◇3.約束

「オレの跡を追っていた? なんのために?」


 心底不思議そうに九十九は首を傾げた。


「……なんとなく、気になった、から」


 明確な理由なんてあるわけがなく、咲綺はありのままの出来事を語る。

 放課後に、興味本位から九十九のあと追って、咲綺は鏡の裏側に迷い込んだ。いま彼女は、自分が裏側の世界にいることを知らない。いや、薄々周囲の変化を感じ取ってはいるものの、まだいまいち実感ができていなかった。


「キミは、まだ自分が裏側の世界・・・・・にいることに、気がついていないみたいだね」

「裏側の世界?」


 周囲を見渡してみるものの、ここはどこからどう見ても自分の住んでいる町だ。違いといえば、やけに暗いことと、さっきがしゃどくろに襲われたこと。――これも、十分な違いだけれど。


「あの公園にあるトイレの鏡はね、裏側の世界――つまり、妖怪が跋扈ばっこするこの世界に繋がっているんだ。キミは、知らずのうちに、この世界に迷い込んでしまったようだね」

「それって、もしかして非日常ってこと?」


 咲綺は、思わず顔を明るくさせた。

 それに驚いたのは、九十九だった。軽く目を見開き、彼はジッと咲綺の眼を見つめる。


「キミは……」

「ああ、やっと夢が叶ったのね!」


 ここ数日、咲綺はずっと日常に不満を持っていた。こんな世界はつまらないと、平穏は飽き飽きだと、そう考えていた。

 それが、今日を境に変わった。転校生の九十九曰く、いまいるここ――普段の街のようで明確に違うこの世界は裏側の世界――つまり、咲綺たちの住む日常の裏側に、妖怪たちが跋扈する非日常な世界が広がっていたのだ。

 非日常を求めていた咲綺は、知らぬ間に訪れていたこの世界に歓喜した。

 素直に、うれしいと思った。


 九十九は眉を潜める。笑みは浮かべていなかった。咲綺の真意を探るように細めていた目を閉じて、軽くため息を吐く。


 咲綺はそんな九十九の様子に気づかずに、さまざまな妄想を巡らせる。

 この裏側には、いったい何があるのだろうか。

 きっと、咲綺には思いもよらぬものが待ち受けているに違いない。さっき襲ってきたがしゃどくろは恐ろしかったけど、それよりも強い九十九がいるのだ。どんな妖怪が現れても、九十九なら倒してくれるだろう。彼とは今日あったばかりだけど、彼の強さはこの目で確かめたばかりだ。

 楽しそうにこれからのことを考えている咲綺に、九十九はしっかりと忠告する。


「キミは、もう帰った方がいい」

「え? どうして?」

「ここは、危険だからだ。この世界は、キミみたいな人間・・がいるところじゃない」

「なんでよ?」


 やっと訪れた非日常なのだ。この世界を、少しぐらい冒険したい。一日だけでも、今夜だけでもいいから。

 咲綺はそう考えていたのだけど、九十九は首を振って否定してくる。


「キミは、さっき襲われたばかりだろ。先程のがしゃどくろなんて、底辺中の底辺だ。他の妖怪は、もっと強く、そして慈悲のない残酷な生き物だぞ」

「でも、九十九くんは強いじゃない? さっきなんてがしゃどくろを圧倒していたでしょ。九十九くんが助けてくれたら、問題ないよ!」

「オレは無敵というわけじゃない。スタミナや、狐火にも限りがある。キミをずっと守ってあげることはできない」

「でもっ!」


 いくら突き放すような態度をとられても、咲綺はめげることはなかった。

 まだこの世界を見て回りたい。その思いが、強かったからだ。



 同時に、九十九も彼女に何を言っても無意味だと悟っていた。だからため息を吐くと、ゆっくりと言葉を吐き出す。彼女を諦めさせる手段は、いまこの時にはない。――ないのなら、その状況を作ればいい。


「わかったよ。けれど今日はもう帰った方がいい。裏側の世界はいつも暗いからわからないと思うけど、もう二十時を過ぎている。ご両親も心配しているだろ?」

「……そうかもだけど。またこの世界にこられるとは限らないじゃん。一日ぐらい帰らなくたって、お母さんも怒らないと思うし。……たぶん」


 部活動をやっていない咲綺は、遅くまで学校に居残ったりしたことがない。普段は、十七時には家にいる。だから、確証はないのだけれど。


「こられるとは限らない、ね。確かにそうだ。この世界に出入りできるタイミングは決まっている。今回キミがこの世界にやってこられたのは、直前にオレが二つの世界の道を繋いでいたからだしね」


 だけど、と化野九十九は狐のように目を細めて笑うと、彼女に誘いの言葉をかける。


「キミがまたこの世界にやってきたいと思うのなら、今度はオレが連れてきてやるよ。オレが一緒にいたら、万が一のときにでも安心できるだろ?」


 先程まで、咲綺に裏側の世界から出るように忠告していた少年の言葉とは思えない。

 けれど。案外単純な思考回路をしている咲綺は、この裏の世界に対する好奇心に抗うことができずに、九十九からもたらされた甘美な誘いに乗ることにした。


「絶対だよ!」

「ああ、もちろんさ」


 九十九は頼もしげに頷いた。

 それから咲綺に向かって右手を差し出す。なんとなく左手で握った咲綺の手を九十九は引くと、公園に向かって歩きだす。


「今日は、もう帰ろう」

「うん、そうだね」


 しばらく手をつないだまま、ふたりは公園に戻る道を歩いて行く。


「ここまでくれば、もう公園の場所はわかるよね?」

「うん」


 咲綺は素直に頷く。


「ここを真っ直ぐ公園に向かうんだ。そして公園についたら、振り向くことなくトイレの鏡の前に立て。鏡に触れると輝きだすはずだから、それに抗わずに身を委ねるんだ。そうすれば、キミは元の世界に戻ることができる」

「うん、わかったけど……」


 不安げに、咲綺は九十九を見上げる。


「九十九くんは、戻らないの?」

「オレはまだ用が済んでいないからね。一仕事成し遂げないと、報酬がもらえないという鬼畜な仕事をしているんだ」

「鬼畜な仕事って、九十九くんは中学生でしょ。あ、でもあの強さなら、普段から妖怪と戦っていたりするの?」

「うん。そうだけど……」


 九十九は苦笑いを浮かべると、空いている方の手を咲綺の頭の上に置いた。


「その話はまた今度。次にこの裏の世界にきてからにしよう」

「もう、またそれー。いいけどさー」


 咲綺は文句を言いながらも、まんざらでもない様子だった。


「じゃあ、また・・

「うん、また明日、学校でね!」


 名残惜しそうに繋いでいた手を解くと、九十九と手を振り合って、咲綺は公園に向かう。

 公園の中に入る前に、ふと振り返ると、そこにはもう九十九はいなかった。

 咲綺は再び前を向くと、公園の中に足を踏み入れる。このまま振り向くことなく、トイレに向かうつもりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る