5-4



 道を間違えたことは明らかだが、前方のレンガ塀を辿って行けば校門に出るような気もした。戻るべきか行くべきか。日没まで時間がないと思うと気が動転する。

 シェイラは元来た道を、箱を抱えて走り出した。すると、一人の男子生徒がカーブの向こうから走ってこちらにやって来る。一瞬、フレデリックかと思ったが、近づくと違うと分かった。彼は両手を広げてシェイラを制止した。

「なに? なんなの?」

 男子生徒は無言のまま、ぜいぜいと肩で息をしている。汗に濡れたその顔は、日曜礼拝でシェイラを見ていた、痩せて細長く、真っ白いあの顔だった。

 彼は目を見開き、押し黙ったまま暫くシェイラを凝視したのちに、さっと手を伸ばして帽子の箱を奪い取った。そしてそれを、無造作に道端へ捨てた。

「えっ!」

 シェイラが打ち捨てられた箱を目で追った瞬間に、男子生徒は身を屈めて、肩と腕でシェイラの太腿を捕えた。次には、身体が宙に持ち上がる。シェイラは肩に担ぎ上げられていた。

 腰よりも頭が下になった身体が揺さぶられる。男子生徒は歩いてシェイラをどこかへ連れ去ろうとしていた。

「放して! いやぁ!」

 全力で手足を動かし、抵抗した。しかし、ひ弱そうな見た目からは想像できない凄い力で太腿を掴まれていて、逃げることが出来ない。

 すると、すぐ傍にもう一人誰かが来たことに気が付いた。

「おい、放せ!」

 別の手がシェイラの胴を捕えて奪い取った。抱きかかえられ、地面に降ろされる。見上げると、そこにフレデリックがいた。

「こいつ……!」

 フレデリックは男子生徒に掴みかかり、拳で顔を殴りつけた。シェイラは思わず悲鳴を上げる。男子生徒の細い身体は簡単に飛ばされて地面に倒れた。そして半身を起こすと、信じられないという目つきでこちらを見上げた。

「あっちへ行け!」

 噛みつくような勢いで、フレデリックが一喝する。男子生徒は慌てて起き上がり、一目散に走り去って行った。

「なんなの、あの人! あの人、日曜礼拝でわたしを見ていたの!」

「あいつ、気持ち悪いだろ? 変態なんだ」

 フレデリックはそう言うと、シェイラの手首を掴んで引き寄せた。つんのめるようにして、少女の華奢な身体が腕の中に落ちる。腰と背にしっかりと腕を回して、フレデリックはシェイラを抱きしめた。

「あの人、いったい、いったい、何を」

 シェイラは興奮状態で目を見開き、彼の肩を凝視していた。

「間に合ってよかった。僕が来なかったら、今頃どうなっていたか……」

 そう言われて、事の重大性を認識した。無意識に、身体がガクガクと震える。

「かわいそうに、怖かったんだね」

 彼の手がシェイラの頭を撫で、首筋をたどり、背中を撫でた。そして、その手が再び首を捕えた後に、彼は少女の唇にキスをした。

 先ほどとは違った震えが来て、眼に熱いものが溢れた。シェイラは混乱して、何が起こっているのかを考えることが出来なかった。

 シェイラにとっては、長い時間、好き放題に唇を吸われていた気がした。やがて彼は、シェイラが呆然と涙を流していることに気が付いた。フレデリックはシェイラを解放し、何事もなかったかのような態度になった。暗くなるからもう帰ろうと言って、彼は帽子の箱を拾い、それを渡す時に初めて、少し気まずそうな顔をした。

 二人は校門まで一緒に歩いて行った。だんだんと落ち着きを取り戻したシェイラは、先ほどの男子生徒のことを警察に報告しないかと話した。

「警察だって?」

 フレデリックは頓狂な声を上げた。

「持ち上げられたぐらいじゃあ、相手にされないよ」

 それで話は終わった。

 フレデリックとは校門で別れ、そこからはシェイラが一人で帰った。あの男子生徒が潜んでいるような気がして、プラム寮まで走らずにはいられなかった。

 エリザベスはまだ帰っていない。

 部屋で一人、ベッドに腰掛けていると、先ほどの出来事がまざまざと脳裏に甦った。

 叫びたくなるほどの感情が、溢れ出た。シェイラは苛立ち、声を上げて泣き、怒りが込み上げ、力任せに拳をマットレスに叩きつけた。

 わたしは弱い存在だ。その事実が、何よりも腹立たしい。普段どれだけ気持ちをしっかり持とうと頑張っていても、ひとたび非常事態となれば、自分の力ではどうすることも出来ず、なされるがままになっているしかない。

 それで、恐怖の為か、助けて貰った負い目からか、誰かに頼りたいという潜在的な弱さが首をもたげたのか、好きでもない男に抱きしめられキスされたのに、振り払うことが出来なかったのだ。

「何の大騒ぎなの?」

 いつの間にかエリザベスがそばに立っていた。シェイラはベッドでマットレスを叩きながら泣いていた。エリザベスに全て話したら気が楽になるだろうかと一瞬思ったが、慰めてくれることは期待できず、不注意を責められるか、好奇心から来る心無い質問に傷つけられるかだろうと想像してやめにした。

「なんでもない」

 シェイラは手の平で涙を拭った。

「そう。なら熱いお茶を持って来て。なるべく早くね」

 そう言いつけると、エリザベスは背を向けて自分の机に着き、読書を始めた。

 エリザベスは意地悪なだけではない。シェイラはあらためて、このルームメイトの心の冷たさを見た気がした。


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