第2話 令嬢の穴が火照るとき

 無骨で重厚な作りの蔵から門を抜けた先は、白い雲の流れる青空に見下ろされた屋外だ。足下には踏みならされた煉瓦道が伸びていて、その道に沿って正面を見れば、近世ヨーロッパのような――というか、それをモチーフにしたような街並みがどこまでも広がっている。


 振り返ってみれば、そちらには緑が広がっている中を煉瓦道が延々向こうへ続いている。


 つまりここは、街外れだ。街と外との境界線だ。


 古いヨーロッパの街というと、城壁にぐるりと囲まれているイメージがある。門のこちら側に来てすぐの頃は、そのイメージは単なる思い込みだったらしいな、と思っていたけれど、じつは半分くらいはそのイメージで合っていたことを、今は知っている。


 この街の中心にはお城と一部貴族のお屋敷があり、それを囲う城壁が存在している。そして、その城壁を取り囲むようにして、俺がいま見ている街並みが環状に広がっているのだった。


 昔は、城壁外の街並みは十把一絡げにして「流れ者の巣くうスラム街」と見なされていたらしいが、今は一部の区画を覗いて、ご覧の通りの新市街とでも言うべき街並みに生まれ変わっている。


 この新市街を囲う城壁をどうするかは議会でも意見がまとまっていないまま、そろそろ二十年ほど経つのだとか。今となっては、新市街の城壁に関する議論は、議会の会議中に他の問題で指弾された側が矛先をかわすために持ち出す鉄板ネタでしかないらしい。貴族院議員からだろうと庶民院議員からだろうと、このネタを持ち出せば一発で場が荒れて一次休憩になるのが決まり切っているので、誰かが「城壁は――」と口火を切った途端に席を立つ議員もいるのだとか。


 さて――そうこうしているうちに、この笑い話(?)を茶飲み話に語ってくれたご令嬢からの使者がやってきた。


 街中からだく足で近付いてきた二頭立ての馬車が、街外れの祠前に佇んでいた俺のところまで来て、停まった。

 行商人が使うような実用一辺倒のものではない。小さいながらも、天井もあれば装飾もある立派な貴族仕立ての馬車だ。


「これはお待たせしてしまいましたか。申し訳ございません」


 御者ではなく、客室から降りてきた老紳士が恭しい仕草で謝ってくる。こちらもまた、一目で執事的な仕事に就いている人だと分かる御仁だ。しかも人種的に白人っぽいので、セバスチャン度合いは元の世界で高級車に乗って迎えに来てくれた老紳士よりも高い。


 そんな老紳士に、


「いえ、ちょうどいま来たところです。いつもお迎え、助かってます」


 俺は笑顔でそう返事をしながら、結構勾配のきつい階段を上って客席に乗り込んだ。


 馬車は器用にUターンして、街中へと戻っていく。自動車よりもずっと遅いけれど、乗り心地は悪くない。地球とは別のやり方で衝撃を吸収する機構が組み込まれているのだとか。


 馬車の窓から見える建物は、街の中心に向かって行くにつれて、高く、大きく、立派になっていく。そして最後に待ち構えているのが、さらに高く大きく立派で、ついでに古めかしい城壁だ。城壁には、その大きさに見合った巨大な正門が据えられているけれど、そこは式典の時くらいしか開くことがないらしい。普段は正門の脇に併設されている副門が使われている。


 副門と言っても、いま俺が乗っている馬車より大型のものが余裕を持って擦れ違えるくらいの横幅がある。こちらのほうを正門と呼び、本物の正門のほうを特別門とでも呼べばいいと思うくらいだ。


 俺がそんなことを考えている間に、門番と御者とのやり取りは終わったようだ。門の手前で停まっていた馬車が再び動き出す。


 今度はそんなに走らなかった。

 目的の場所は城壁に入ってすぐの屋敷で、場所はその敷地内に入っていく。地球の日本の一地方都市の――つまり、この世界に来るための門がある蔵を持っているお屋敷と、だいたい同じくらいの大きさだ。ただし、こちらのお屋敷に前庭や蔵はない。馬車用の車寄せと車庫や厩舎があるだけだ。


 城壁の内側はいわゆる貴族街で、重厚で立派なお屋敷ばかりが立ち並んでいるけれど、その中にも序列というものがあるそうで、中心である王城に近いほど、お屋敷の規模というか敷地の広さが大きくなっていく。


 王城が聳え立っている中心部に近いところほど、広大な敷地に屋敷がぽつぽつ建っているだけだが、城壁に近付いていくほど、ひとつひとつの敷地は狭くなっていき、屋敷が林立するようになっていく。

 俺は中心部のほうに行ったことがないのだが、外縁部のほうの光景を例えるなら、タイルの代わりに一戸建てを敷き詰めて描いたモザイク画だ。


 とにかく、これから向かうお屋敷は、貴族のお屋敷という言葉の響きからイメージするよりずっと、窮屈な印象だった。そのうえ、新市街に比べてずっと古くさい。


 じつは失礼だと思いつつも、

「改築はしないので?」

 と尋ねたことがある。


 それに対する返事は、

「するわ。そんな金があったらね」

 ……だった。


「なら、贅沢を止めて倹約したら?」


 俺がさらにそう言うと、返事はこうだった。


「貴族には格式に応じた支出が義務付けられているの。貴族法というのがあるの」


「……はぁ」


 貴族法なるものが本当にあるのか、それとも俺を担ぐためにデマカセを言っただけなのか、俺にはよく分からない。けれども、城壁沿いに暮らす新興男爵様の台所事情は色々ままならないらしいことは、なんとなく察せられた。


 さて、話を戻そう。


 玄関前の車寄せで馬車を降りた俺は、一緒に降りた老紳士――この屋敷の執事に先導されて、屋敷に入った。


 屋敷に入ると、馬車の戻ってくる音で気がついたのか、玄関ホールには既に女性が現れていた。この屋敷の当主である男爵殿の一人娘にして、俺をこの屋敷に呼んだ張本人だ。というか、俺の顧客だ。依頼人だ。付け加えるなら、先述した貴族法云々について俺に語ってくれた女性だ。

 まあ……女性というか、俺と同い年の少女なのだけど、自分が男爵家の代紋を継ぐのだという自覚がそうさせているのか、とても大人びている。

 いや、老けているわけではない。風格というか威厳がある、という意味だ。あるいは、それこそが貴族としての気品、品格というやつなのだろうか。


 ……っと、またもや話がずれた。元に戻そう。


「いらっしゃい、ヒトナリ様。本日もようこそ、お越しくださいました。わたくし、とってもお待ちしておりましたわ」


 彼女は優雅な所作でスカートの裾を摘み上げて、俺に微笑みかけてくる。そこはかとなく感じる気品はそのままに、笑顔の華やぎが波紋を広げる。そして直後、つい緩みすぎてしまった笑顔を引き締めようとするように小さく咳払いした。


 俺の頭にぱっと思い浮かんだのは、と澄ました大人しい飼い犬の姿だ。いつもは無駄吠えひとつせず、餌を前にしても飼い主が「よし」と合図するまでじっと食べるのを待っているような出来た飼い犬だけど、飼い主が毛繕い用のブラシを見せた途端に、ぱっと尻尾を跳ねさせるのだ。そしてすぐ、ついはしゃいでしまったことを恥じて誤魔化すように視線を逸らすのだ。


 ――俺に華やかすぎる笑顔を向けてしまって慌てる男爵令嬢は、そんな感じの犬だった。


「お嬢様、お客人をいつまでも立たせたままでは申し訳ありませんよ」


 執事さんがご令嬢に助け船を出す。


「んっ、そ、そうね。さあ、ヒトナリ様。わたくしの部屋へ参りましょう。――ヤコブ、お茶の用意はいつものように」

「はい、かしこまりました」


 執事さんが一礼したのを見ると、お嬢様は俺に向き直る。


「では、参りましょう」

「はい」


 俺は彼女のきらきらした瞳に、やっぱり毛繕いを待ちきれない犬の姿を思い浮かべてしまって、笑うのを堪えるのに努力が必要だった。


 お嬢様の部屋は先週来たときと、とくに何も変わっていない。この世界の貴族令嬢が一般的にどのような私室を持っているのか知らないけれど、彼女の私室は控え目に言っても質素だ。

 支出が義務付けられているとかいう話も、私的空間にまでは適用されないらしい。まあ、おかげで俺もそんなに緊張しないで済んでいるわけだが。


 ちなみに言っておくと、一月前までは彼女の部屋に通されるようなことはなかった。普通に客間で応対されていた。場所が客間から私室に変わったのには止ん事無き理由があるのだが、それにしたって、どこの馬の骨とも知れない男を自室に上げるというのは如何なものだろうか、と思わなくもない……と言ってしまうのは藪蛇だと分かっているから、それだけ俺が信頼されているということだ、と好意的に受け取っておくだけにしている。


「それでは、ヒトナリ様……」


 彼女は頬をほのかに染めて、ちらりと目顔でベンチソファへと俺を促す。肘掛けも背もたれもないソファは、小さなベッドのようだ。


 俺は頷き、ソファに腰を下ろす。そして、揃えた自分の膝をぽんと叩いて、目顔で彼女を促した。


「……」


 彼女は頬の色付きを濃くさせながら、おずおずとこちらにやって来る――途中ではたと気づいたように回れ右して、文机に置かれていた道具に手を伸ばすと、改めてこちらにやって来た。


「では、よろしくお願いします……」


 彼女が小声で言いながら差し出してくる道具を受け取ると、彼女は意を決したように息を短く吸い込んでソファに膝を片方ずつ乗せていき――ゆっくりと、しな垂れかかるようにして、俺の膝に頭を乗せた。

 簡潔に言うなら、ベンチソファの上で俺に膝枕された。なお、彼女の顔は向こうを向いている。


 そして俺は、彼女から先ほど手渡された道具――耳掻き棒を右手に構える。


「いきますよ」


 俺はささやく。言葉は返ってこないけれど、身動ぎしないでいることが彼女の返事だ。


 そっと、先の曲がった銀製の細棒を、彼女の耳に近づけていく。彼女の髪は腰にかかりそうなくらい長いけれど、最初から膝枕されるつもりだったからか、頭頂部に大きなお団子を二つ載せた引っ詰め髪にされている。首筋からうなじにかけての白い肌が露わになっていて、喉がひくりと鳴りそうになる。こればかりは、いつになっても慣れることがなさそうだ。


 銀の耳掻き棒の、平たく潰した後に軽く曲げたような先端が、と耳孔に落ちていく。彼女の呼吸に合わせて、孔内側面に少しも触れることなく差し入れたから、目を瞑っていた彼女はきっと、その瞬間が訪れるまで、耳掻きが入れられていたことに気がつかなかったはずだ。


 耳掻き棒の先端が、耳孔のやや入ったところの側壁にへばりついていた耳垢の端に触れた。

 その瞬間、


「ふあぁ♥」


 彼女の首筋に、ぶるるっと震えが走った。なんとなくそうなる予感がしていたので、俺は彼女が震える寸前、耳掻き棒をさっと耳孔から引き揚げている。


「ごっ、ごめんなさい。動いたら危険だということは分かっているのよ。けれどもほら、ヒトナリ様にしてもらうの、一週間ぶりでしょう? やはり最初のひと掻きは、どうしても声が出てしまうというか、身体が反応してしまうの。ごめんなさいませ!」


 彼女は横向きに寝た体勢で正面を見つめたまま、早口で捲し立てる。

 耳掻きの時にしか見られない取り乱している姿には、彼女の言葉を借りるわけではないけれど、どうしても鼓動がドキリと反応してしまう。


「……続き、やりますね」


 俺は少し強引に気持ちを戻した。


「ええ、お願い」


 彼女の身体からも強張りが抜けていくのが、膝枕している太ももから伝わってきた。


 さて――。


 俺はペン回しならぬ耳掻き回しを一発くるりと決めてから、銀の耳掻きを彼女に耳孔にするりと落とした。




 指先に全てが集まっていく。

 頭蓋骨の内側に収まっている思考回路が神経網を通じて肩から腕を通り、指先へと移動していく。耳掻き棒の手応えを指で感じて脳で処理するのではなく、指で感じるだけでもなく、指で考えるのだ。


「んっ……ぁ……」


 悩ましげな吐息が、彼女の唇から零れ落ちていく。無論、銀の耳掻き棒が耳孔の壁を優しく撫でるリズムに合わせて、だ。

 吐息に合わせて耳も揺れるが、俺の指はその揺れが来るタイミングも、揺れる大きさも、完璧に予想している。ボクシングが指先でやる競技だったら、俺は一発も打たれない最強ボクサーだったろう。


「っ……っ、ぁ……♥」


 彼女に甘い吐息を零させながら、耳掻きの棒は耳孔の中を風のように舞い踊る。ときには微風のように耳壁を擽る。また、ときには逆巻く旋風となって、耳壁に貼りついた耳垢をと剥がし、崩し、掻き取っていく。


「――お、すごい。一週間で随分溜め込んだものですね」


 俺はくすりと笑いながら手を伸ばして、横臥している彼女にも見えるように耳掻き棒を持っていく。棒の先端にはいま取ったばかりの耳垢を見せてやる。


「あ……いやっ……そんなの見せないで……!」


 目を逸らすわけにもいかず、ぎゅっと目を瞑るばかりの彼女。そんな恥ずかしげな仕草と声に、俺もついつい悪戯心が芽生えてしまう。


「こんなに大きな塊、なかなか無いですよ。せっかくだから見てくださいよ」

「いっ、意地悪を言わないで――」

「でも嬉しいな。こんなに溜まっていたらむず痒くて仕方なかったでしょうに」

「それは……」

「この穴、痒くても誰にもほじらせなかったんですね」

「っ……その言い方は――」

「俺にほじって気持よくしてもらうために、一週間頑張って我慢したんですね。えらいえらい」

「ああぅ!? ばっ、ばか……!」


 彼女は首筋まで真っ赤にする。これ以上からかうと本気で拒まれそうだ。


「すいません、調子に乗りました。耳掻き、続けますね」


 俺は耳掻き棒の先を絹のハンカチで拭って綺麗にすると、耳掻きを再開させた。

 指の延長になった耳掻き棒が、耳の穴に籠もった火照りを優しく掻き取るように、耳孔を泳ぐ。


「……はぁ……ふ……♥ ふぁ……あぁ♥」


 すぐに、彼女の身体は弛緩していく。しかし、耳孔の内から立ち上るほのかな火照りは、いつまで経っても消えないままだった。

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