ありがとうな

 午後二時を過ぎ、席に座るお客さんの姿がまばらとなり、俺はいつもの通り夜の仕込み作業へと取り掛かる。

 平たい鳥のもも肉に対して水平よりもやや斜めに包丁を入れ、鶏肉を開いていく。広がった鶏肉を今度はからあげサイズに切り分け、次々とボールの中に入れていった。

 四年間、毎日毎日この作業をしていたためか、目を瞑ってでも出来るほどに上達している。速度も正確さも、おそらくオヤッサン以上だろう。

「おめぇー、今日はやたらと元気だったなぁ」

 上機嫌な声でオヤッサンが俺へと話しかけてきた。俺は後ろを振り返る事なく、オヤッサンへと「そうですかね」と返事をする。

 返事をして、気がついた。こういう所が、俺の悪い所なのだろう。

 まず、振り返って目を見て話せ。そして実際に元気があったのだから、否定的な言葉を返すのではなく、肯定するべき。捻くれていると言われる所以は、こういう部分からなのだろう。

 俺はオヤッサンを、いい気分にさせたい。元々明るい人なのだが、明るいオヤッサンに気を使わせてばかりだという実感があるのだから、それを少しでも減らし、少しでも俺の言葉で元気付けたい。

 俺は包丁を止め、後ろを振り返った。オヤッサンは俺の後ろで、俺の方を向かずに、夜の分の仕込みを慣れた手際でこなしている。

 ……なんだ。オヤッサンも俺の方を向いて居なかったんじゃないか……なんて事を思ってしまったが、そんな事はこの際、関係ないだろう。捻くれている現状が嫌なら、素直な言葉を言うべきだ。

「お……っ」

 俺はつい、口ごもってしまう。

 やはり緊張はする。素直な言葉は、とても恥ずかしい。素直な言葉を言ってこなかったブランクが、俺の口を固く閉ざしている。

 でも、今言わなければ、明日はもっと、言いにくくなる。その次の日になると、忘れてさえいるだろう。

 言いにくい事から逃げ回ってきた現状が今なのだから、この機会を逃せば、俺の考えを伝える機会が永久にやってこない事は、痛いほど分かっている。

 せっかく宮田ちゃんとオヤッサンが、俺の硬かった口を、こじ開けてくれたんだ。今、言おう。

「オヤッサンの話聞いたら、やる気がわきました」

「……んー?」

「オヤッサンが悲しんでいた事に気付けなかった自分が情けないです。だからせめて俺は、これからオヤッサンと一緒に頑張ろうと、思います。恩返しができればと、思います」

 ……俺の口は、こんな恥ずかしい事をペラペラと、よくも言えたものだ……自分でも驚く。

 流石に、恥ずかしい。恥ずかしすぎる。なんでこんな事まで言えてしまえたのだ。なんなんだ俺は。勢いとは、恐ろしい。

 俺は羞恥心が限界に達し、急いで鶏もも肉へと視線を移し、包丁を手に持って切れ目を入れていくのだが、俺の手はどうにも言う事を効いてくれず、大きさがバラバラになってしまう。

 これではアルバイト時代の俺と変わらない……いや、もっと酷いだろうか。オヤッサンから「使いモンにならんなー、こりゃまかない用だな。がはははは」と言われた事を、思い出す。

「トモよー」

 突然、俺の真横からオヤッサンが話しかけてきた。それを受けて俺は「うぉっ!」という、驚いた声を上げてしまう。

 オヤッサンの顔を見ると、少し元気を失っているかのように、見えた。俺の手元にある、乱雑に切られた鶏肉を見ての、表情だろうか。

「あ……これ、俺の今日の、まかないって事で……」

「ありがとうな」

 オヤッサンはそう言い、俺の肩をポンと叩き、歯を出してニッコリと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る