12-3
「大事な用事があるのですよ。共通の知人の話をするのです」
「知人ねえ……」
パメラは釈然としない様子だったが、ハート氏はすぐに別れの挨拶をした。それが事務的な態度だったので、シェイラはほっとした。
財産目当てで、意地悪な上に、職業倫理もない女なんか、ハートさんには相応しくない。早く引き離そうとばかりに、シェイラは足早に外へ出た。
「それで、ローガンには会った?」
ハート氏は早速訊いてきた。
「それが…………会ってないのです」
シェイラはがっくりと肩を落とす。
「どうしてなのかな……もし訊いてよければ」
「もしかして、ナイトリー先生にシェイラが会いに行くかもしれないと言いました?」
「いや、言ってないけど」
「よかった。実はわたし……彼に会うのが恐いのです」
「どうして? ……もし訊いてよければ」
シェイラはハート氏に向き直り、深くため息を吐いた。
「一言でいえば、もう恋を通り越して、信仰になってしまっているからでしょうか」
「信仰!」
「わたし……ナイトリー先生のことを神様か聖人みたいに、お祈りをしてしまうのです。朝と寝る前と、あと、何か困った時とか、落ち込んだ時とかに……」
「お祈り! あははははははは!」
笑われた。やっぱりそういう反応だよなあと、シェイラは情けなくなる。
「やっぱり笑いますよね。でも真剣な話なんですよ……」
「ごめん。それで、どうして恐いの?」
「分かりませんか? わたしにとって、ナイトリー先生は本当に、とても、とても、大切な存在なんです! 四月に入学した時、わたしは一人ぼっちで、初めてのことばかりで、不安で、寂しくて、人見知りで友達もいなくて、寂しくて寂しくて、心の支えが欲しくて、多分それで……ナイトリー先生のことを偶像にしてしまったんです。けれど、本当はわたしにも分かっているんです。現実には、ナイトリー先生は聖人君子ではなくて、普通の、ごく普通の、二十歳の男の人なんです!」
「まあ、ごく普通かどうかはともかく、少なくとも人間だからね……」
ハート氏は失笑混じりにそう応えた。
「ハートさんはずっと会っているから、そんなことはないでしょうけど、わたしは長い間会っていないから、ナイトリー先生がどんな人だったか、記憶にも自信がなくなっていて……。あの時はのぼせ上がっていたから、きっと、わたしの目には真実とは違うものが映っていたと思うのです。きっと、彼の良い部分ばかりが……。それが冷静になる前に別れてしまって、真実がなんだったのか、分からないままなのです。だから、わたしの記憶の中のナイトリー先生は、多分現実には、実在しないと思うんです」
「なるほど。たしかに厳密に言えばその通りだろうね」
「それから、わたしはナイトリー先生と結婚したいと思っていたのですけど、それも今ではバカな考えだと思うようになっていて。友達に独身主義の女の子がいるのですけど、その子が言うには『男は必ず浮気する』って。だとすると、わたしがナイトリー先生と結婚できても、遅かれ早かれ、彼が不倫したとか愛人を作ったと言って、悲しんだり、嫉妬に苦しんだりすることになるのです。それを想像すると、とても耐えられなくて……。それならいっそ、最初から結婚なんかしない方がいいのじゃないかと思うのです」
ハート氏が乾いた苦笑いを浮かべた。
「まったく、心配なんて今現在のことでも、するだけ無駄なのに、君は未来のことまで先取りして心配しているのか?」
「実は、その友達の考え方は、ちょっと偏っているのです。ハートさん、ナイトリー先生は真面目だから、不倫なんかしませんよねぇ?」
シェイラは、すがるような情けない声を出していた。
「そんなことは分からないよ。当然、可能性としてはあるだろう」
「そんな……」
せめて「僕だったらしない」とでも言ってくれれば気が済むのにと、シェイラはハート氏の正直さが恨めしかった。こんなに否定して欲しくて、否定して欲しくて、ただ否定して欲しいだけなのに、この人は気休めすら言ってくれない。
胸の中を、絶望感がどんどん広がっていった。ハート氏が否定しないということは、シェイラの言うことは正解なのだ。つまり、男性とはそういうものだということなのである。
「今の話をまとめると、本人に会って失望するのが恐いということなのかな?」
ハート氏は顎に手を当てて、考え込むような様子でそう言った。シェイラはもっと複雑だと反論しかけたけれど、考えてみればそうでもない気がしてやめにした。
「思い切りよくまとめましたね……。でも、そうですよ。ナイトリー先生が、本当はわたしが思っているような人ではなかったら、わたしはわたしの中の彼を失って、もう祈ることも出来なくなって、心の支えを失って、わたしは……また全てを失くしてしまうのです」
この恐ろしさは、家族がいる人には分からない。……心の中で、シェイラはそう付け足していた。
ハート氏は困ったような顔をした。
「でもね、ローガンの方から君に会いに来ることはないんだよ」
不意に、意識の隅に追いやられていた事実を思い出した。ハート氏は続けた。
「彼はこのまま自分の考えを貫いて、君と金輪際、別れるつもりなんだ。今はまだ僕を通じて繋がっているけど、それも、そろそろなくなる。見た感じ、彼はもう気持ちの整理がついたようだからね」
一瞬、呼吸が止まったかと思った。
「それって、わたしのことを忘れてしまうということですよね?」
めまいを堪えながら尋ねたシェイラに、ハート氏は事も無げに答えた。
「いずれはそうなる」
急に現実が、……内なる恐れでも未来の心配でも何でもない、単なる現実が、シェイラの前に横たわった。ナイトリー先生との別れが、いよいよ確実なものとなる。シェイラが何を恐れようが、恐れまいが、そうなるのである。
それから、ハート氏に尋ねられて、シェイラはこの一月あまりの出来事を報告した。けれど頭の中は、こうしている間にも刻一刻とナイトリー先生が遠のいて行く気がして、呆然としそうになるのを堪えるのに必死だった。
シェイラの心中などお構いなしに、ハート氏は素っ気なく帰ってしまった。薄暗くなった樫の並木道を去って行く後ろ姿を、シェイラは恨めしくいつまでも見送った。
それから一週間ほど、シェイラは情緒不安定もいいところだった。
ナイトリー先生がシェイラに何を言い、どんな表情をして、何をしてくれたか。その全てを思い出そうとして、シェイラは記憶をたどった。励ましてくれたことや、叱ってくれたこと。慰めようとして、そっと抱きしめてくれたこと。その一つ一つを想うたびに、切なくて涙が出た。授業中や、食事のときや、部屋で勉強をしながら、シェイラは虚ろな目をして、ぽろりと涙をこぼす。目撃した友人は驚いて心配してくれたが、シェイラは辛くはなかった。むしろ、彼を失う危険を冒して彼と会うよりも、こうして良い思い出を反芻している方が楽しいのだと、気が付いていた。
シャーロットと話していると、とても割り切った気分になって、一生独身というのは案外、良い選択かもしれないと思うこともあった。
「わたしは一人で生きていく」……心の中で、試しにそう宣言した。
すると、ぎゅっと胸が詰まり、涙が出た。
頭では様々な理屈を並べて、一生独身が正解だという結論に至ったはずなのに、心の底にはもう一人の自分がいて、「それは嫌だ」としくしく泣くのである。せっかく出会えた心が通う人と、一緒にいたい。彼の傍にいたいと言って、その人見知りの女の子は泣いていた。
気が付けば、会いに行くと決めたとしても、すぐには無理な時期になっていた。学期末考査が、一週間後に迫っていた。
試験が終わるまでは勉強に集中しよう。そう思った時、どこか安心している自分に気が付いた。
幻想の終わりを、先送りにする口実ができて喜んでいるのだ。現実に大切な人を失おうとしているのに、なんという危機感のなさだろう。
勇気を出すことが出来るかどうか。この単純な違いが、人生を左右するのだ。まるで他人事のように、そう悟ったころ、シェイラの元に一通の手紙が舞い込んだ。
ハート氏からだった。
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