第3話 二ノ宮茉莉花
茉莉花は僕を一瞥した途端、綺麗な顔をきゅっと歪めて「臭い」と一蹴した。
汗臭いだろうかと自分の臭いを確認していると、茉莉花はなにも言わず僕に塩を振りかけ、肩やら背中やらを――これが結構痛いのだが――掌ではたき出した。
これは簡易の祓いだ。
彼女は二ノ宮家の一女、歴代最高位と謳われるほどの霊能を持って生まれ落ちた僕の遠い親戚。僕とは大違いの優等生で、彼女の存在により、次代は血筋の歴史として初の事態――傍系である二ノ宮が三家を束ねることになるだろうと言われている。
「はやく開けて、足が疲れたの」
「……うん」
僕は三つ下のこの少女に頭が上がらない。
玄関の鍵を開けると、茉莉花は猫のようにするりと部屋に入っていった。勝手知ったる我が家の如く座布団を出し、姿勢よく座る。その姿はまるでよくできた人形のようだ。日本人形と言うよりは、和顔のビスクドール。
「温かいものを」
「うん」
「カフェインは欲しくないわ」
僕は苦笑いして、やかんにお湯を沸かしながら、彼女専用に買い置きしてあるハーブティーを用意する。
「こんな遅くに、女の子の一人歩きは危ない」
「いちにぃみたいな人間が、まともな結界もない家に住むなんて危ないわ」
「……ごめん」
「謝るくらいなら独り暮らしなんてやめて本家に帰って頂戴」背中越しにも、大人びた彼女が唇を尖らせている様相が浮かぶ。「変な臭いばっかりつけて帰ってくるんだから」
僕はもう一度「ごめん」と呟いた。茉莉花は仕方なさそうにため息をつく。
この春から何度も繰り返されているやり取り。
ハーブティーを淹れた透明なティーカップ――これも茉莉花専用だ――を彼女の前に差し出す。正面に座るのは緊張するので、僕は彼女の斜め位置に腰を下ろす。少女の黒曜石のような瞳は強く真っ直ぐで、僕のように色んなものから逃げた人間は、なんとなく後ろめたいものを感じてしまう。
「今日は――」
「用がないと来ちゃいけない?」
言葉の先を見透かされ、少しばつが悪かった。「ううん、来てくれてありがとう」
先ほどの黄色い壁のアパートとバンさんの姿が頭に浮かぶ。消毒液の匂い。カーテンの向こう側に有ったモノ。背筋を走った悪寒。茉莉花がいなければ、僕の意識はずっとあのアパートのことを考え続けていただろう。
幽霊を意識の底で見続ける行為は、彼らを呼び寄せるのと同義。
僕は彼女にまた救われた。
少女は再び眉間に皺を寄せる。その表情の意図はわからない。ただ、彼女の顔に失望が浮かんでいないか不安で直視できなかった。
祖父に一族から勘当され、僕は本家の家を出ることとなった。
一人暮らしをする上で最大の問題は、住処の安全の確保。
霊能を持つ人間は、行き場のない幽霊の無念を呼び寄せる。
それでなくても僕ら三家の血は、どこまでも恨まれ呪われている。
だから三家の家はどこも古来からの強固な結界で守られている。一族に憑いた怨念や呪いによって寝首をかかれないように。結界は代々の当主や門下の人間によって繰り返し重ねられ、強化される。
結界の張り方は幼少時からの修行で学ぶ。しかし、残念ながら、僕の張る結界は上等とは言えなかった。結界だけではない。祓いも、呪いも、僕には才覚がない。ましてや茉莉花のような占の力は皆無に等しかった。ただ、幽霊の存在を感知できるだけ。
このアパートに引っ越すと決まった時、父親は多忙なスケジュールの合間に、このアパート全体に結界を張ってくれた。けれど一ノ瀬の当主である父親は時間の大半を百に近い顧客を順に訪れて過ごす。加えて門下の教育に自身の修行とで、一族から勘当された息子にしょっちゅう会いに来れる状態ではない。
茉莉花はそれを見かねて、こうして偶に僕を訪ねてきてくれる。
二ノ宮家の中には、この行いに賛同しない者も多い。ただ彼女の圧倒的な実力の前に口を噤んでいるだけだ。本来、三家の間に良好な関係などありえない。
僕は、年下である彼女の善意に救われている。
「死なれたら私の目覚めが悪いでしょ」
心の中を見透かしたかのように、茉莉花は言った。
「私が好きでやっているの。他人につべこべ言われる筋合いはない」この少女はいつだって毅然として美しい。「当然、いちにぃにも拒否はさせない」
「助かっているよ」
「そうでしょ」
ふふ、と頬を綻ばすと、少し年相応に見える。
「帰りは家まで送って行って頂戴ね」
「うん」
「あと、早く此処に私の布団も用意して」
「……それは駄目」
彼女は、僕が弁当を食べ終わるのを眺めた後、「帰る」と言って玄関を出た。僕がもたもたしていると、「早くして」と催促する。
街灯の少ない深夜の道を二人黙って歩き、彼女の一族の人間に見つからない場所まで付き添って、別れた。
別れ際、「もう変な臭いをつけて来ないでね」と手製の守り袋を渡された。
仄かに香るジャスミン。
帰り道に黄色い壁のアパートの横を通った。今度は消毒液の匂いもせず、悪寒もしなかった。
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