第2章 暁の森-3-


  ◇


 ――ギョウライチュウ。通称羽蟲。元々は大人しい蟲であったのに。

(ここ数年だ、)

 凶暴化したのは。

(この時期は風は北から南へ向きこむ)

 それに乗ってきたのか……? 考えながら。カーキッドは走った。

 森の道を走るのは簡単ではない。村人が通るようにと多少の道にはなっているものの、街道とは訳が違う。砂利と石が凸凹に足をからめとリ、また思いもかけない高低差も行く手を阻む。

 まして夜。今宵は空が澄んでいるため、月明かりが強いのだけが唯一の救い。

 その中でカーキッドは足を止める事なく走り続けた。オヴェリアが遅れようとも構わずに。

 ……だが、気配だけは。背中に、正確に配ってもいた。

(よく着いてくる)

 こんな道で、走り行く背中をきちんと。

(いい根性だ)

 闇の中、一瞬だけその顔に笑みがこぼれたが、すぐにそれは風のごとく消え去った。

 初めて、カーキッドはピタリと足を止めた。

「臭うな」

「……え?」

 その間にようやく追いついたオヴェリアは、息を切らしながら苦悶の顔で問い返した。「何?」

「生き物が焼ける臭いだ」

 近いぞ、そう言ってまた走り出すカーキッドの背中を追いかけてさらに走ると。

 う、とオヴェリアは手首で鼻元を押さえた。

「何、この臭い」

 硫黄臭にも似た、もっときつい脳天に響くような臭い。

「灯りが見えるぞ!!」

 木々の隙間から漏れ見える光。揺らぎ揺らめくそれは、

「火だ」

 オヴェリアとカーキッド。たどり着いた先にあったのは、炎と。

「何、これ」

 大量の蟲。




 オヴェリアは息を呑んだ。

「これが、蟲……?」

「行くぞ」

 大きさは、人かそれ以上か。

 羽を持った異形のそれは、無数の大群となり村に飛散していた。

 人の叫び声が聞こえる。見れば、頭からそれに食いつかれてもがいている。

 蟲を恐れて火を使ったのだろう。その結果飛び火したそれが燃え移り、村の半分が火に包まれていた。

 その中にカーキッドはためらう事なく飛び込んで行った。もう剣を解き放っている。まずは一刀、人に食らいついている所を両断した。

「来たんなら手伝え!! ぼさっとすんな!!」

 続けざま飛んでいる2体を斬り、カーキッドは叫んだ。

 オヴェリアはハッとし、彼女も剣を抜いた。

「おい、お姫様。一応聞くが。殺すなとか言わんよな?」

「愚問」

 言いつつオヴェリアも、蟲を一刀する。グギャァという奇声が耳に痛いが、構ってられなかった。

 蝉のような、昆虫。羽が炎の中に、まだら模様に薄く光っている。

「全滅させます」

「上等」

 言ってカーキッドは走り出した。

「すげぇ数だ」

 言いつつも、その剣は綿を斬るかのごとくするすると斬り倒して行く。

 オヴェリアもまた、全力で剣を振るっていた。蟲の血が顔や髪、衣服を汚したが、構ってはいられなかった。

 人が蟲に襲われている。

 背中を引き裂かれそうになっていた子供を寸前で助け、首を引っ掛けられていた男を寸前で助ける。

 恐ろしい光景だった。

(こんな事が)

 知らなかった。城では誰も、教えてくれなかった。

 こんな蟲が村を襲い、人を襲い。

(こんなふうに)

 命が、奪われているなんて。

 ――すでに事切れた村人にたかる数匹を切り裂き、オヴェリアはその目に微かに涙を浮かべた。

 城にいたらこんな事、永劫に知らずに終わったか。

 それは幸せか? それとも、

「不幸か?」

 白い薔薇を抱くその剣は。闇に俳諧する無数の蟲を殺して行った。




 火が包む。この村はもう終わりだ。

 燃え移っていった火は、やがて村を全部飲み込んだ。

 生き残った人たちは命からがら、高台へと逃げた。

 黒い煙が空へと還っていく。

 オヴェリアはその様を、呆然と見ていた。魂を抜かれたような顔だった。カーキッドは内心でため息を吐き、肩を叩いた。

「お疲れ」

 彼にしては珍しく、そして彼の中では最大級の労わりの言葉だった。

 カーキッドをよく知る人物ならば、「天変地異の前ぶれか?」と疑いたくなるような苦い顔を彼は浮かべていたが。

 オヴェリアはそれを見なかった。

 ただじっと、崩れ行く村を見ていた。

「どなたかは存じませんが、助かりました……」

 村人の1人が2人に声を掛けてきた。生き残った面々は、怪我人を含めても僅か。

 ……村を走る最中、幾つも、無残な顛末を彼女は目にした。放心状態のオヴェリアに代わり、カーキッドが説明をする。山向こうの村からきたと。

「蟲はほぼ斬ったと思うが……一体?」

「わかりません。我らも突然の事で。山から大量に押し寄せてきて」

「向こうの村も心配だな。オヴェリア、戻るぞ」

「……」

「おい、オヴェリア」

「あ、はい……」

 腕がきしんだ。足が悲鳴を上げていた。

 でも。それより何よりオヴェリアは。

 今、空気そのものが痛かった。

「だから待っとけつったんだ」

 カーキッドがポツリともらした言葉を、彼女はどう受け止めたのか。正気を戻したその目は、少し傷ついたようにカーキッドを見上げた。

 月明かりにもその顔は汚れていた。

 あーあ、きれいな顔が台無しじゃねぇかと、息を吐きながら。

「……戻りましょう」

 クルリと向けたその背中を、カーキッドは苦い物を見るような顔で見つめた。

「とりあえずあっちに戻るよ」

「……ありがとうございました。真に、ありがとうございました……」

 感謝の言葉を、オヴェリアは今、聞きたくなかった。




 帰路は、来た時ほど急がなかった。

 走りはしたが、鬼気迫る勢いというわけではなかった。

 蟲は倒した。山から向こうへ行った可能性もあったが……蟲は群れを成して動く。はぐれで1匹2匹が別行動をする事も、まさか2手に別れる事もないだろうとカーキッドが言った。

 そして何より身も心も重く、足を鈍らせた。

「オヴェリア、急げ」

 カーキッドは走ったが、オヴェリアはやっとの様子で前に進んでいた。

(無理もねぇか)

 とカーキッドは思う。おそらく彼女は初めて見たのだ。人が死にゆく様を。

 ……あんな、無残な光景。蟲が人を襲う事事態、今日初めて知り目の当たりにしたんだろう。

 剣士が……いや、戦士が誰しも通る最初の1歩。

(いかに剣技に優れようとも)

 そこに本当に意味をなすのは、命の重みを知ったその瞬間から。それを知らぬうちは、どれほどの技を持っていようとも。

(無意味)

 さぁどうする、オヴェリア・リザ・ハーランド。お前が選んだ道は、こういう道だぞ。

 過酷すぎるこの道の最初の1歩は。

 ここからが、本当の試練の始まりだぞ――。




 ……最初の村に戻る。

 炎は上がっていない。静かだった。

 夜の帳と仄かに聞こえる虫の鳴き声に、オヴェリアは少し安堵した。

 だがカーキッドはすぐに異変を感じた。

「待て」

 村長の所へ向かおうとして、カーキッドは無理矢理オヴェリアの手を取り、建物の影に隠れた。

「……な、にを」

 彼女の口を手で塞ぎ、カーキッドは険しい目で建物の向こうをそっと見つめた。

「耳を」

 済ましてみろ。聞こえてこないか?

 虫の鳴き声が途切れて代わりに聞こえてきた、笑い声。

「――」

 話し声。

 言葉はわからない。だが踏まれているその音の感じが。

 ――村人ではない。

 おだやかな声ではない。殺気じみた凹凸の交る、不快な笑い声。

「だから、」

 まさか、とオヴェリアは目を見開いた。

「残れと言ったんだ」

 後は彼の手を振り払い、走り出した。




 足が痛いとか、腕がだるいとか。気が重いとか辛いだとか悲しいだとか。

 そんな感情はもう。それより何より胸を襲うのは。

「お前は今朝の!!」

 火は上がっていなかった。轟音はなかった。

 でも。皆、事切れていた。

 人が倒れていた。色々な姿で。

 月明かりの中、夜の闇が隠してくれる、無残なその光景を。

「これ、は……」

 呟く間にも、オヴェリアを男達が取り囲んでいく。

「村人は全員皆殺しだ。俺たちに歯向かった罰だ」

 目の前に倒れいていたのは今朝救った娘のうちの1人だった。

 剥ぎ取られた衣服が、ボロボロと辺りに散らばっていた。

 その目は月を眺めていた。オヴェリアがその顔を覗き込んでも、反応はなかった。

 そっと、その目を閉じさせる。捨てられていた服を上からそっとかけてやった。

 ――笑っていた。嬉しそうに。夕餉の時、ありがとうありがとうと何度も感謝されて、

「どうします?」

「構わん。殺せ」

 総勢、30。

 下卑た笑い声と、くぐもるように聞こえる音は、さながら猛獣の唸りのように。

 ――されど猛獣ならば、気づく。

 辺りは沈黙。虫は鳴き声を止めている。

 その中で風が、一陣だけ強く吹き殴り。

 オヴェリアはゆっくりと立ち上がった。

 俯き、事切れた娘を見。

「やれ」

 襲い掛かってきた盗賊の1人目を。

「――グギャァァァッッ!!」

 斬った。

 彼女からほとばしる、空気をも切り刻むかのような。

 深い深い、殺気。




 その場にいた誰も、彼女が剣を抜いた瞬間を見る事できなかった。

 何が起こったかもよくわからない。ただ、1人の盗賊が胴体から血を吹き転げ回り、そこにオヴェリアが、剣をぶら下げ立っていた。こちらを向いた瞬間さえ、見えなかった。

 その顔には感情というよりは、むしろ。

「こ、殺せ!!」

 ――闇が。

 3人同時に襲いかかってくる。

 カンッと初手を弾き飛ばし、地面にもぐり、そのまま正面の男の腹を横に薙ぐ。

 血しぶきをきらい、すぐさま後ろへ避けたそこへ、2人が突き刺すようにタガーを畳み掛けてくるが。

 オヴェリアの方が早い。ことごとく空を突いていく。

 その背中を一太刀。腰から一刀に薙ぐ。

 そのまま返しの刀は3人目の首を一閃。

 ……これで、4人。

「このアマぁぁぁ!!」

 一気に押し寄せる無数の刃に。オヴェリアはひるまず剣を構えるが、横から押し寄せた3人ばかりが、一気に倒れ行く。カーキッドだ。

 その隙間から円の外へ抜け、オヴェリアは走った。

「追え!!」

 そのまま、場所を変える。走るオヴェリアの横に、カーキッドも着く。

 カーキッドはもう、何も聞かない。

 ただ一言。

「行くぞ」

 と笑う。

 少し広けた場所に出た。そこで、オヴェリアは追っ手に向き直った。

 改め、剣をかざす。そこに付けられた、白い薔薇をかざし。

「オヴェリア・リザ・ハーランド。参る」

 ハーランド? その名に驚愕を見せた盗賊の頭目に、二の句は告げさせぬ。一気に3人斬り倒す。

 彼女の動き、誰にも見えぬ。連撃で知れた騎士をも上回ったその剣技。

 この場の誰に、止められようか?

 いや、万が一にもその剣から逃れようとも。

 脇に控えるのは、かつて異国で鬼神と呼ばれた1人の剣士。

 白い騎士と、黒い剣士。2人を前に。

「わ、わ、ギャァァ!!!」

 逃げる事すらも、叶わない。

「敵前逃亡は男の恥だと、センセェに習わなかったか?」

 笑いながら、カーキッドは首を跳ね飛ばす。

 ――30いた盗賊は、瞬く間に半分になり、残り10人になり、5人になり。そして最後、1人となり。

「は、ハーランド……まさか、まさか」

「真実は」

 カーキッドが剣を構える。それより早くオヴェリアが横から一閃させた光が、斜めに盗賊の頭の身を捕らえた。

「闇の中で神に問え」

 存在するならばの話。

 そしてカーキッドがとどめにと、心臓を一突きした。

 ――これで0。

 全、倒。


  ◇


 生きていく、その中で。運命の選択はそこかしこに散らばっている。

 でもどれもこれも「これが分かれ道だ」なんてご丁寧に看板は立っていない。

 小さな小さな選択に、まさか自分の運命、まして人の命が関わっていようとは。

 ……わかるのは、結果として、すべてが終わった後。

 涙でも流すか? 己の選んだ道の顛末に。

(それでも)

 それを踏み越えなければいけない。

 たとえ間違った選択をしたとしても、取り返しのつかない結果となっても。

 道は戻れぬ。ゆえに、越えて行かなければならない。

 悲しみすらも糧として。強さと変えて。

 また1歩。

 踏み出す事を、やめないように。




 土を掘る。

 ひたすら掘る。

 スコップを初めて持った。土のにおいは、甘かった。

 できた穴にカーキッドがそっと娘を入れる。これで最後。

 衣服は整えた。

 それを眺め、目を閉じ、オヴェリアはそっとそこに土をかぶせた。

 すべてを終えると、十字を立てる。

 ――村人は全員。これで土へ還る。

「ご苦労なこった」

 カーキッドはため息を吐いた。

「何も盗賊まで埋めてやらんでも」

「……命は、命です」

「そーかい。そらお優しい事で」

 命、かとカーキッドは呟き、持っていた水筒の水を飲んだ。

「人の命と蟲の命、それにどんだけ差があるのかね」

 盗賊を殺すなと言ったオヴェリア。そして蟲は問答無用で斬った。

 あの時もしも盗賊を逃さなかったら? 

 目を閉じる。

「まぁ、」と彼女の考えている事を察したように、カーキッドは呟いた。「同じ事だっただろうがな」

「あの時あいつらを全員倒していたって、結局はこうなっただろうさ」

「……」

「だから言ったんだ、関わるなって」

「……それは、違う」

「あん?」

「同じ結果になったとしても……それは違うと、思う」

 さらわれていく女達を見なかったふりをしてやり過ごす事など。

「何が違う?」

「心」

「……」

「私の、心」

 見捨てて罪悪に苛まれるくらいなら。

 身を乗り出して、戦って、

「だったら今度からは、諸悪は全部叩き斬れ」

「……」

 俯く彼女に、カーキッドはやれやれと息を吐いた。

 蟲の血と人の血に犯され、彼女は汚れきっていた。

(そりゃ俺も似たようなもんか)

 せっかくのきれいな顔が。

 ――でも、それでも。

 こいつはきれいだと、そう思ったカーキッドは。

 少し苦笑する。彼にしては、珍しく。

「オヴェリア」

 と、カーキッドは彼女の名を呼び。虚ろに顔を上げた彼女の鼻の頭についていた泥を、そっとぬぐってやった。

「カーキッド、」

「……まぁ、ご苦労さん」

 初めて命を絶った。人を……斬った。

 その重み。カーキッドにも最初はあった。

 だがそれは言わず、「よくもまぁ、こんだけの人数の穴掘りしたよ。ほれ、夜が明ける」

「長い夜だったな」

 言いながら、彼はポンと彼女の肩を叩いた。

「でもここからが、始まりだ」

 色々な意味で。旅も、そして戦士としても。

 山間から光がこぼれた。その眩しさに、初めてオヴェリアは。涙を流した。

 カーキッドは少し困り、「戦士は泣くもんじぇねぇ」と言おうとしたが。

 仕方なしに、そっと抱きしめた。

 あーあーと、カーキッドは思った。

 これだから女は困る。

 でも。

「……よくやったさ」

 彼をよく知る者が見たら、間違いなく今日は天変地異が起こるだろうと断言した事だろう。

 だが事実として、カーキッドは思っていた。

 こいつは中々、面白い。姫様という事を差し置いても。充分。

「よくやった」

 そう言ったら一層泣くので。

 カーキッドは困り、それからしばらく、泣き止むまで胸を貸さざる得なくなってしまった。

 髪も汚れているのに、血の臭いがするのに。不思議と彼女からはいい匂いが立ち込めてくる。

 姫様だからか? 女だからか? カーキッドには、よくわかからなかった。ただ腕を占めるその感触に、悪い気分にはならなかった。




「行くか」

 泥まみれになった服と体を洗い、ようやく出立できたのは翌日。

 オヴェリアは、主のいない宿に頭を垂れ、首からかけていた十字架を握り締めた。

「北へ。第三街道へ出る。ちゃんとついて来いよ。あとそれから、」

 とカーキッドは彼女の鼻先に指を突きつけた。

「お前、今後人前に出る時は顔隠せ」

「……え?」

「いちいち女だ女だと騒がれたらたまんねぇ。顔隠せ。声も出すな。男の振りしろ。いいな?」

 それにオヴェリアはいささかムッと顔を歪めた。「カーキッド、」

「それを言うなら、あなたもちょっと」

「あん?」

「あなた、私の事は偽名で呼ぶって言ってたけれど。なのにオヴェリアオヴェリアと。一言もカインと呼ばなかった」

「……そうだったか?」

「そう。私の顔がどうのと言うのなら、それはどうなのですか?」

「わーったよ。気をつける」

 オヴェリアに一本。

 クスっと笑った彼女の顔に、カーキッドは知らず頭を掻いた。

「行くぞ」




 旅の始まりは暁と共に。

 背負った十字を胸に抱き、2人は歩き出す。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る