第1章 サンクトゥマリアの子守歌-3-


 ――かつてまじない師は彼にこう言った。

 お前の生涯は、剣に生き、剣によって生かされる。

 そして――。




 城内をカーキッドはぼんやりと歩いた。

 来た時と同様にすれ違う者は彼を振り返ったし、敵意に似た眼差しも向けられた。しかし彼はそれらすべてを受け流した。

 小窓から見える空を眺めた。淡い色の蒼に、雲が絹糸のように筋を引いている。

 女神の息吹のようであった。

 しばらくそれを眺めていると、ふと、彼の耳を音が掠めた。

 錯覚か? 一瞬そう思った。

 だが確かに聞こえる。風ではない、鳥でもない。

 確かに音が。――歌が。

 カーキッドは一歩、歩を進めた。

 まるでその音に誘われるように。

 ――この国へきて1年。そういえばこんなふうに城を歩き回った事なんざなかったな。

 そう思いながら、見知らぬ回廊を歩き続けた。




 どこをどう歩いたかわからない。

 来た道は戻れない。

 ただ音だけを頼りに城をさ迷い、迷い込んだのは庭園。

 一面が、白い薔薇に埋め尽くされたそこに。

 ――歌が聞こえる。

 衣擦れの気配。

 陽光はささやかに、焼け付くほどでもなく凍てつくほどでもなく。

 ――純白のドレス。

 女がいた。

 金糸の長い髪を風に遊ばせ、口元に笑みを浮かべながら。

 彼女が歌う……この歌は。

 カーキッドの歩が、ガサリと音を立てた。

 女は振り返った。

 目が合った。

 青い瞳だ。

 空のようで海のような青い青い、――いやむしろその光はそれ以上の宝石のような強い光。

 この目を彼は知っていた。試合の時見えたあの凛然たる瞳。

 カーキッドは褐色の瞳で、奪われたように彼女を見つめた。

 ああ、あれは子守歌だ。

 そう思った時、どこかで高く、鳥が鳴いた。


  ◇


「よぉ」

 オヴェリアは、白薔薇の庭園に1人佇んでいた。

 供は誰もいない。ここに来る時は大概1人である。

 この庭園に来る者も滅多にない。ここは城の随分奥にあるゆえ。わざわざここまで来なくても、薔薇が見える場所は幾らでもある。

 この国は、薔薇の国。

 しかしオヴェリアにとってここは特別な場所。いかに優美に咲き誇る薔薇の庭園がこの世に存在しようとも、ここだけがオヴェリアにとっては唯一。

 ――母が好きだった場所だから。

 幼くして亡くなった母が、とても愛していた場所だったから。

「……」

 白い薔薇は今日もそこに咲き誇っていた。

 一点の曇りもない花が幾つも幾つも咲き乱れ、庭を真白に染めている。

 その中にあり、オヴェリアは歌を口ずさんでいた。

 ――その最中だった。

 男はそこに、やってきた。

 この白い庭園で場違いな、黒い騎士服。

 正騎士のそれではない。この服装は傭兵隊の物。

 ――傭兵隊長、カーキッド・J・ソウル。あの試合の日以来の再会であった。

 オヴェリアは少し瞬きをし、やがて居を正し小さく会釈をした。




「道に迷ったんだ」

 彼女が何か言うより先に、カーキッドはそう言った。

 明らかに俺は場違いだ。それは当人が一番わかっていた。

(真っ白の世界)

 ここはあまりに純白で。きれい過ぎる。

 汚れた自分に少し苦笑する。さっさと立ち去ろう。歌の出所はわかったんだから。

 ――そう思う、なのに。

 足が張り付いたように動かなかった。

「……そうですか」

「武大臣に呼び出されて来たんだが」

 ふらふらしてたらここに来ちまった。

 ……歌に誘われたとは、決して言わない。

「城門は、」とオヴェリアは、腕を差し出し道を示した。

「そうか、わかった。助かる」

 それを話半分で聞き、カーキッドは礼を言った。

 オヴェリアは微笑んだ。

 薄く、優しく、柔らかいその笑みは。

 この庭園にあるせいか、白薔薇に囲まれているためか、花そのもののようにカーキッドには見えた。

 ――美しい物を見ると汚したくなるとは、誰が言った言葉だろうか?

 ハハハと薄く笑い、カーキッドは姫を見た。

 姫……姫だ。

(騎士じゃない)

 こんなきれいなお嬢ちゃんが? 剣を振り回し、竜を倒す……って?

「あんた、」

 そんなのどう考えたって、おかしいだろう?

「本当に行く気か?」

 カーキッドの問いに、一瞬彼女は何を言われているのかわからないような顔をした。それに彼は少なからず苛立った。

「黒竜討伐だ」

 次のその言葉に、さっと彼女の顔色が変わった。

「はい」

 行きます。

 随分はっきり言いやがる。

 だが理解できているのか? それがどういう事か。

「へぇ? じゃぁ、お供は何人連れてくんだ?」

 ――竜。

 なぁお姫様、あんたはそれを見た事があるのかい? どんなもんだか、知ってるのかい?

 この世界においてその生物は、最も獰猛で残酷で強靭な生物。

 その寿命は長いものならば500年とも言われている。……もちろん本当か知る術はない。人に、それだけの時間を越える事はできないのだから。

 だがその生命力はわかり得る。普通の刀でその皮膚を貫く事などできはしないだろう。

 まして、破壊力。

 ――伝承にはある。かつてその力により、世界が壊滅せしめた事があったと。たった1匹の竜により、世界は炎と闇に包まれ、終焉を迎える一歩手前まで行ったのだと。

 国家規模の討伐隊が組織され、そして呆気なく散って行った事を。

「供は連れて行きません」

 なのに彼女はそう言った。

 一瞬カーキッドは呆気に取られた。が次の瞬間、「ハッハッハ」と大業に笑った。

「大した自信だ」

「……」

「一人で仕留めると? それができると? あたはお姫様だろう?」

 ――試合の折のあの剣技。あれは、カーキッドも認める。女ゆえに剣圧は重くなかった。でもその分のスピードが並大抵ではなかった。

 これまでどのようにして腕を磨いたのだろう。大っぴらに剣が振るえたとは思えない。……女の身であそこまでの技量を身につける、それは尋常な努力では成し得ない事だと思う。

 だが、惜しむべくはやはり、女だという事だ。

 目の前の白薔薇の中に立つ者は確かに〝姫〟だ。

(似合わねぇや)

「お姫様はお城の中に引っ込んでろ」

 ――あの折確かにカーキッドの胸は震えた。それはこの娘の剣がそれほどの物であったから。最後の局面、相手が女だと知ったからと言って、カーキッドは手を抜かなかった。抜く事などできなかった。それは完全に、彼自身がその剣を認めた証拠だった。

 ……だが。

「黒い竜は、白薔薇の剣でしか倒せない」

「己一人で成し得ると?」

「……誰も、巻き込みたくない」

「だから? 傲慢なお嬢ちゃんだ」

「……確かに私は、剣の腕はまだ未熟。あの試合だって本当は」

「……」

「あなたはあの時……準決勝で、シュリッヒ様の剣で脇腹を痛めて」

「何の事だ?」

「……」

「何にせよ、退きな。あんたが否定すれば、誰も、無理に竜退治になんぞ行かせやしないだろうさ」

「私が行かなかったら誰が?」

「世の中にはな、勇者になりたい奴は山のようにいるさ。英雄だとか勇者って言葉は麻薬と一緒。その魅惑に囚われた者は簡単に抜け出せやしない」

「誰かが行くと?」

「ああ。それともあんたも、とり憑かれてる口なのかい?」

「……」

 英雄になりたい? 勇者と呼ばれたい?

 いや違う、この女の目はそういう類じゃない。

 ならば――?

「悪い事は言わない。お前には似合わない」

 カーキッドは極力優しい声音でそう言った。

「『白薔薇の騎士』なんぞやめとけ」

 騎士なんぞ、剣士なんぞ。踏み入るな、その世界に。その世界は尋常じゃない。正気の世界じゃないんだ。

「剣はままごと遊びじゃねぇ」

 答えぬ彼女に、カーキッドはピシャリと言って背を向けた。

「……道案内、助かった」

 そのままそこを立ち去った。

 ――背中に何か、妙な、悲しみを残し。

 そしてそれを踏み潰すように、強く、前に向け歩いた。




 残された彼女は小さく呟いた。

「それでも……」

 白薔薇は私にとって――。

 自分のはわかってる。これが無茶苦茶だともわかっている。

 それでも。

「……」

 白薔薇は真白に光り。

 思い一つでその色は、決して、染まりはしない。


  ◇


 薔薇の御前試合から2週間が経った。そして未だ、竜討伐に対する議論は結論を得なかった。

 本当に姫が行くのか。オヴェリアは御前試合に勝った、その場で公表もした、国民がその事実を知っている。だが本当に彼女を『白薔薇の騎士』としていいのか。もし本当に竜討伐に行かせるとして、誰を供にするのか。

「第一から第十三師団までを供として出すのは」

「それでは国ががら空きになる。攻め込まれればひとたまりもないぞ」

「だが伝承によれば竜の力は、国規模の兵力を持ってしてでも、」

「……一体どうすれば」

「わかっている事は」

 ――常人には倒せぬ。一介の剣には貫けぬ。

「隣国バリジスタは」

「言うまでもなく彼奴らは」

 ――議論は尽きぬ。昼夜区別なく。

 そして話しても話しても、結論は出ない。

 オヴェリア・リザ・ハーランド。彼女は現王のただ一人の娘。王の血を引く直系のただ一人の子供だ。万が一にもその血が絶えたら。

 ……だが彼女はその剣を抜いてしまった。この王国に伝わりし伝承の剣。

 白薔薇の剣は、聖母の力を宿すという。

 ――聖母、サンクトゥマリアの。

 ヴァロック王の剣技が健在ならば。武で名をはせた王だ、違うみちを選ぶ事もできたであろうに。だが彼は病によって、もう剣は振れぬ。

 そしてその次なる持ち手として剣が選んだのが、

「……惨い」

 文大臣コーリウスは、膝を折るようにしてため息を吐いた。

「神は我らに、何をさせたいか?」

 姫を戦場へ出せと?

 こんな事は間違っている。この国のあり方は間違っている。

 だが他の一手が浮かばない。

 こんな我らは、狂っているのか。狂った王国に未来はないのか?

 だから姫が選ばれたのか?

 ――もう途絶えよと。

 これが神の――聖母の思し召しか?

 議論の終焉は見えぬ。

 王は言葉少なくただ耳を傾け、最後は目を閉じた。

 瞼の裏には、笑顔がよぎった。

 その笑顔、もう、夢の中でしか見えない。

 王妃・ローゼン・リルカ・ハーランド。

(あの時と)

 同じ。

 繰り返されるのか?

 リルカと同じ。

 それが定めか?

 この国の、断ち切れぬ定めなのか?




 その日の議会も結論出ぬまま散会となった。

 部屋に戻り寝台に横たわっても、王は眠れぬまま夜を過ごした。

 ――そして。

「……誰だ」

 どれくらい沈黙と闇の中、ぼんやりと過ごしたかは知れない。

 まだ暗い、だがもうじき夜が明ける、そんな刻限。

 ……誰か部屋の外にいる。その気配を感じた。

 番兵ではない。その気配を彼はよく知っている。

「父上」

 音なく開いた扉から、入ってきたのは娘。

 彼のたった1人の、

「オヴェリア……」

 暗い視界にもわかる、その姿は旅立ちの姿。

「出立のご挨拶に参りました」

 姫のその声が、王の記憶の中で一人の女性のそれと重なった。

 たった1人愛し続けた女性。そしてそれはこれからも、永久とわに。

 その声が。

「これより黒竜討伐に参ります」

 行くと言っている。




「色々考えました」

 ハーランド王はじっと彼女を見ている。

 その目に、オヴェリアは言葉を選びゆっくりと続ける。

「私に成せるのか……それに値するのか」

 考え、考え続け。

「……答えは出ません」

「そうか……」

「でも1つだけ。私は『白薔薇の騎士』となる事を望んで、かの試合に出ました」

 父上は剣を捨てろと仰せだったのに、とオヴェリアは顔を強張らせた。

「どうしても、捨てられませんでした……」

「……」

「私には王位は継げない。それはわかっています。……でも私は、」

 あの剣を。

 父と母のあの剣を。

「………オヴェリア」

 搾り出すように、ハーランド王は呟き、手を差し出した。

「お前は昔から、わしの言う事を聞かぬ」

「……申し訳ありません」

「幼き日のわしに瓜二つよ」

「……」

「お前は母にもわしにも、よう似ておる」

 似ているがゆえに。

「……愚か者」

「申し訳ありません」

「そなたが決めたみちよ」

「……」

「もうわしも止めぬ。行け。その代わり、必ず生きて無事に戻れ」

 愚かな親だと笑え。

 だがもう、止められぬ。

 みちは自分で選ぶもの。誰かに決められるものではない。

 そしてこの娘は選んだ。最も過酷な路。過酷な運命を。

「はい」

 自ら望み、進んだ。

 ――切り開け。

 己の力で。そして跳ね除けろ。迫り来るすべての困難、障壁の数々を。

「行け」

「父上、どうぞ息災に」

「お前も」

 嘆いてはならぬ。子供はこうして親から飛び立つ。そうやって一人前になっていく。行かねばならん。

「わしの子だ」

 そしてハーランドの娘。




 ――去って行った娘が残した気配を胸に抱き、王は歌を口ずさんだ。

 〝サンクトゥマリアの子守歌〟。

 あの子をどうか御守りください、聖母サンクトゥマリアよ。

 ――子に祝福を。よき光を。よき風を。

 すべての災いが避けて通ってくれるように。そして再び、この地へ戻ってこれるように。

 歌よ、あの子を守れ。

 王は微笑み、静かに涙をこぼした。  


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