1-4



「家庭教師なんかしているってことは、下っ端の聖職者ね。大学はどこよ?」

 エリザベスが尋ねた。

「知らないけど、ハイマント市だって」

「ハイマント大学かしら」

 と、アレクシアはエリザベスの方を見る。

「そう思わせといて、ハイマント市の他の大学だったというのはよくある話よ」

「知らないわ。訊いたことがないもの」

「家柄は?」

 またエリザベスが尋ねた。

「……わ、分からない」

 シェイラは一瞬、息を呑んだ。ナイトリー先生は大学に入る前、奴隷だったという。もちろんシェイラはそれを不名誉だなどとは微塵も思っていない。しかし本人の承諾もなく、むやみに言うことではない気がした。

「よく知らないけど、伯爵家とかではないと思う」

 これにはエリザベスに対する皮肉が含まれているのだが、皮肉として受け取られることは期待していない。

「そりゃそうでしょうよ」

 エリザベスは鼻で笑ってそう言った。

「それで、それで? シェイラはその素敵な家庭教師の先生に恋しちゃったのね?」

 アレクシアが興奮気味に尋ねた。

「う、うん……」

「寝たの?」

「そんなことしません!」

「じゃあキスだけ?」

「それもなし!」

 シェイラは赤くなってしまった。

「キスの前って、何かある?」

 エリザベスがアレクシアに尋ねた。

「さあ? 手を繋ぐ、とかかしら?」

「手を繋ぐ! 新鮮だわ。久しぶりに聞いた気がする。シェイラ、先生と手を繋いだことは?」

「それぐらいなら……」

 赤面したまま口籠るシェイラに、アレクシアは憐れみを込めた優しい声音でこう言った。

「分かったわ、ごめんなさい。私たちが早とちりしていたわ。好きといっても、片思いだったのね。先生はあなたの想いに気づいていないのね?」

「違うのよ。あのね、確かにキスとかはしていないけれど、わたしは先生のことが好きで、先生もわたしのことが好きなの。わたしたち、お互いに愛し合っているのよ」

 愛という言葉を使ったのは、彼女たちへの対抗心かもしれない。そして、アレクシアへの当てつけだったのかもしれない。シェイラがそれを言った瞬間、二人の顔色が変わった気がした。

「なんでそうなるの? キスもしないのに?」

 エリザベスが困惑したような、あるいは人をバカにするような調子で言った。

「あら、エリザ、それは関係ないんじゃないかしら。きっとシェイラの先生は、『愛してる』って毎日囁いてくれるのよ。そうなんでしょ、シェイラ?」

「えっと……」

 エリザベスから庇ってくれたアレクシアの言葉にも、悪意を感じる。

「毎日というわけでは……」

 と、言いながら、シェイラは記憶を辿った。ナイトリー先生とそんな甘い言葉を交わしたのはいつだったろうか。

「あ、やだ……ごめんなさい。わたし間違えてた。よくよく思い出したら、『愛してる』と言われたことはなかったわ。勘違いだった。『愛してる』じゃなくて『あなたがとても大切』と言われたのだった」

「何よそれ、全然違うじゃない!」

 エリザベスが情け容赦なく非難する。

「だから、ごめんなさい。思い違いをしていたの」

「『あなたがとても大切』……それは微妙な言い回しね」

 アレクシアが首を傾げる。続けてエリザベスが言った。

「その後に、『妹のような存在だ』って続きそうだわ」

 シェイラは否定しようと、首を横に振った。

「だから、本当にごめんなさい。でもね、愛してるとは言われなかったけど、両想いだったのよ。先生が……お金持ちでないから、仕方なく別れてしまったの」

「どういうこと?」

 エリザベスか怪訝そうに尋ねた。

「先生はわたしに、一生働かなくてすむようなお金持ちと結婚して欲しいと思っているの。でも、先生は貧乏だから、仕方なく、自分から身を引いてしまったの。もう会わないことにしましょう、って」

「先生が身を引いたですって? あなたがとても大切だけど、ぼくは貧乏だから、付き合うことは出来ない。あなたにはお金持ちが相応しい。だから、もう会うのはやめましょうって、先生はそう言ったのね?」

「そう、その通りよ」

 すると、エリザベスはアレクシアと顔を見合わせた。二人は目配せを交わし合ったかと思うと、エリザベスは苦笑いを浮かべ、アレクシアは痛々しげに顔をしかめた。

「シェイラ、それは本当にお気の毒だけど、両想いだったとは思わない方がいいわ」

「ただ単に、振られただけよ」

 二人が続けざまに言った。

「違うのよ。振られたわけじゃないの。先生もそう言ったわ」

 二人はまた顔を見合わせた。エリザベスが意地の悪い笑みを浮かべてこう言った。

「本当に貧乏が原因だと思っていたの? 男ってね、別れ話をするときには、そういう風に何か理由を付けるものなのよ」

「そうよシェイラ、何か自分自身以外の、仕方がないような理由を付けるの。本当は『飽きた』とか『冷めた』とか、『興味がなくなった』とかなんだけど、そうは言わないのよね」

 アレクシアが後に続いた。

「男って卑怯よ。自分のせいじゃない、って顔をしようとする。今から別れようという女に対してさえ、悪者になりたくないの」

「あらエリザ、そうかしら? あれはね、優しさなのよ。だって、もし正直に『幻滅した』とか言ったら可哀相じゃない? 別れようとする時でさえ、女性を傷つけないように気遣ってくれているのよ」

「それで本当の理由は言わずに、君と僕とじゃ家柄が合わないから、とか言い出すの?」

「うふふふふ、あなたが言われたの?」

「違う! 子分に聞いた話よ。あとは……進学して引っ越すから、とか」

「それもよく聞くわね」

「お母さんが僕たちの交際に反対してるんだ、とか」

「それ最低!」

 ひとしきり二人で笑い合った後に、アレクシアは言った。

「だからね、シェイラ、あなたの先生も優しい人なんだと思う。あなたのことを傷つけたくなくて、貧乏だから身を引いたということにしてくれたのよ」

「……違うと思う。わたしたちは、そういうのではないの」

 シェイラは世界をひっくり返されたような気分だった。

「どうしてそう思うのよ? なんで自分だけ違うと思うの?」

 エリザベスが喧嘩腰に訊いてくる。彼女はシェイラが認めるまで許さないのだろう。

「だって先生はとても優しかったし、いつも私のことを考えてくれていた……と思う」

「私たちぐらいの年頃の女の子にはね、大抵の男が優しくするものなのよ!」

「そうなのかな……」

 シェイラはそれ以上言わなかった。あまり具体的なことは話したくない。ナイトリー先生との大切な思い出を、エリザベスに踏みにじられたくはないのだ。

「まあいいじゃない、エリザ。シェイラはまだ十四歳よ。夢見る乙女なんだから」

「そうね、この子はそういうタイプね。その先生っていうのも、夢を見たんじゃない? あなたの妄想で、本当はいないのよ」

「さすがにそれはないと思うけど……」

 シェイラは曖昧に答えて、それ以上は言わなかった。

 エリザベスはその後も「振られた」のだとはっきり認めさせようとしたり、先生の名前や、具体的にどんなことがあったのかを言わせようとした。シェイラははっきりと否定もしないが、認めないし、話さなかった。アレクシアはシェイラを子供扱いし、夢見る乙女だから振られたことが分からないのだということにしてしまった。

 アレクシアが帰り、エリザベスの就寝前のお世話をして、シェイラも自分のベッドに潜り込んだ。

 やっと、落ち着いて考えられる。

 始めは、エリザベスが意地悪をしてそんなことを言うのだと思った。アレクシアは実際にナイトリー先生を見ていないから、自分の経験だけで決めつけているのだろうと思った。

 だから、彼女たちの前で泣き出さずにすんでいた。

 けれど、冷静に一晩よく考えて、朝になり目が覚めた時に、シェイラはエリザベスたちの言う通りなのかもしれないと思うようになっていた。

 アレクシアが言うには、美少女には百人中百人の男が優しくするものらしい。

 つまり、ナイトリー先生のあの優しさは、十代の少女に対する当然の礼儀であり、雇い主が保護する教え子に対しての常識的対応だったのだ。シェイラはそれを愛だと思い込み、のぼせ上がっていた。そのように考えると、彼と過ごした五か月ほどの月日に起きていたことが何だったのかを、正確に理解できる気がしたのだ。

 母を亡くし、一人ぼっちになってしまった寂しさが、そう思い込ませたのだろうか。

 もしそうだったら……! シェイラは想像すると恐ろしかった。彼を失ったら、この世にはもう孤独しか残されていない。家族も、精神的に繋がる人もいないなんて……。

 不安と寂しさに押し潰されて、涙が込み上げた。同じ部屋でエリザベスがまだ寝ている。悟られないよう寝具をかぶり、シェイラは声を殺して泣いた。一人で寄宿学校に入って以来、こらえていた涙のような気がした。


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