第9話落日
「申し上げます!搦手口より敵が侵入!小宮曲輪に迫っています!その数凡そ6000!」
「何だと!別動隊か!」
吉信は思わず床几から立ち上がった。
「申し上げます!中の曲輪に敵が再び侵入しました!」
「・・・諸将を集めよ!」
「はっ!」
「申し上げます!将監殿!至急本陣に御越し下さい!」
氏宗の陣所にも伝令が駆け込んできた。
「承知!数馬!指揮を頼む!」
「御意!」
本陣は緊迫した空気に包まれていた。
「敵の別動隊6000が搦手口から小宮曲輪に寄せている。遅かれ早かれ完全に包囲されるだろう」
吉信が重い口を開いた。
「何だと!あり得ん!」
「投降した者が搦手口の在りかを漏らしたのか・・・クソ!」
吉信達の、敵は搦手口の存在を知らないという判断は正しかった。しかし、この判断を前提にした作戦は、搦手口の存在を知る者が敵に捕縛され口を割ってしまえば簡単に崩壊してしまう。城兵は僅か1000人余、残りの2500人の大部分は戦の経験が無い民百姓でしかなく、本来八王子城に配備されるべき3000丁の鉄砲も1000丁を小田原に運び1000丁を八王子の街に隠したことから残りが1000丁でしかない状況で、敵が搦手口から侵攻するというシナリオを含む作戦を立てることが不可能であるにも関わらず戦が始まってしまった。この時点で、吉信達は搦手口の露見に対応することを無意識の内に放棄していた。落城を恐怖するあまり、あくまでも搦手口の存在を敵は知らないという前提に立ち、搦手口が敵に露見さえしなければ敵を撃退することができる、したがって八王子城が落城することはあり得ない、という全く根拠のない期待にしがみ付いた。戦が始まった時点で、吉信達の判断は搦手口の存在が敵に露見して欲しくないという、単なる期待に変質していたのである。
「敵が小田原城を包囲してから2月半、御味方は小田原城に籠ったまま・・・故に後詰を期待することはできない・・・」
「申し上げます!小宮曲輪が挟撃されています!」
吉信が状況を説明している最中、伝令が駆け込んできた。諸将に動揺が走る。吉信は静かに目を閉じた。
(・・・もう駄目だ・・・)
完全な奇襲であった。氏宗は思わず天を仰ぐ。大軍に包囲されれば、残された700人余だけでは防ぎようがない。後詰も期待できないのであれば、落城は時間の問題である。
(・・・俺はここで死ぬのか?)
その時、亭主の言葉が氏宗の脳裏をよぎった。
《将監様、生きて下され》
(そうだ・・・俺は生きる!春蘭と共に生きる!)
生への渇望が強まるにつれ、氏宗の春蘭への思いが次第に明確に、大きくなっていく。
(陸奥守様、仰せのとおり生き抜いて見せます!)
氏宗は決意した。
「監物殿」
「何かな、将監殿」
「最後の我儘を聞いて下さらんか?」
「何を言い出すかと思いきや・・・」
「春蘭殿をお守りするように某が陸奥守様から下知されていることは御存知のはず。その命を実行したい」
「・・・将監殿、必ずや陸奥守様の御下命、完遂なされよ」
吉信は目を閉じたまま静かに氏宗に語り掛ける。
「それがよい。将監殿、陸奥守様の御下命、必ずや完遂なされ」
家範も氏宗に語り掛けた。
「承知・・・」
「各々方!進退は自ら決められよ!わしは小田原城を目指す!」
吉信は刮目して大声を上げた。
「それなら、わしは敵陣に切り込むとするか」
家範がさっぱりした表情で呟き立ち上がる。
「付き合うぞ、勘解由殿」
その呟きを聞いた一庵が家範に語り掛け立ち上がった。
「わしもだ。敵将の首を出羽守殿と三郎右衛門殿への土産にする」
照基も立ち上がると槍を握りしめた。
「兵共に民百姓と女子供を守り、投降しろと下知してくる・・・主善殿、信濃守殿、暫し後、此処に集まろう」
「よかろう。わしも一旦陣に戻る」
「某、これより春蘭殿を連れこの城から脱出します・・・御武運を・・・」
氏宗は静かに立ち上がり重臣一同に深々と頭を下げ本陣を出て行った。
「数馬!」
「はっ!」
「我が勢はどれだけ残っている!」
戦闘中の陣所に戻った氏宗は残存兵を確認する。
「戦闘可能な将兵は殿を含め29名、民百姓は16名!他は死者3名、深手の者8名!」
「皆の衆!これより松木曲輪に移動する!伊織!其方は配下の者共と深手の者を運べ!他の者共は武器弾薬を運べ!」
「御意!」
「はっ!」
(亭主の亡骸を隠さないと・・・)
氏宗は筵で亭主の亡骸を厳重に覆った。
(亭主・・・こんな扱いをしてすまない・・・本当に申し訳ない・・・)
「源内!」
「はっ!」
「我等はこれから城を脱出する!其方は先に小菅の里に向かえ!小菅の里には亡き父上の友であった三嶋入道殿がおられる。其方は三嶋入道殿と懇意にしていたはずだ!」
「はっ!確かに!先に小菅の里に入り受け入れの準備をします!では、御免!」
源内は急ぎ準備を整えると陣所を去った。
「将監の兄様・・・怖い・・・」
氏宗達が松木曲輪にある宿舎に入ると、その姿を確認するや否やさきが駆け寄り氏宗にしがみ付く。
「さき、もう大丈夫だ、俺が付いている」
「爺様は?」
「・・・」
「爺様は何処?」
「・・・別の曲輪で戦っている。戦が終われば家で会えるさ」
「そう・・・」
さきは氏宗の[嘘]を見透かしたかのような口調で答えた。
(勘の鋭い子だからな・・・いつまで誤魔化せるか・・・)
「春蘭殿、この城が落ちるのは時間の問題です。この城から脱出しましょう」
「私達だけが落ち延びてよいのでしょうか?」
「某、春蘭殿の警護を陸奥守様から任されています。速やかに御支度を!」
「陸奥守様の御下命があるとはいえ、何故貴方様はこのような危険なことまで・・・」
「勝手な思いですが・・・春蘭殿とは古より御一緒であったような気がするのですよ。長い間離れ離れになっていた家族と再会したような、何か暖かい・・・そんなことはどうでもよい!とにかく御支度を!」
「将監殿・・・」
(御台様は・・・駄目だ・・・山王台が敵に占領されている。御主殿まで行くことができない・・・御台様・・・いや、伯母上・・・)
松木曲輪の東端からは山王台を眺めることができる。山王台が敵に占領された以上、御主殿に辿り着くには敵陣を突破しなければならない。今の氏宗にはそれを可能にする兵も時間も残されていなかった。
(止むを得ない・・・伯母上、御免!)
「皆の衆、至急弾薬を身に付けられるだけ付けよ!水と飯を確保しろ!新型鉄砲と鉛球は敵に渡ると厄介なことになる。糞穴に捨ててしまえ!」
氏宗は配下の兵達に指示する。兵達は準備を始めた。
「こんな人殺しの道具、作るんじゃなかった・・・」
宿舎の裏手にある排泄物投棄用の穴に捨てられる新型鉄砲と鉛球を見ながら氏宗は呟く。
「数馬!頼母!」
「はっ!」
「はっ!」
「城を脱出する!目指すは小菅の里だ。俺はさきと春蘭殿、家人達を連れていく。其方達は殿となり各々4人を率いて敵の追撃を阻止しろ!第1陣は数馬。その後方50間以内に第2陣として頼母!第1陣が敵を撃破したら第2陣の後方50間以内に後退する。敵を振り切るまでこれを繰り返せ!くれぐれも包囲されるな!命を粗末にするな。生き抜くんだ!小菅で会おう!」
「はっ!」
「御意!」
「靱負、隼人助、左門!」
「はっ!」
「其方等は我が隊の負傷者と民百姓を少しでも安全な場所に移動させろ!敵が襲ってきたら負傷者と民百姓を守れ!ただし、敵が投降を勧告した場合にはそれに従え!」
「御意!」
「死ぬなよ」
「・・・殿!必ず生き抜いて御覧に見せます!」
氏宗は暫くの間、各々の準備の様子を確認していた。やがて氏宗は鉄砲を掴む。
「伊織!準備はできたか!」
「整いました!」
「よし!脱出する!」
氏宗はさきと春蘭、家人達を連れ、伊織以下4人の護衛の下、松木曲輪を後にした。その後に頼母隊と数馬隊の計10人が続く。
「ちょうどいい、ここに陣取るか」
数馬は堡塁に陣を定めた。
「2段構で迎撃する。十分引き付けてから撃てよ」
「数馬殿!敵兵です!」
「もう来たのか?間一髪だったということか・・・まだ距離がある・・・まだまだ、もう少し・・・撃て!」
数馬隊の鉄砲5丁が火を噴く。新型鉄砲は破棄したものの、改良された早合の効果で従来型鉄砲でも敵の3倍の火力が実現している。高所からの狙撃効果もあり敵勢はなす術もなく倒れていった。
「よし、後退だ!急げ!」
数馬隊は石塁を駆け登ると頼母隊が陣取る堡塁に至る。
「頼母、後を頼む!」
「おうよ!」
暫くすると新たな敵兵が迫ってきた。
「頼母殿!前方に敵!」
「まだ撃つな・・・まだ・・・まだ・・・よし!撃て!」
敵勢を散々叩いた後、頼母は辺りを確認するが後続の敵兵はいない。
「よし、撤収!」
頼母隊は次の堡塁に陣取る数馬隊の前を走り去る。
「数馬!交代だ!」
「おう!」
同じ頃、前田勢の犠牲を厭わない猛攻の末、死傷者が続出し弾薬も尽きた阿弥陀曲輪の守備隊は御主殿に後退。阿弥陀曲輪は遂に陥落した。また、孤立無援状態にも関わらず頑強に抵抗していた大手門守備隊も死傷者が続出し弾薬も尽きたため御主殿に撤退。大手門は遂に破られた。しかし、御主殿に掛る曳橋が城方の手により落とされたために前田勢は大手道から御主殿に侵入することができなくなり、その結果、御主殿は東側から前田勢の猛攻を受けることになった。
「・・・申し上げます・・・敵が・・・御主殿に侵入しました!」
伝令が書院に走り込んできた。伝令は敵の侵入を告げるとその場に倒れ込む。深手を負っているらしく、甲冑の隙間から血が流れ出ている。侍女達が介抱しようと駆け寄るが、伝令はその手を払い、立ち上がるとよろめきながら書院から出て行った。
「御城代からの連絡も絶えて久しい・・・もはやこれまでの様ですね。私はここに残ります。皆の衆は敵に投降しなさい」
比佐が静かに侍女達に語り掛けた。
「御台様!」
「お供します!」
「なりません。今すぐここから立ち退きなさい!」
侍女達は泣く泣く書院を後にする。
「陸奥守様、良き日々でした・・・思い残すことがあるとすれば、将監殿と春蘭殿のことでしょうか・・・あの2人の夫婦姿、一目見たかった・・・」
鉄砲の轟音と刃の交わる金属音、兵達の喚声の中、燭台を倒し床に火を付けると比佐は静かに自刃した。
この後、一庵、家範、照基は敵陣に切り込み多数の敵将兵を倒すも討死、吉信は八王子城脱出の際に深手を負い小田原城に辿り着くことなく小河内の里で力尽き自刃した。
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