少しずつ

 開店時間になり、のれんを下げるために扉を開く。その際に既に並んでいた常連客が数名、店内へと入っていった。

 気難しそうなサラリーマン風のオジサン、黒地に金色の装飾があしらわれた服を着ている小さなオバサン、何の仕事をしているのか不明の若いお兄さん、誰も彼もが、一度は見たことのある人だった。

 これが、オヤッサンが積み重ねてきた現実。

 異性から愛される事はなかったけれど、料理の味と人柄で集めた、常連客。開店前から並んでくれる、本当にオヤッサンの味が大好きな、人達。

「いらっしゃっせーっ」

 俺はいつもより大きな声で、挨拶をした。

 挨拶をせずには、いられなかった。


 からあげ定食を食べ終えた気難しそうなオジサンが無言で席を立つ。このオジサンは、オヤッサンに対しても口を開かない。一番の常連だとは思うのだが、サッと食べ、サッと去っていく。

 それでも毎日、やってくる。同じ時間、同じ席に座っている。

 本当に、この店のからあげ定食が好きで、来てくれているのだろう。

「お会計750円になります」

 俺はいつもより大きな声を出す。するとオジサンはチラリと俺の顔を見たあとに、ポケットから財布を取り出して千円札を俺に差し出した。

「はい、それでは二百五十円のお返しです。いつもありがとうございます、またどうぞーっ」

 俺は心の中で「いつもありがとうございます」と言おうと、決めていた。いつもはそんな事、一切言わないけれど、今日からは必ず言おうと、決めていた。

 はじめての「いつもありがとうございます」は、口ごもる事も怖気づく事もなく、意外にも自然な形で言う事が出来た。

「うん……」

 オジサンは小銭を平手で受け取り、小さな声を発し、レジにほど近い扉を開き、外へと出ていった。

 注文以外で一切の声を発した事の無かったオジサンが、確かに、声を発した。

「はは……」

 俺は、笑った。小さく、笑った。


 一昨日から感じている、感情の起伏。それは長い間眠っていた俺の心と身体を、突き動かすものだった。

 宮田ちゃんと会話し、オヤッサンの話を聞いて、少しずつ、変わろうと思った。

 そう思えるのは、宮田ちゃんがいい子で、オヤッサンがいい人だから。いい子やいい人の雰囲気は、人をいい気分にさせる。安心させてくれる。変わろうと、思わせてくれる。頑張ろうと、思わせてくれる。

 まるで俺の中に、火が灯ったかのよう。過去に恵まれていなかった事は変えようのない事実ではあるのだが、それは文字通り、既に過去の事。現状と未来の先行きを、悲観する理由にはならない。

 今はどうだ。むしろ恵まれているだろう。そんな今をわざわざ自分から心を落ち込ませて、暗い気持ちのまま過ごす事は、損をしている。

 少し、変わろう。少しずつ、変わろう。

 その「少し」を少しずつ集めて、大きく変われるように、変わっていこう。そう思う。

「いつもありがとうございます。またどうぞー」

 俺の声は、また少し、大きくなっていた。

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