第3話 彼女は今日も声を抑える。
迅速さよりも丁寧さを心懸けた耳掃除が終わる。無論、片側の耳だけでなく、反対側の耳も掃除した。
ちなみに、反対側の耳を掃除するためには、彼女にぐるりと寝返りを打ってもらうのが手っ取り早いのだけど、俺の腹に顔を埋めるのは、どれだけメロメロに蕩けていても
「ふぅ……こんなもんでしょう。お疲れさまでした」
俺はハンカチで拭った耳掻き棒を脇に置くと、彼女の頭を太ももからそっと持ち上げ、尻でソファを擦るように身を滑らせながら立ち上がった。それから、これまたそっと、持ち上げていたままだった彼女の頭をソファに寝かせる。
「ふっ……はぁ……♥」
彼女はぐったり、ときどきひくひくしながらソファに身を横たえている。きっといつものように、腰が抜けていて起き上がれないのだろう。俺もいつものように、何も気づいていないふりをする。緩みっぱなしで閉じるのを忘れてしまった唇から零れた唾液を啜った音なんて、聞こえなかったふりをする。
これ以上いると、気づかないふりでは済まないものを見聞きしてしまいそうなので、まずは退散することにしよう。
「客間へ行ってますね」
返事はなかったけれど、それもいつものことだ。俺はさっさと部屋を出て、客間へ向かった。
勝手知ったるなんとやらで、もうこの辺りの道順は覚えている。というかそもそも、ここは貴族のお屋敷というイメージで想像されるほど広くはない。現代日本のちょっと郊外にある豪邸、くらいの大きさだ。よほどの方向音痴でもなければ、何度も来ていて迷うはずがない。
客間に入ると、ソファセットにはお茶の準備が調えられていた。
俺が入ってきたのに気づいた執事さんが、すぐにお茶を淹れ始める。俺はそれを視界に入れつつ、なんとなく定位置になってしまっているソファに腰を下ろした。
余談ながら、執事さんが手ずからお茶を淹れてくれているのは、この家には最低限の使用人しかいないからだ。下級貴族は昨今どこも、こんな感じの緊縮財政らしい。これまでぽつぽつ耳に入ってきた愚痴っぽい溜め息から察するに、貴族に義務付けられている「格式に応じた支出」とやらが、時代の流れと噛み合っていないのだろう。早急に法律が改正されることをお祈りするばかりだ。
執事さん――ヤコブという名前なのは知っているのだけど、俺の中では「執事さん」でインプットされてしまっているのだ――が淹れてくれたお茶は、透き通った青色をしている。良く晴れた空の色だ。こっちでは、貴族の飲むお茶というと、これのことになる。普通に摘んだ茶葉ではなく、葉っぱを集めて巣作りする習性を持つ鳥型の魔物(お茶鳥という)に茶葉で巣作りさせた後、その巣を使って作ったお茶だということだ。
巣作りに使われた茶葉にはお茶鳥の唾液が作用していて、魔術的な反応が起きることで色や風味が変化する。色は青や水色になり、焦がしたキャラメルというか、焦がした砂糖醤油というか、そんな風味が加わるのだ。
爽やかな空色の見た目と、それに反して、ほのかに甘くてスモーキーな味わい。そして、すぅっと余韻をたなびかせながら消えていく後口。俺はこの空色のお茶が、初めて飲んだときから気に入ってしまっていた。鳥が咀嚼した茶葉だと聞いても、燕の巣のお茶版だと思えば、余裕で許容できた。
空色のお茶と、生姜風味のケーキ(あるいはパン)を味わっていると、階上からご令嬢が降りてきた。
「お待たせしましたわ」
耳掻きしていたときとは衣装が替わっていて、より華やかで布地のたっぷりしたものになっている。髪型も、膝枕の邪魔にならないように引っ詰めて頭頂部で二つのお団子にしていたのから、後ろ髪の上半分だけを緩く結ったハーフアップにしている。背中を隠すように下ろされた髪にはしっかりと櫛が入っているようで、さっきまできつく結っていた名残の波立ちは残っていない。まっすぐさらりだ。
彼女は俺がお茶を堪能している間に、服を着替えて、髪を解いて、櫛も入れて――すっかり生まれ変わっていた。頬や唇まで、俺を出迎えに出てきたときよりも艶々して見える。まあ、そっちのほうは俺が耳掻きしてあげたお陰だろうけど。
「ヒトナリ様、本日も大変結構なお点前でした」
ご令嬢は俺の向かいに座ると、優雅に頭を下げた。
「ご満足いただけて何よりです」
「報酬はいつものように、で構わないのですよね?」
「はい、お願いします」
それから、お茶と雑談を小一時間ほど楽しんだところでスマホのアラームが鳴って、帰りの時間が迫ってきていることを知らせる。
「もうそんな時間ですか」
ご令嬢はわずかに唇を尖らせた。
最初にスマホのアラームが鳴ったときは目を瞠って驚いていたものだけど、今やすっかり慣れたものだ。俺がポケットから取り出したスマホに、興味津々の目を向けている。そのうち、触らせてくれとか、譲ってくれとか言われそうだ。
「申し訳ないのですが、そろそろお暇させていただこうかと……」
俺がそう言うと、すぐさま執事さんが一歩進み出てきて、
「お帰りの馬車は、いつでも出せるように用意できてございます」
なんとも出来た執事さんである。客の出迎えからお茶の用意までやってのけるうえに、普通に執事っぽい事務方の仕事までこなしているというのだから、出来たなんてものじゃない。どこの家の執事さんも、このくらい凄い方々なのだろうか? 今度はそのへんのことも聞いてみたいものだ。
――などと頭の片隅で漫ろに考えながら、俺は玄関まで見送りに来てくれたご令嬢にお暇の挨拶をして、屋敷を出た。
迎えの馬車では執事さんが一緒だったけれど、送りの馬車では俺一人だ。執事さんは忙しいのだろうから、それも当然だろう。
貴族街から城壁の副門を抜けて新市街の街並みへ出ると、さらに街外れへと向かう。人通りの少なくなる街外れまで来ると、馬車はゆっくりと減速していき、旅の神を祀った祠の前で停車した。
祠というとイメージが掴みづらいかもしれないけれど、見た目を言い表すなら、一人用の東屋だ。一人か二人くらいが立てる程度の大きさをした正方形の土台があり、その四隅から俺の身長よりも高い柱が伸びていて、その上に半球状の屋根が被さっている。
祠の中には何もなく、ご神体は屋根の上に飾られている。その話を聞いたときは、
「鯱みたいだな」
と思ったものが、実際に少し離れて見上げてみたら、鳥のような翼を広げた魚が載っていて、ちょっと唖然としたものだった。地方によっては、翼ではなく二本のおみ足を生やしているのだとか……。
ご神体の姿については地方色が出るようだけど、屋根の上に祀られるという点は一貫しているそうだ。旅の神は、屋根と天井があるところに腰を落ち着けるのが苦手らしい。
そんなわけで、旅の神の祠には何もない。風のない日の雨宿りには使えるかもしれない、程度の空間があるだけだ――というのが大多数の認識だけど、俺は違う。
俺には、祠の中にでんと鎮座坐している石碑のようなものが、はっきりと見えている。縦長の御影石っぽいものを縦半分に割ったもので、断面は鏡のように真っ直ぐ滑らかだ。しかし、鏡のように、それを見つめる俺の姿が映り込んだりはしていない。光を放つようでもあり、逆に光を吸い込んでいるようにも見える。
その石碑の断面は、俺がこちらの世界に来るために使った鏡――山中のお屋敷の蔵の奥の壁に収まっていた、俺だけに見える鏡的な何か――にそっくりだった。というか、同じものだろうと俺は思っている。
俺はその断面に近付いていくと、躊躇なく通り抜けた。
一瞬、視界がぶれる。脳内のスイッチを高速でオンオフさせたような――させられたような感覚。でも、慣れもあるのか、ぶれはすぐ消えた。そして、
「お帰りなさい。時間通りね」
書斎にリフォームされた蔵の中で、俺にそう言って頬笑みかけている少女の姿が、目の中で像を結んだ。
異世界の男爵令嬢に勝るとも劣らぬ、気品に満ちた微笑みだった。これが俺の同級生だなんて、いつ考えてみても、ちょっと信じられない。非現実的だ。
「ねえ、時間があまりないんだけど」
そんな非現実的彼女が、いい感じに柳眉を顰めて言ってくる。つまりは、二人きりでいても怪しまれない時間は長くないのだから、早くしてください――という催促だ。
なんだよ、困ったね。待てのできない欲しがり女子め、なんてことは言わない。
「分かった。すぐに始めよう」
「ええ、そうして」
俺が頷くと、彼女はそそくさと回れ右して、けして広くはない読書スペースに無理やり持ち込んだ三人掛けソファに寝そべった。傍らのサイドテーブルには、道具も準備されている。顔にも言葉にも出さないものの、俺の帰りを待ちわびていたのが一目瞭然だ。これで燃え上がらないほど、俺も男をサボっちゃいない。
――いいぜ、お嬢様。あんたのイカした澄まし顔、とろとろになるまで俺がほじくり返してやるよ。
……そんなこと言えやしないけど、内心でそのくらいの気合いを入れながらソファに座ると、自分から膝枕されにきた彼女の耳掃除を始めた。
「はっ……っ、ひ、ぃ……♥ そこ、ぉ……ぁ、あぁ……♥」
高いところに小窓がひとつあるだけの、分厚い壁と扉に閉ざされた土蔵の中に、彼女の漏らす啜り泣くような声と吐息が、しばらくの間、こだました。
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