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 乗客と荷物で満杯だった土曜日の駅馬車は、南門駅に着くと半分ほどが降りた。南門駅の周辺は治安が悪いので、シェイラはこのまま北門駅まで乗っていく。駅馬車はホール大通りを北上し始めた。

 ホール大通りはメレノイ市の中心部を南北に走るメインストリートだ。駅馬車の窓から歩道のイチョウ並木を眺めていると、街並みは次第に洗練されてゆく。

 メレノイ市を首都とするギャザランド王国は、過去五十年ほどの期間に周辺諸国に先駆けて産業構造の変革を成し遂げた。工業化の進展とともに中産階級は拡大し、その一部は従来型の王侯貴族とは別の新たな支配階級となった。その反面、都市部に流入した労働者は低賃金を強いられた。メレノイ市は世界一豊かであり、また、世界一貧富の格差が激しい都市と言われていた。

 今日は土曜日で学校は休みである。なぜメレノイに来たかというと、特に用事はない。セントルイザ女学院に入学して三週間になる。なんだか疲れて、都会に舞い戻りたくなったのだ。

 メレノイの下町で育ったシェイラは、この街の地理に詳しかった。少なくとも、セントルイザ女学院の生徒たちの中では詳しい方だと思う。エリザベスの話では、生徒たちはメレノイ市出身とは限らず、むしろ郊外の田舎や周辺の街の出身者が多いということだった。

 セントルイザ女学院はメレノイ市の南端、インペラーマウンド地区にある。メレノイ市の中心街は北門駅から南門駅の間であり、学院の最寄りであるインペラーマウンド駅から南門駅までが、馬車で約三十分の距離だった。

 シェイラは北門駅で駅馬車を降り、周辺の喧騒を抜けて、ホール大通りに戻って来た。この辺りは比較的上品な地域で大通り沿いには高級店も並ぶ。

 けれど、路地裏に目をやると懐かしい光景がある。靴磨きをする貧しい子供たちの姿だ。シェイラもかつては同じことをしていた。

 帽子の下に垣間見える巻き毛と、墨で汚れた丸い輪郭の頬。幼い頃の自分を見るような、女の子がいる。心の中で、がんばれと声をかけた。

 路上の靴磨きは物心ついたころから十歳ごろまでやった。その後は少しでも儲けが良い仕事を探して色々と試したが、一番安定して稼げたのは、お針子の内職だったと思う。

 そんな生活をしていたのが、数えてみたら約九か月前なのだから驚いてしまう。何不自由ない暮らしが当たり前と思わないよう自戒しているものの、靴磨きをもう一度やれと言われたら、厳しいと感じる。楽な方にはすぐ慣れてしまって、戻ることが出来なくなるものなのだろう。

 下町時代の暮らしは、嫌な思い出ばっかりだ。いつも働き過ぎで疲れていて、経済的な不安につきまとわれ、ならず者が身近にいる環境で危険な目にもあった。けれど、お金を稼いで家計を助け、家事を担うことで、自分の力で生きているという自負があったから、今の自分より自信があったかもしれない。

 そのような生活力は、上流階級のお嬢様たちの間では無意味で、せいぜいエリザベスのような変人を世話して怒らせないようにするのに役立つ程度になった。あとは甘やかされて育った彼女たちが一人では何も出来ない様を見て、こっそり優越感に浸るぐらいだろうか。彼女たちはシェイラがどんな風に育ったかを知らないし、想像もつかないに違いない。

 今日は一人で街をうろつくのに相応しいよう、下町時代の服を着てきた。黄ばんだブラウスに、擦れて穴が開く寸前の、紺色のスカートだ。そして、飾りのない綿布のボンネットを、顔を隠すようにすっぽりと被る。

 大通り沿いの高級服飾店のショーウィンドウを覗いてみた。シェイラはエリザベスやアレクシアに比べたら着飾ることに無頓着な方だが、決してお洒落が嫌いなわけではない。美しいドレスや装飾品を見れば、胸が高鳴った。その気になれば、今のシェイラはこの店で買い物をすることも出来る。

 けれどやはり、高すぎると思う。品質相応かもしれないけれど、亡くなった母が女工をして稼いでくれた賃金の三か月分にも相当する金額を、衣服一枚にかけることなど出来るだろうか。後見人のライアン卿は入学する際の支度金として、まとまった金額を、お小遣いとは別に渡してくれた。そのお金はまだ手を付けていない。必要なものはお小遣いの範囲で買えてしまい、必ずしも必要でないものは、罪悪感のために買えないでいるからだ。

 久しぶりのメレノイ市街は歩いているだけで楽しい。街並みを眺め、すれ違う人たちを眺め、馬車の多さを眺めるだけで楽しかった。

 シェイラはメレノイの観光名所であるミドルアイランドと呼ばれる中州の公園にやってきた。観光客に混じって、屋台で買ったコーヒーをすすっていると、目の前の川を遊覧船が下ってゆく。

「はあ……なんか自由だなあ」

 一つ息をついて、呟いた。

 こんな風に一人で、自由に、何でもできる私が、なぜ「夢見る乙女」とか「つるむのが好きな女子」扱いされなければならないのか。シェイラはそれを馬鹿にされたとしか受け取れず、まだ根に持っていた。

 彼女たちの方が、絶対に世間知らずのはずなのに。

 彼女たちは、全然解っていないのだ。

 結局、育ってきた環境が全然違うから、セントルイザ女学院の生徒とは仲良くなれない気がしていた。

 しかし思い出してみると、下町時代にも友達はいなかった気がする。近所の女の子たちと話しても、あまり楽しくはなかった。無意味なお喋りに付き合って時間を潰すくらいなら、仕事をして稼ぎたいと思っていたくらいだ。引っ越しを何度もしたことも原因だろう。母親が隠れるように暮らしていて、人付き合いをしなかったせいもあるだろう。

 考え事をしているうちにコーヒーもなくなった。次はどこへ行こうか。

 もともと用事はなかった。メレノイの空気を吸って満足したから、このまま帰ってもいいはずだ。けれど、足が動かない。

 こうしてメレノイをウロウロしていたら、ナイトリー先生に偶然会えないだろうか。

 シェイラはナイトリー先生の住所も神殿の名前も知らなかったが、その気になれば、自力で探し出す方法があると思っていた。一つは、彼が会員になっている貸本屋を知っているということ。また、神殿がどの辺りかは聞いたことがあるので、しらみつぶしに訪ねればいつか行き当たるということ。あるいは、共通の知人に頼み込んで教えてもらうという方法もあるかもしれない。

 しかし、ナイトリー先生の本当の気持ちがどうであるにせよ、「もう会わない」とはっきり言われたことは確かなのに、会いに行って良いのだろうか。相手にその気がない以上、諦めるべきではないのか。彼にとっては、もう終わったことなのだ。

 嫌な顔をされると想像すると、身が凍る思いがした。恐ろしくて、とても試せないという気持ちになる。

 本人に会って確かめないでいる限りは、僅かでも希望を抱いていられる。こちらを見て微笑んでくれる姿を、妄想していられるのだ。

 一体会いたいのか、会いたくないのか、どっちなのだろう。

 シェイラの足は、クランス街の貸本屋に向かっていた。ナイトリー先生と一緒に通った思い出がある場所だ。

 会えるかもしれないと思うから行くのだが、偶然会えるわけがないとも思うから、安心して行くことが出来る。

 貸本屋は以前と何も変わらぬ様子で営業していた。店内に入り、まずは一通り客の姿を見回してみる。偶然にいるはずがないと頭では分かっているのに、ドキドキしてしまう。いないと分かると、胸を撫で下ろす。

 書架を眺めながら、ここに二人がいた日のことを思い出す。あの時、彼の身体は常にすぐ傍にあった。必要以上に近く、体温が伝わるのではと思うほど近かった。彼が本に手を伸ばすと、抱きしめられるのではと思ってドキリとした。そして一時も離れず、二人一緒に書架の間をまわった。少しでも離れるのが惜しいというように。指一本触れないけれど、恋人同士のようだった。

 思い出をたどると、少し胸が痛い。けれど彼の言葉を思い出し、低くささやく声を思い出し、頭の中で再現すると、幸せな気分が甦った。

 入り口の扉が開いて、新しい客が入ってくる。シェイラは素早く目を走らせる。

 偶然に来るわけがない。

 けれど、もし来たら! ……その時は、顔を合わせる勇気がなくて、書架の陰に隠れるだろか。それとも会えた嬉しさで、飛び出してしまうだろうか。

 想像するだけでドキドキする。シェイラは本を選ぶふりをして、入り口が視界に入る場所に陣取った。それから二時間くらい粘ったけれど、予想通り、ナイトリー先生は現れなかった。


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