第3章 碧の焔石-1-

 明日になればきっと君は、昔のように笑うんだ。

 だから俺も笑うんだ、もう大丈夫だよと。

 ――あの太陽は君のために、未来永劫上がり続けるから。どんな不安や悲しみ、深い深い闇が君を押し潰そうとしても、必ず光はあるからと。ずっと照らし続けてくれかるらと。

 光がないというのなら、俺が君の太陽になる。

 君のため、君だけのための。

 光となるから。




 だから笑ってくれ。

 もう一度、俺の前で。

 どうか、笑ってくれ。



  3


 森を抜け1つ小高い山を越えると、間もなく綺麗な道へと2人は出た。

 第三街道である。

 王都を中心として築かれた6つの街道のうちの1つ。この道は西の港町からくるもので、東へ進めばハーランドの城下へ戻る事もできる。

 そこを2人は東ではなく北へと進んだ。

 2人が目指すのは北の大地、ゴルディア。北の大国バジリスタとの国境に位置する渓谷である。

「それで、そのゴルディアの地まではどれくらいかかるのですか?」

 街道を2人歩く。当初よりは幾分カーキッドが歩調を緩めたので、オヴェリアはついて行きやすくなった。体の負担も変わった。

「どれくらい?」

 その質問に、カーキッドは明らかに怪訝な顔をした。

「お前、最初、1人で旅に出ようとしてたよな?」

「ええ」

「……そもそも聞くが、どういう道で行こうと思ってた?」

 オヴェリアはキョトンと首を傾げた。そしてしばらく考えた後、

「道伝いに行けば着くかと」

「………」

 カーキッドは唖然とした。

 その様子にオヴェリアは慌て、「でも、ゴルディアの地は知っています」

「北の山中、深い渓谷。わが国の領土ではあれど、もはやこの数十年手付かず。人の力が及ばぬ土地だと」

「教科書通りの答えだな」

 フンと鼻を鳴らし、カーキッドはそっぽを向いた。

「ならば、本当はどういう土地だと?」

 それにカーキッドは答えなかった。

 まして、かつてその地を訪れた事があるなどとは、今ここで話して聞かせる事はなかった。

「……とにかく、街道沿いにもう少し行ったら町があるはずだ。少し大きい町だ。今日は野宿せずにすみそうだな」

 日があるうちに着くぞ、と歩調を速めた彼に。オヴェリアは小動物のように、慌てて小走りで着いて行った。




 ――それから1時間ほど歩いた後、2人は町にたどり着いた。

 そこは、ここまで訪れた中では王都ハーランドを除いて一番大きかった。人も多い。そしてそれぞれが着ている物も華やかだった。

 一瞬オヴェリアの脳裏に、先刻の村にいた娘達の事が蘇った。彼女達はもっと汚れた服をまとっていた。ましてこんなふうに飾り立てる事もしていなかった。

 自分に言えた事ではないが、深い悲しみが心を過ぎった。

 それにより足の動きが鈍くなった彼女を「グズグズするな」とカーキッドが叱咤する。オヴェリアは無言で頷き後を追った。

 彼女は今スカーフで半分顔を覆うようにしていた。「町に出たら顔は隠せ」とカーキッドに散々言われたためであったが、お陰で息が苦しかった。

 それでも、編みこんで頭にグルリと巻きつけてある髪を見れば女だと簡単に知れてしまいそうだが。

 通りには色々な店が出ていた。食べ物の店、骨董の店。どれも初めて見る光景だった。

「揚げたてだよ、おいしいよ! ほら、どうだいお嬢さん!!」

 ほら、やっぱり女と知れている。

 けれどもオヴェリアはそれよりも、差し出されたおいしそうな食べ物に目が惹かれ、同時に生き生きと働く人の顔が新鮮で珍しく、面白かった。なのでついつい道行く人の顔を眺めていると、

「オヴェリア! さっさと歩け」

「……」

「……っと、カイン・ウォルツ、急げ」

 カーキッドに話したい事はたくさんあった。聞きたい事もたくさんあった。でも今は、人の中ついていくのでやっとだった。

 ――しばらく歩くと、宿に到着した。

 赤いレンガで造られたきれいな建物だった。入り口脇にはチューリップを模したオーナメントが飾られ、歓迎を現す文字がかわいらしく書かれていた。

 そこをくぐると、コロンコロンと涼しい音が鳴った。気持ちのいい音だった。

「いらっしゃいませ」

 入るとまず正面に赤い階段が見えた。2階も客室らしい、人が行き来しているのが見える。その脇にはソファがいくつか置かれ寛くつろいでいる者もいた。

「部屋は空いてるか」

 階段には、ここにもチューリップが彫り込まれてる。オヴェリアはニコニコとそれを眺めた。かわいい造りだ。

 風がどこからともなく甘い匂いを運んでくれる。花かしら? いいえこれは、パイ生地のような。

 その甘い匂いに一つ、記憶が蘇る。城にいた頃はよく、フェリーナがパンケーキを焼いてくれた。甘く芳しく、よく一緒に食べた。

(フェリーナは、元気にしているかしら)

 旅に出ると決めた時泣いてた彼女の姿が脳裏を過ぎる。胸が締め付けられた。

「あいにく本日は予約でいっぱいでございます」

「そうなのかい? 随分町も賑やかだったな」

「ええ。月に一度の市なんですよ。近隣から多くお客さんがおいでで」

「そうかい」

 宿の女将と会話するカーキッドの元へ行く。女将はチラと彼女を見た上で、宿台帳をペラペラとめくった。

「あの……一部屋だけなら、ご用意できなくもないですが」

 少し言いにくそうにそう言った。

「何だ、空いてんのか」

 カーキッドはケロリと言い、「それでいい」と話を進めた。

 だがそれに、オヴェリアの方が目を丸くした。

「一部屋?」

 それはまさか、この男と2人で、一晩同じ部屋に?

 明らかに固まったオヴェリアの様子に、カーキッドは面白い物を見るように目を輝かせた。この男が剣の事以外でこんな顔をする事は滅多にない。

「どうする? ん?」

「……」

「ちなみに他の宿は? どんな感じだ?」

「この町にはうちの他に3軒ありますが、どこも似たようなものですよ。特に今日は大盛況でございます」

「そうか……だそうだ、オヴェ……いや、カインよ。どうする? 今日も野宿にしとくか?」

「……」

「今夜は少し西風があるから、冷えるかもしれんなぁ。この辺は夜になると野獣が出るとも聞くし。んん? どうするよカイン・ウォルツ???」

 茶化すように返事を促され。

 オヴェリアは、「……わかり、ました」と答えた。棒読みだった。

「よろしいですか?」

「ああ。手配頼む」

「かしこまりました」

 女将が、奥の者に声を掛ける。カーキッドはニヤつきながら煙草を取り出す。

 オヴェリアはピクリとも動かず、そこに立ち尽くしていた。

 ――元々彼女は少し、男というものが苦手だった。

 普段周りにいないというのも理由の1つだった。側にいるのはフェリーナのような侍女ばかり。近しい男と言えば、父であるハーランド王を除けば剣の師である武大臣グレンか、または幼き頃より知る文大臣コーリウスくらい。

 それ以外に若い男と接する機会は普段はほとんどなく。夜会や宴の時くらいだった。

 だがそれも気後れしてしまう。美男だろうが話題の貴族だろうが、声を掛けられダンスに誘われても、いつもオヴェリアはほとんど何も話さなかった。

 笑うしダンスもたしなむ。でも、どうしても〝男〟となると一線を置いてしまう。別の生き物として見てしまうのか。

 だが、剣を持てば別。

 先刻の薔薇前試合の折は居並ぶ者向かう者すべてが男であったが、オヴェリアは、ためらう事なく打ち望む事ができた。

「ほう、存外広い部屋だな」

 ――2階の一室。入るなりカーキッドは荷物を降ろし肩を回した。

 その傍らでオヴェリアは、突っ立ったままである。

 彼女の様子を見てカーキッドはまたしても意地悪に笑い、

「ほれ、荷物降ろせ。手伝ってやるか?」

 と、手を伸ばしかけた。

 それにオヴェリアはあからさまに動揺し、跳ね上がった。

 ひっひっひと、カーキッドは笑いをこらえるので必死だった。

 彼女は真っ赤になって部屋の隅へ逃げ、

「べ、べっ」

「?」

「ベット、1つしか、ない」

「……」

 もう我慢できない。カーキッドは大笑いした。

「てめぇが使え」

「……?」

「俺は床に雑魚寝するから。気にすんな」

「え、」

「野宿よりは雲泥の差だ。よかったな、一部屋でも空いてて」

 ニヤリと笑い、床に胡坐を掻いた。

「何だ、お前、俺に襲われるとでも思ってんのか?」

 オヴェリアは赤い顔をさらに赤くしてカーキッドを睨んだ。

「バーカ。誰がお前みたいなガキを襲うか」

「……」

 ぐ。

 また大笑いするカーキッドに、無礼者……ッ、それはそれで、オヴェリアはムカっとした。


  ◇


「うまい」

 夕時。オヴェリアとカーキッドは、宿の隣にある食堂に来ていた。

「おいしい」

 オヴェリアも思わずそう呟き、微笑んだ。

 宿での一件以来ずっと強張ったような顔しかしていなかった彼女からやっとこぼれた笑顔に、カーキッドも我知らず口の端を吊り上げた。

 オーダーは今日のおすすめ。白身魚のムニエルと赤鶏のワイン煮込み。スープはポタージュにフィムという香草が落としてあった。この香りがたまらない。オヴェリアは味わい、深く堪能した。

 魚も鶏も、口の中で溶けてしまう。絶品である。

「この辺は海からの便もいい。肉と魚、両方が手に入る。気候も今年はわりかしいいから、市があればそりゃ賑わうだろうよ」

 お陰でこの町は栄えてる。町が賑わうのはいい事だ。そう言ってカーキッドは機嫌良さそうに酒を飲んでいた。

「出立は?」

「そうだな、明日は少し市が見たい。それからでもいいだろう」

 珍しい。オヴェリアはポタージュに口を付けながら、少し笑った。

 ――それからもう少し、2人はそこで過ごした。

 カーキッドは3杯目の酒を飲んでいる。大ジョッキだ。

 対してオヴェリアは地元で取れた果物酒。アルコールの低いそれを、チビチビと飲んでいた。

 大衆食堂。席は埋まっている。大声で笑う者、叫ぶ者、泣く者、暴れる者。喧嘩も起こった。でも店が壊れるような乱闘は起こらない。誰かが間に入って、すぐにまた笑い声が起こる。

 温かい空気。食べ物の匂い。喧噪はあるけれども、まどろむような安らかな雰囲気がここにはある。

 いい、と思った。

 こんな所でこんなふうに食事を取った事はなかった。城ではいつも、父と2人。向かい合って食べてはいたが、テーブル自体が大きい。向かいと言ってもかなりの距離があった。また、食事中に会話は行儀が悪いと言われ、常にその時間は静まり返っていた。

 フォークが皿に触る音だけの空間。食事は豪華だったかもしれない。ここで食べた何よりも手間がかかり、費用がかかり、高価で特別な物だったのだろう。

 でもその食事は美味しかったのだろうか? 考えた事がなかった事に気が付く。それは同時に、その言葉を口にした事がなかったという事。

『おいしいわ』

 そう言ったのは唯一、フェリーナが作ったパンケーキだけだったかもしれない。

「おいしい」

 楽しい。嬉しい。

 当たり前の感情。

 悲しい、辛い、苦しい、それすらも。

(今まで私は何をしてきたのだろう?)

 初めて感じた事のように、いちいち心が躍る。

 見るものすべて、感じる事すべてが、虜にしていく。彼女を世界へと。

(父上は)

 今何をしているのだろう? 動かなくなってしまった体。私がいなければ、父は、

(一人で食事を)

 そう思うと、飲んでいた果物酒が急に、ほろ苦く感じられるようになった。

「どうした」

 その様子を見たカーキッドが、思い出したかのように彼女に声を掛けた。

「ホームシックか?」

「違います」

「そうかそうか」

 小馬鹿にしたように笑う。オヴェリアは頬を膨らませた。

「それにしても……こんな時間なのに人は全然減らない」

「まだまだ宵の口さ。お子様は寝る時間だけどな」

「お酒、もう一杯いただきます」

「もうやめとけ。いくら度数が低いと言っても、そりゃ酒だぞ?」

 オヴェリア自身は気づいていなかったが、彼女の顔は真っ赤になっていた。

 仕方なく周りの人を眺めオヴェリアは、「色々な人がいる」。

 その中でオヴェリアがふと「おや?」と目を留めた一団がいた。食堂の隅にいる男たち。テーブルを囲んでいるのは5人。客はどちらかと言うと商人や一般の町人が多そうな中で、その5人は……黒く。

 その背格好は、まるで。

(商人というよりは、剣士……戦人いくさびとのような)

「見るな」

「……?」

「あの隅にいる連中、」

 ゴボリと酒をあおり、カーキッドは反対方向を見て呟いた。「あんまり見るんじぇねぇ」

「ありゃ違う」

 何が違うのかと尋ねようとしたが。それより早くカーキッドが立ち上がった。

「ごっつぉーさん」

 慌ててオヴェリアも立ち上がる。

「ありがとうございました」

 笑顔でそう言う店の女将と主人に向かって、オヴェリアは心から「おいしかったです」と言った。

 笑顔は笑顔で返される。

 それにまた、オヴェリアは幸せな気分になり店を出た。




「だからあんまり飲むなと言っただろう」

 隣の食堂から宿に戻った時には、オヴェリアは歩くのがやっとの様子になっていた。

「だって、」

 立ち上がり歩き出したら急に酔いが回ってきて。1人で歩けない彼女を、仕方なくカーキッドが肩を貸す羽目になっている。

「ガキが、自分の酒量がわからんなら飲むな」

「だって、おいしかったもの」

 ジュースみたいだったし、とボソボソ呟き、オヴェリアはガクンと膝を折った。

「馬鹿野郎、こんな所でへたばるな」

「……動けない」

「阿呆かてめぇは」

「……目が回る」

 カーキッドは額に手を当てた。

 宿の者が心配して駆け寄ってくれたが、それを制しカーキッドは仕方なく姫を抱き上げた。

「二度としないからな」

 そのきれいな顔を睨みつけてやったが。

「……寝てやがる」

 信じられねぇ。カーキッドはため息を吐いた。

 2階の部屋までの階段へ向かう。宿の者たちの視線が痛すぎる。ため息をこぼしながら上りかけていると。

「おやおや、大丈夫ですか?」

 声を掛けられた。階段の脇に置いてあったソファにかけていた男だった。

 カーキッドは、おや? と思った。

「ああ、大丈夫」

「かわいい寝顔だ。手伝いますか?」

「結構」

 見た所、神父か? 聖職者の服装をした男だった。

 この国の民を表す、金の髪。少し茶がかっているが、これくらいの色合いならば充分見かける。

 その男は少し垂れ目の瞳を細め、「お気をつけて」と微笑んだ。

 カーキッドは微かに頭を下げ、階段を上った。

 まぁこのご時世、神父だろうが旅はする。

 だが何となく、その男のその笑顔はカーキッドの脳裏に焼きついた。




 たった1つだけあるそのベットに彼女をそっと置き、カーキッドはため息を吐く。

 あどけない顔して寝ている。

 オヴェリアにはああ言ったが、頬を紅色に染め肢体を投げ出すその姿に、少し心が揺すぶられた。

 大体この姫様は、自分の使命が本当にわかっているのだろうか?

「黒竜討伐ねぇ?」

 無防備な顔しやがって。

 思わずその頬に手を触れかけて。

 カーキッドはハッとし、そこから離れた。

「……」

 いかん、今日は俺も飲みすぎた。ブンブンと頭を振って、逃げるように彼女から遠ざかる。

 そして出入り口まで来ると、適当に上着を引っ掴み、かぶるようにして壁にもたれた。 

 今宵はカーキッドも目を閉じる。眠る。

 ただし愛刀は夢に落ちても、片時も離さずに。眠る……それだけを、自分に言い聞かせて。

 酔いは夢の中へ持って行く。




 カーキッド・J・ソウル。

 彼も一人の、男である。

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