第十二章 恐れ


 ナイトリー先生の居場所が分かってから一週間が過ぎ、二週間が経ち、三週間が終わっても、シェイラは彼に会いに行かなかった。忙しくて、出掛けている時間がない……なんて自分に言い訳しているけれど、本当はそんな理由じゃない。

 幾度か揺り戻しながらも確実に夏の名残は消え去り、ある日急に寒くなって、校庭の木々が一気に色づいた。季節は晩秋を迎えていた。

 暫く顔を見せなかったアレクシアがまた現れるようになり、エリザベスに恋の話をしている。何夜目かの訪問で、相手がフレデリックではなくなっていることに気が付いた。「別れたらしいわよ」と、エリザベスが教えてくれた。順調だと聞いていたのに急に別れるなんて驚いたと返事をすると、エリザベスは鼻でせせら笑いながら言った。

「よく言うわ。『略奪なんかして、すぐに別れて当然』だと思っているくせに」

 シェイラはびっくりして、そんなことは思っていないと抗議したが、エリザベスは信じていないようだった。

 あれは略奪だったのか? シェイラは困惑しながら、夏にあったことを思い返そうと試みた。しかしすぐに、検証する価値はないと気が付いて、やめにした。

 いずれにせよ、アレクシアがシェイラに対して何か後ろめたさを感じている様子は全くなかった。彼女は相変わらず毎晩のように部屋を訪れ、何度も聞いたことがあるような恋の話を繰り返した。

 エリザベスが変わったこと以外は、シェイラの生活に変化はなかった。そう、エリザベスは外ではシェイラに給仕や小間使いをさせていたが、部屋の中では、自分のことを自分でするようになっていた。

 一度だけ、彼女が反発したことがあった。

「もう、メイドごっこは終わりよ」

 ベッドの上に用意された洗い替えのシーツを指さして、エリザベスは言った。

「もう一通りのことは出来るようになったから、これ以上続ける意味はないわ。わたしは身の回りのことを、出来ないからしないわけじゃない。出来るけど、する必要がないのよ。今日からはメイドの仕事は下級生であるあなたが引き受けなさい!」

 宿題と格闘している最中に声を掛けられたシェイラは、早くこの話を終わらせたい一心だった。

「それはサー・エドウィンの本意ではないわ。少なくとも学生の間は、自分に厳しくしなければ……」

「お父様の名前を出せば、わたしが言うことを聞くと思ったら大間違いよ。ブラッドフォード准男爵家のエリザベス・ブラッドフォードが、ただの私生児のシェイラに指図されるなんて、あってはならないことだわ!」

「指図なんてするつもりはないわ……」

 エリザベスの大声に顔をしかめながら、シェイラは俯いた。

 どうしよう……。

 心の中で、ナイトリー先生に呼びかけた。

 もう、さじを投げてしまってもいいでしょうか?

「……指図なんかしないわ。もう、これからずっと。わたしは……バンブー寮に移ることにするから」

 怖くて顔を上げられない。消え入りそうな声になってしまったから、エリザベスに聞こえたかどうかも分からない。

「なんですって?」

 エリザベスの声が裏返っている。切れる直前だろうか。

「わたしはバンブー寮に……」

「そんなこと言って、空き部屋はないでしょ?」

「あるのよ。パメラに確認したから大丈夫」

「プラム寮とバンブー寮では、費用が全然違うはずよ」

「お金もあるの。心配しないで」

 シェイラはそこで、エリザベスを見た。彼女は仁王立ちになり、両手を握りしめ、眉間の寄った顔をひきつらせて、まさにパンク寸前に見えた。暫く、沈黙が流れた。

「私がいなくなっても、もう一通りのことは出来るのだから、あなたは困らないと思う。食堂での給仕はメイドさんに、使い走りは子分さんにでも頼んで」

 シェイラは身構えながら慎重に話した。

「あなたはもう、わたしとは関係ないってことね」

「部屋を移ったら、そうなるわ」

「関係なくなるついでに、お父様に手紙でも書いて、告げ口でもするつもり?」

「もう関係なくなるのに、そんなことはしないわ……」

「始めから、バンブー寮に逃げるという保険があったわけね。急に反抗するなんて、どうも妙だと思ったのよ! それなのに、わたしに縫い物を教えたりして、一体どういうつもりだったわけ? そんな面倒臭いことをせずに、さっさと私から逃げればよかったのに!」

 エリザベスの山型に結んだ口の両側を、涙が伝い落ちた。

「どういうつもりって、始めに言った通りよ。ピアノを教えてくれたから……。それに、寄宿学校が初めての私に、あなたは学校のことを色々と教えてくれたわ」

「あなたはまた、よくもまあそんなことを……!」

 あとは言葉にならなかった。エリザベスはわっと叫ぶと衣装タンスに走って行って、ハンカチを何枚も取り出し、涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭いた。

 シェイラは、訳が分からなかった。エリザベスは両手に一杯のハンカチを顔に押し当てて、わんわん泣いている。声を掛けたら噛みつかれそうなので、そっとしておいた。

 暫くすると、エリザベスは何事もなかったかのように、取り澄ました表情をしてシェイラの前に戻って来た。


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