けた途端に少し気が急いてしまう。
「あ、いた、依恋。ちょっとこの後……」
「何? 母さん。俺今から……」
「あんたこの後暇でしょ?」
「は? 何でだよ?」
母親の後ろに上品な桃色の着物に身を包んだ女が俯きがちに立っていた。
誰だよ!? と内心突っ込んだ依恋だったが、頬を赤らめた女の目が期待を含んでいる。
したり顔の母親を見て一瞬にして事態を把握した依恋だったが、本人目の前にして下手な事も言えず、雅の事で気が急いている依恋は断る算段が付かずに口籠った。
「すみません、彼はこの後私と約束を……」
依恋の肩に大きな手が掛けられて、その声がさっきまで喋っていた綿貫の声だとすぐに分かった。
「あら、
「ママにそう言って貰えたら、自信が付きますね」
「うちの息子と知り合いだったなんて知らなかったわ」
「ママにはお世話になってますし、依恋君とも末永く懇意にさせて頂ければと思ってますよ」
「味一さんに御贔屓にして貰えるなんて、願っても無い事ですわよ」
「依恋君を暫くお借りしても?」
「困ったわね、早苗さん、また今度で宜しいかしら?」
早苗と呼ばれた女の子はコクリと頷いてその場を離れて行く。
依恋の母親も、店を構える商売人。
どう転ぶか分からない女の相手をさせるより、上顧客に貸しを作る方が賢明だと判断した様だ。
「依恋、これでさっきの借りはチャラな」
「あぁ……うん。てか、綿貫さん、何で?」
「さっき廊下で若旦那が居ないって慌ててる社員がいたから君に教えてあげようと思って君を探してた。探しに行くんだろ? 一緒に探してやろうか?」
「いや良い。ありがと……」
ふんわりと香の匂いを残して綿貫が片手を上げて去って行く。
常陸が好きになるのも何となく分かる気がするし、あれだけ抱き合っても常陸が自分に心を移さなかったのも、綿貫と言う男を知れば納得がいった。
「苦労しそうだけど、常陸……」
そう一人零した依恋は、雅を探そうと会場を足早に出た。
左右を見渡して人気が無く、明るくもなく、雅が好みそうな場所を脳内で検索する。
トイレの狭い個室じゃ、誰かが入って来る度に人気を感じて落ち着かないだろう。
スタッフルームの隣にある在庫保管に使う部屋があったはずだが、そこも無人と言うわけではないだろうし……。
一旦会場の外へ出た依恋は、周りをぐるっと見渡して、屋上への非常階段があるのを発見した。
屋上があると言う事は、その入口がある。
こんな貸切のイベントが一日中行われている会場で、屋上に出入りする者はいない。
脳内でそう反芻しながら足はもうそちらへと向いて性急に歩き出していた。
雅は幼い頃から具合が悪くなると死期を悟った猫の様に姿を眩ます習性がある。
「具合悪そうには見えなかったんだけどな……」
エレベーターで最上階まで上がって来て、立ち入り禁止の黄色いロープを掛けてある屋上への短い階段を昇る。
踊り場を曲がった所で、鮮やかな
皺になるのも構わないとばかりに、無造作に横になったその姿を見て依恋は焦る。
「雅っ!?」
駆け寄って揺さ振るが、雅は顔を上げようとはしなかった。
「お前、大丈夫なのか? 具合悪いのか? おい、雅っ!」
「……るさぃ。平気だ」
「平気って、お前……」
声が
具合が悪い訳じゃ無くて良かった、と安心したのも束の間。
泣いているのだと気付いたけれど、今日一日泣く要素が何処にあったのか依恋には皆目見当もつかずに気付かれない様に一息付いた。
「お前のせいだ……」
「何?」
「お前が変な事言うから……眠れなくて……。お前の事ばっかり考えてしまって、仕事にならない……疲れた……」
「そうかよ。やっと本当の意味が理解して貰えたのかね」
片肘ついて丸まって横になっている雅を、依恋は慣れた手付きで起き上がらせると腰を抱いて引き寄せ、自分の足の間に座らせ大きな身体の内側にスッポリ収める。
「好きなだけ甘えろよ。誰も見てない」
「嫌だ」
嫌だ、と言う割には拒否る素振りも見せない。
誰の前でも飄々と表情を崩さない雅が、唇を噛み締め目元を濡らして眉頭を寄せる。後ろからなら見られてないと思う辺り単純すぎると思うけれど、雅よりも頭一つ身長の高い依恋からは、その艶めかしい表情はいつだって見えていて、情をそそられる。
依恋は雅の顔を覆う様に自分の羽織の袖を回して、肩越しに囁いた。
「見てないから」
その言葉を待っていたとばかりに雅の噛み殺した様な泣き声が漏れた。
こんな可愛い姿、誰にも見せて堪るかよ。
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