第5章 鈴打ち鳴りて、開眼の錠-1-

「姫」

 黙して語らぬ彼女の前に、男は懐より包みを差し出す。

 白きその布を広げれば、そこには石があった。

 光によっては緑にも見える、碧あおの石。ようやく彼女はその双眸を男へと向けた。

「お探しの物でございます」

「……」

「すぐに知らせを立てましょう」

 姫と呼ばれた女性の瞳から、涙が零れ落ちた。光るその雫は。男にとっては宝石に見えた。

 それは胸を揺さぶる至宝の欠片。

 されどこの世には、落ちてはならぬ悲しみの光。

 ……震えた胸に、腕が戦慄わななく。

 されど、この手は伸ばせない。抱きしめたくとも、彼にできるのは微笑むのみ。

「さぁ、姫」



 名を呼ばれる。笑顔が映る。

 側に仕える、果てしなくそれが。

 ――胸を転がす鈴となる。


  5


「ふぅー、何とか着いた着いた」

 町の入り口が見えるなり、カーキッドは荷物を降ろしグルグルと肩を回した。

 洞窟を出て一路さらに西へ。日のあるうちにどうにか2人はその町にたどり着く事ができた。

 ラーク公が治めし領地・レイザラン。

 夕焼けに染まる町並みは高い建物も多く人も多い。

「さぁ飯だ」

 意気揚々町へ乗り込んでいくカーキッドに対し。

「あの、カーキッド」

 オヴェリアは少し言いにくそうに小声で囁いた。

「何だ?」

 立ち止まる2人の横を荷馬車が通り過ぎていく。人の話し声と笑い声に、オヴェリアはさらにもじもじと身を縮込ませた。

「あんだよ」

「……」

「は? 聞こえねぇ」

「………………」

 お風呂。

「は?」

「…………」

 大業に顔を歪める彼に、一層、オヴェリアは赤くなった。

 ――洞窟での争いで、オヴェリアも血を浴びた。多少は川で洗い流したものの、衣服も汚れている。まして川では髪は洗えない。

「私……、」

 対し、カーキッドは平然と頭から水に浸かっていた。そしてもうすっかり乾いている。気楽なものである。

 汚れた姿で人の中に入る事、まして自分は血まみれじゃないかという事。

 そしてもう1つは、血の匂い。

「面倒くせぇ奴だなぁ」

「……」

 本当はこんな姿で町にすら入りたくない。人の目にも触れたくない。

「顔は隠せよ」

 言われなくても、今日のオヴェリアはいつも以上に顔を隠しきっている。逆に隠しすぎて、足取りも怪しい。

 それを見て嘆息を吐き、カーキッドは荷を背負った。

「すまんが、宿を探してる」

 道行く商人を捕まえて開口一番そう尋ねた。その様子にオヴェリアはまたもじもじとマントを引き上げた。


  ◇


「高ぇ宿だ」

 部屋に入るなり、カーキッドはため息を吐きオヴェリアは荷物を降ろした。

 ちなみに部屋はまたしても1つ。2人同じ部屋である。これにまたオヴェリアは顔を赤くして反論しかけたが、

「二部屋もとる金は、ねぇ」

「……」

 カーキッドは財布の中身を理由に、一部屋を断行した。

 だが本当の理由はそれとは別にもう1つ、あの刺客の事があったからである。

 彼らが何の目的で自分達を襲ってくるのかはわからない。だが。

(確実な狙い打ちだ)

 森での一件は人違いの可能性もあった。だが今度は違う。あのような場所で、待ち伏せたかのように彼らは襲ってきた。しかもカーキッドは彼女の名を呼んだ。オヴェリアと。その名を聞いても動きを変えなかったという事は。

(オヴェリア狙いか?)

 はたまた、俺狙いか。

 ……どの道、そうであるならば油断ができない。そういう事なのである。

 カーキッドは内心深く考え込んでいたが、そんな様子は一切顔には出さず。眠そうに欠伸をして見せた。

「ん? どうしたお姫様」

「……」

 そしてそんな傍らでオヴェリアは。

 荷物を降ろした状態で、時間が止まったかのように立ちすくんでいた。

 カーキッドは首を傾げた。「どうした?」

「風呂に入りたかったんだろう? せっかく風呂付の部屋を取ってやったんだ。さっさと入れ」

「……カーキッド」

「あん?」

「……」

「何だよ」

「…………覗かないでくださいね」

 その言葉に。一瞬カーキッドは固まったが、間髪「ぶっ」と失笑した。

「馬鹿かお前は。誰が覗くか」

「……」

「さっさと入れ。阿呆」

「……」

 オヴェリアは少し口を尖らせ、すぐさま浴室へと消えて行った。

「覗くか、阿呆」

 言いながら。どこかわざとらしく浴室からは目をそらし、カーキッドは懐から煙草を取り出す。



 部屋に風呂場があるような宿は、稀である。

 小さい村や町ではよくて大浴場を抱えるくらい。でなくば町村経営の風呂場に向かう事となる。

 それは一般家庭も同じ。最近では家ごとに浴室を取り入れる事も多くはなってきたが、貧しい所では風呂場のない家もまだ多い。浴場へ向かうかたらいで簡単に済ませるか。普及したとは言え、風呂場はまだ贅沢品の一つとしてなぞらえられていた。

 旅を始めて彼女は、初めてその事を知った。お城には当然風呂もあり、王族専用のそれは大浴場並みかそれ以上の広さと絢爛で完備されていた。

 むろんそれは1人で入るには広すぎる。体を洗ってくれる専門の者、拭いてくれる者、衣服を着せてくれる者……身の回りのすべて何から何まで、城にいた頃は仕える侍女たちが行ってくれていた。

 それが普通ではあったが、普通ではないという事も承知していた。

 それは、ひっそりと出かけたグレンの屋敷での事。

 剣の修行をすれば汗もかく。泥にもまみれる。浴室を貸してもらった時最初はその小ささにオヴェリアは驚いた。武大臣たるグレンの屋敷だ。一般家庭に比べれば比にはならない、それでもだ。

 ましてここでは体を磨いてくれる者もいない。

 グレンには妻がいなかった。屋敷仕えの者が数人いたが、男と老婆。老婆はオヴェリアの世話をかって出たが、結局、ただ1度切りで彼女はそれを断った。

 知ったからである。これは自分でやる事なのだと。城で置かれている自分の環境こそが特異で奇異で。

(私は、)

 何も知らないカゴの中の鳥であるという事を。

 もっと色々な事を知りたい、外の事が知りたい、世界が知りたい。その頃から彼女は薄々とそう思っていた。

(けれども)

 ザッと湯を浴びながら彼女は少し笑った。でもまさかこんなふうに旅をする事になるなんて。

 そしてこの手で――人を殺める日が来るなんて。

「……」

 まとめた髪を解くと、金糸はするすると背中へ流れる。

 だが同時にその瞬間、一瞬だけ香った血の匂い。すぐに湯が洗い流してくれたけれども。

 血。

 鼻には臭いがこびりついている。

 オヴェリアは目を閉じた。

 眉間には自然、深い深いしわが寄った。

 ――その手に残る感触。

 剣の重み、そして切り裂く感触。

 肉を突き。

 命を。

 ――だがそれは、わかりきっていた事。剣技を磨いてきた、その理由は何? 剣術大会で優勝する、そんな事じゃない。

 剣の腕、その最終形態は、いかに秀でて、人を殺せるようになるか。

『剣は殺生の道具』

「グレン……」

『されど、それのみにあらず。人を、物を壊す域でとどめるは、本当の剣技にあらず』

 オヴェリアは額に手を当てた。

 わかっていた、人を壊すとは殺す事。

『力は人を虐げるために持つ物ではない。自分ではない誰かを生かすために振るう物。誰かを守るそのために力を振るう、その術を学びなさい、オヴェリア姫』

 オヴェリアは頭から湯をかぶり小さく呻いた。わかっていた。わかっていた事なれど。

 少し重い。

 初めて人を斬ったその時から。彼女が内に抱えていた問題。

 辛い、苦しい。

 自分が行った事に対する……懺悔、悔恨、憎悪、重圧。

 されど。

「……」

 斬らねば、ならなかった。

 ――ずっとその葛藤、胸に渦巻いていた。

 でもそれを、カーキッドだけには。彼だけには知られたくなかった。これは自分の問題だから。自分の心の問題だから。

 自分の心は、自分で何とかするしかないのだから。

「母上……」

 母さまは……越えられましたか? 虚空に向かって問いかける。

「母さまは、初めて人を斬った時」

 その重みに耐えられましたか?



「……遅ぇ」

 覗くなと言われた。でもいい加減遅すぎる。

「腹が減っただろうが、あの馬鹿」

 暇を潰して剣を磨いていたが、彼の剣は一点の曇りも残さず光り輝いている。ついでにオヴェリアのルビーの剣まで磨いたほどだった。

 白薔薇の剣には手を出してはいない。持てないからだ。彼女には自分自身で剣を磨くように言い聞かせている。

「それにしたって、遅ぇ」

 苛々と、カーキッドはいよいよ痺れを切らして浴室の前まで行った。

「おい、オヴェリア!」

 返事は返ってこない。

「オヴェリアッ! カイン・ウォルツ!」

 ここでその名を言った所で何が起こるというのか。だがカーキッドはその両方の名を呼び続けた。

 だがやはり返事はない。浴室は静まり返っている。

(まさか、)

 不意に嫌な予感が脳裏をかすめ、それを思った瞬間にカーキッドは浴室の戸を開け放った。

 途端、湯気が大量に彼に襲い掛かる。最後のベール、その中にいる至宝を守るかのように。

 そして、オヴェリアはいた。

 浴槽に浸かり、目を閉じ、

「……おい、オヴェ」

「……」

「……寝てやがる」

 いいや、カーキッド。それほど近くで名を呼べば、いきなり寒気が身を襲えば。

 風呂場の眠りなど浅い物。さすがの彼女とて。

「……ん」

 目を覚ます。

 茶褐色の瞳と青い瞳が重なるが。

「あ、」

「お、」

 我に返れば当然ながら、浴室に彼女の絶叫が木霊する。



「信じられない」

 はちきれそうなほどのソーセージにフォークを吐きたて、オヴェリアはソーセージに負けないくらい頬を膨らませた。

「あれほど覗くなと言ったのに」

「馬鹿野郎、人聞きが悪いぞ」

 そう言って口を尖らせるカーキッドの頬には、赤く平手の跡がある。

「呼んでもてめぇが返事をしないからだ」

「……」

「覗かれたくなかったら、風呂場で寝るんじゃねぇ」

 顔をしかめ明後日見つつ、麦酒をグイと飲んだ瞬間。

「あなた、風呂場を覗いたんですか?」

 耳元で囁ささやかれ、思わず口に含んだそれを思い切り噴き出した。

 狼狽。ここまで彼が顔を赤らめる事は滅多にない。慌てて振り返ったその先にいたのは。

「やあ、お元気そうで何よりですな」

「てめぇは、」

 デュラン・フランシス。

 彼がニッコリ笑ってそこに立っていたのである。

「またつけてきやがったか」

「それを言うなら、そちらでございましょ? 私はあなた方より先に行ったのだから」

「何でここにいる」

 苛々とカーキッドが尋ねると、彼は微笑み「お仕事で」と言った。

 そのまま空いていた椅子に腰掛けるとオヴェリアに向きなおり、

「またお会いできて光栄です」

「……こちらこそ」

 邪気のない笑顔を向けられ、オヴェリアはいささか頬を赤らめ呟いた。

「結い上げたお姿も美しいですが、……まさに至宝の花のごとし。美しい。あまりの美しさに、わたくし、正視できません」

「……ありがとう」

「顔隠せ、オヴェリア」

 食事中に無茶を言う。

 苦笑を浮かべたデュランに向かいカーキッドはあからさまな剣気を向けた。殺気と言いかえていい。

「何者だてめぇ」

「……だから、見ての通り旅の神父ですよ」

 カキッドの牙のこもった瞳をさっと受け流し、神父はテーブルにあった料理を口に運んだ。豚肉でチーズとポテトを包んで焼いた物だ。かかっている甘めのソースだが、少量だが唐辛子がピリっと舌で弾ける。そこに風味が広がる。

「ん、うまい」

「勝手に食ってんじぇねぇ」

「面倒くさいなぁ、この人」

 苦笑して見せ、オヴェリアにはウィンクをする。「ねぇ?」

 どう返していいものかわからず、オヴェリアは戸惑うばかりである。とりあえず微笑んではおく。それがまたカーキッドの燗に障った。

「出ろ、ぶった斬ってやる」

「あなたは理由もなしに人を殺めるのか」

「理由なら色々ある」

「当方にはあなたと戦う理由がない。斬られる覚えもない。……おっと失礼。約束の時間だ」

 デュランはオヴェリアにニコリと笑って見せた。

「私は3軒先の宿におります。また会える事を願い」

 そう言って手の甲を取り口付けた。オヴェリアは「それではまた」と笑って見せた。

「待て」

 店の外へ出て行くデュランを、カーキッドは追いかけた。

「カーキッド、」

 オヴェリアが少し不安そうに彼の名を呼んだが。

「すぐ戻る」

「だめよ!?」

「わーってるよ!」

 殺すな殺すなと鬱陶しい。カーキッドの苛立ちはピークに達し、もはや舌打ちで流すには限界だった。

「待てつってんだろう、デュラン・フランシス!」

 店の外に出るなり、カーキッドは声を荒げ叫んだ。

「破戒僧デュラン」

 その時通りにはたまたま人がいなかった。デュランは仕方なくといった様子で振り返り、肩をすくめて見せた。

「こんな所でやめてくれないか? 鬼神カーキッド・J・ソウル」

 鬼神。その言葉にカーキッドは唇の端を持ち上げた。

「知ってやがったか」

「お前こそ」

「弓を持った神父なんぞ、他に知らねぇ」

「どうだろう? 旅には危険がつきものだからな」

 神父だから不殺生など、時代遅れも甚だしいよと、何食わぬ顔で言う彼に、カーキッドは少し落ち着きを取り戻し向かい合う。

「てめぇ何でここにいる」

「言っただろう、仕事だって」

「教会か」

「私も使われの身だからね」

「だが、お前が俺達をつけていたのは事実だろう?」

 その問いにデュランは一瞬眼光をきらめかせたがすぐに流した。

「うぬぼれ屋だなぁ……だが確かに、興味がないと言えば嘘になる。しかし私の事をとやかく言う前に、お前こそ、行くべき方向が間違ってるんじゃないのかい?」

「……なんだと」

「君らが目指すはもっと北。違うか? カーキッド・J・ソウル」

「お前」

 腰の剣に意識を伸ばす。それを察したか、デュランは不敵に笑った。

「君らは少し、無防備だ」

「……」

「いかに君らの名が……言い換えるならば、白薔薇の騎士オヴェリア・リザ・ハーランドの名が世に知れ渡りつつあるか。それをもう少し考えた方がいい」

「――」

 そう言って笑い、「おっと時間時間」と慌てた様子でデュランは駆け出した。

 その背中を今度は追いかけぬ。黙ってじっと見つめ続けた。

「……わーってらぁ」

 忌々しげに呟くと、カーキッドは空を見上げてため息を吐き、やがてぐっと目を閉じた。

 胸に入る空気に夜風が染み込んでいる。

 煙草は吸う気にはなれなかった。

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