白薔薇の剣－最後の王女の物語－

プロローグ 白薔薇の騎士－３－

　カイン・ウォルツ。

　闘技場から引き上げるカーキッドは、その姿を認めニヤと笑った。

　派手な白い鎧である。

　黒い鎧をまとうカーキッドは彼の目の前を横切ると、

「待ってるぞ」

　それだけ言って、去って行った。

「……」

　カインは振り返らなかった。

　ただ、息を吐く音が兜の隙間からこぼれ出た。

　熱い息だ。

　その熱気に、彼自身の心が犯されてしまうようだ。

　いいや、もう、犯されている。浮かされているんだ、その熱に。

　両の手を握り締めた。火蜥蜴（ひとかげ）の髭（ひげ）で縫いこまれたその手袋は、鎖のように頑丈だ。

　――直に、名が呼ばれる。

　カイン・ウォルツ。

　この名を背負って戦った。

　あの人の目の前で。

　それは、万死に値するか？

　その命を破り、欺き、ここまでやってきた。

　血族を貶めるは、神に仇なすのと同じ。誰にいつ言われたか、そう教えられてここまで育ってきたけれども。

　――譲れないんです、父上。

「準決勝第二試合！！　西、マルセ・ガイナス！！　東、カイン・ウォルツ！！」

　先の試合により、会場を異様な空気が包んでいる。

　マルセは少し嫌そうにそれを仰ぎ見たが、カインは動かない。

　白亜の胸甲。腕は自由だ。足の装甲もまだ傷一つない白銀に、

「始め！！」

　光ってる。

　前の試合と一転、声が飛ぶや否や、カインが走り出した。

　突きの構え。

　狂犬のごとく走り来る彼に、マルセは正眼で迎え打つ。

　剣と剣、ぶつかり合う音は鳴ったが、大して響かない。腕力が違う。

　マルセは一瞬、その突きの軽さに戸惑った。

　彼も伊達に、第十三師団の総隊長を務めてはいない。１３歳で見習いとして仕官し、今年で１８年。出場者の中でも、ベテランの域にある彼が。

（カイン・ウォルツ）

　その名を知らぬ。

　だがこの構えは見た事がある。この剣さばきは。

　――何度か打ち合う。うまい。マルセの早い打ち込みについてくる。彼の連撃は騎士団でも有名で、打ち止める事が出来る者は多くはない。

　だが、それを受ける。流す。かわす。

　そして打ってくる。

（早い）

　マルセの右足が砂煙を立てた。

　打ち込む隙など与えていない。だがこの剣士は。

（俺よりも早いか）

　肩に掲げた剣を、一刀、振りかざす。

　キィ―――ンと、響く、音が。

　劈（つんざ）くんじゃない。この音は。

　広がる。波紋として。

　どこに？

（俺の腕にか）

　心にか。

　その力は決して重くはない。腕力は自分の方が上だ。

（だが）

　腕がしびれる。

　力がない分、それを補う速さがある。

（こんな剣士が）

　連撃のマルセ。そう呼ばれてここまできた。

　だが目の前にいるこの者のそれは。

　――マルセが足を薙いだ。

　だがカインの足はもうその場になかった。

　影が落ちた。

　マルセははっと顔を上げた。

　天空に、その者は剣を振りかざし。

　まるで宙を舞うかのように、高く飛び。

　――ああ。

　その肩の隙間から太陽の光が飛び込んできた。

　目が焼かれた。

　そこにマルセは答えを見た。

　――キィィ-――ン

　最後の一刀、受け止められたのは、マルセの誇り。

　だが弾かれた剣は宙を舞う。

　それが地表についた時。

　――カインがマルセの喉元に、剣を突きつけた瞬間であった。

　――定めだよ。

　２０年前聞いたその声が耳元で蘇る。

　すべては定め。選ぶのは我らではない。

　導くのはすべて、

「あの剣」

　沸き立つ会場のその空気の中。

　王の声は透けるように静かに、しかし強く、グレンの耳へと届いた。

「懐かしいな」

　グレンはそれに答えなかった。

「まるで昔のお前を見ているようだ」

「……」

　ただ頷く。

　頷いて、そして。神に問うしかもうない。

（呼ぶか？）

　その魂を？

　どうか、どうか、それだけは――。

　――４年に１度の薔薇の大祭。その日のためにこの国は動いている。

　街は薔薇によって一面飾り立てられ、豪華な食事が用意され、露店はひしめき、さまざまな出し物が踊る。遠方からこの時を狙って商売にくる者も多い。

　だがそれはすべて余興。

　薔薇の御前試合。真実、大義はその行事のみ。すべてはその付随。

　武芸に覚えのある者ならば、〝赤薔薇〟の栄光を目指し、その腕を鍛え磨く。

　その日のために。この日のために。

　――最終日、決勝戦。

　商売人も職人も、武とは関係ない者たちも、結果を知らずにこの祭りは終われない。

　今年の〝薔薇〟は誰か。誰を持って終わり、始まるのか。

　ましてや今年の薔薇は〝白〟。

　ここで国家の行く末が決まるのだと、誰もが思ってる。

　今回のこの試合が、何を意味する事になるのかを。

「いい風だ」

　今日は風が吹いている。

　心地いい。

　しばしカーキッドはその髪を自由に遊ばせた。

　その色は黒。生粋のハーランド人ではない。この国の人民の髪はもっと明るく薄い。瞳も同じ。翠（みどり）が主。これほど純粋な黒髪は、異邦人にしかあり得ない。

　ここで彼が勝ったら。異国の血が王家に混ざるのか？　ハーランドの王族は、この国でも最も穢れなき物と称されている。

　髪はまばゆいほどの金糸、瞳は空のごとき蒼。

　現王ヴァロック・ウィル・ハーランドの妻も、存命の頃は国の至宝と謳（うた）われた。

　――それを受け継ぐ、ただ一人の姫は？

　カインは兜を取らない。

　吹き抜ける風に髪を遊ばせたい。

　だが今は。

　吐息に混じる、焔。

　その熱に浮かされ、この白い大地にて、舞い踊りたい。

「は、は、は……」

　どうしたの、フェリーナ？　周りの侍女たちが、彼女の様子に声を荒げた。

　顔面蒼白である。

「ひ、姫様がっ」

　――今日は祭りの最終日。

　今日決まるのだ、この国の運命も、姫の運命も。

　だから、禁を犯して扉を開けた。

　陛下の元へ参りましょう――そう伝えるために。

　だが。

　フェリーナの異変に、侍女たちが姫の部屋に飛び込んだ。

　飾り立てた細工、上質な部屋、どこも荒らされていない、どこにも異変はない。

　ただ１つ、その主がいない事以外。

「姫のお姿がない」

「探せ！！」

「あ、あわわ……」

　フェリーナは両手で顔を押さえる。

　――窓が、開いていた。

　あの窓は裏庭が良く見える。そこからは庭に咲く白い薔薇がよく見えるからと、姫はよく窓辺に腰掛けていた。

『ねぇ、フェリーナ』

　血相変えて姫を探しに行った侍女たちに取り残されるように、フェリーナは呆然と窓辺を見ていた。

『白薔薇の花言葉、知ってる？』

　……いつだったか、姫はそう言った。

　第１２代国王、ヴァロック・ウィル・ハーランドのたった一人娘。王家の直系たるただ一人の王女。　　オヴェリア・リザ・ハーランドは。

『〝愛〟とか、そんな感じですか？』

『うふふ。赤薔薇はそうね。〝情熱〟〝愛情〟〝美〟……〝熱烈な恋〟〝灼熱の想い〟。その色のままに』

『へぇ？　さようでございますか』

『でも白は違う』

『？』

『蕾は〝処女の心〟。枯れた薔薇は〝生涯の誓い〟。そして大輪の花に込められるのは、〝心からの尊敬〟〝無邪気な想い〟そしてもう一つ』

　姫はそうして笑った。

　白薔薇の意味は？　フェリーナは記憶に問いかける。姫は何と言った？　姫は白い薔薇のもう１つの意味を。

　――花瓶があった。白い薔薇が、フェリーナが整えたそのままの姿でそこにあった。今朝庭から摘んできたのだ、姫が喜ぶと思って。あの方が笑うと思って。

　オヴェリアの笑顔は、フェリーナにとって掛け替えのない、

「姫様」

　涙が浮かんだ。

　白薔薇の向こうには、聖母の像がある。

　腕を組むその姿を見て。フェリーナは「あ」と息を呑んだ。

「白薔薇の意味は、」

『〝私はあなたにふさわしい〟』

『選ぶのよ、白い薔薇は。自らで』

　己にふさわしい者を。

　――始めの号令は、聞こえなかった。

　それより前にもう、２人の間にはその空気が生まれていた。

　剣気。

　カーキッドは最初から剣を構えた。

　カインも同じ。準決勝と違い、両手で正眼に構え動かない。

（始めからわかってた）

　カーキッドは内心呟く。否、それは言葉にするよりはもっともっと溶けるような思い。

（こいつと打ち合う事になる）

　最後は、必ず。

　彼の試合を全部見てきたわけではない。でも。

（早い）

　できる。

　――カイン・ウォルツ。

　この国にこんな剣士がいたかのかと思う。

　こいつは騎士じゃない。まして自分のような濁った剣でもない。

　純粋、無垢。

　色に例えるならば、その気配ははっきりとした白。

　ジリと、わざと足元に音を立てる。カインは揺らがなかった。

　上り立つようだ、その剣気が、白く、神々しいほどの光を放って。

　でもまだだ。まだ緩い。

　淡い光。これは自分が求めるものじゃない。

　――カーキッドが先に動いた。それに呼応するように、カインも動いた。

　剣が交わる、音が鳴る、だが余韻すらも両断する。

　連続して、カインは剣を振り仰ぐ、横に薙ぐ。

　カーキッドの剣は重い。振るわれるのは重量とスピードを伴う剣。

　ハーランド最強の騎士団とも呼ばれる近衛の団長すらをも打ち負かしたのだ。

　身長の高低差もそこに重圧を加算する。はたから見れば、それはまるで打ちのめされているよう。

　ズドン、ズドンとのしかかる鉛の剣技を前に、剣にヒビが入るような錯覚を、カインは覚える。

　受け止める腕は、鎖帷子（くさりかたびら）に覆われているが、か細く。一瞬誰もが、カインのごとき小さい者がなぜここにいるのかと目を疑った。

　でも、ここにいるのだ。彼は勝ち上がったのだ。

　様々な猛者を倒し、騎士を倒し、３００人近くいた者たちを押し退けその果てに、たった２人だけが残ったこの場に来たのだ。

　それは偶然ではあり得ない。

　――必然。その名の下に。

　地面を転がり、その場を避ける、カーキッドの剣は地表に吸い込まれる。

　だがそのまま横薙ぎに、砂煙を伴い襲い掛かる。その切っ先の先はカインの首。

　ギリギリかわす。その反射神経にカーキッドは感嘆した。

「いいぞ」

　もっとだ。

　上から串刺すように突く、突く、もう１つ。

　全部かわし、カインは跳ねるように飛び上がる。そのまま体をひねり、カーキッドに打ちかかった。

　胴体を打つ、一瞬彼がよろめく。そこに追撃を入れる。

　だがそれで倒れるカーキッドではない。２打目は弾く。強行から一気にその脇を狙う。

　カインは両腕で剣を持ち、何とかそれをやり過ごす。そして間合いを開けた。カーキッドもそれを許す。

　２人の間に距離が生まれる。

「ハァ、ハァ……」

　熱い。吐く息が。苦しい。

　こんな兜、投げ打ってしまいたいとカインは思った。

　だが。

（まだ、外せない）

　視界も悪い。でも見える。壇上にいる陛下。

　ハーランド王が見てる。

「ハァ、ハァ、ハァ……」

　剣を握り締める。ぎゅっと、ぎゅっと。

　感じる、その鼓動。

　――ここまできたら、もう。

「はっ！！」

　打つしかない。

　脚力上げろ。

　走りくるその足が速くなったのをカーキッドは感じた。

　解き放たれるその白い気配が膨らむ、広がる。

「そうだ」

　もっとだ！！！　そう叫び、受け止める。

　耳を劈（つんざ）く、それは音となる。

　悲鳴に聞こえる。剣が上げる悲鳴。

　無理しているのはどっちだ？　こいつか？　それともこいつの力量に耐えかねている剣の方か？

（こいつが今閉じ込めているものは何だ？）

　打ち合いながら、カーキッドは思う。初めて見た時から思ってた。

（思いか？　信念か？）

　それとも。

　宿命か？

（ならば俺が）

　その殻、割ってやる。

　解き放て。俺はそれが見てみたいと。

（あの瞬間）

　大会初日、初めてすれ違ったあの時から。

　なぜだか魅入られたようにずっとカーキッドは、そう思っていた。

　その一刀は、今大会カーキッドにとって一番早く、一番重く。

　電光の、刃。

　――かつて遠い異国の戦場で、鬼神と謳われた１人の剣士、カーキッド・Ｊ・ソウル。

　その一撃が、入った。

　受け止めた剣は砕けた。

　その寸前でどうにかかわした、その体。

　だが面が。兜が剣圧を避け切れなかった。

　留め具が割れた。

　そしてその面甲も、砕け散った。

「――」

　風が入る。

　心地よかった。

　熱すぎた息が解き放たれる。

　カイン・ウォルツ、そう名乗ったその剣士は、一つ、諦める。

　兜を取った。そしてそのまま脱ぎ捨てた。

　砕けた兜は意味をなさぬ。

　もう、いい。

　だが剣は残ってる。

　半分折れたけど、まだ心は折れてはおらぬ。

「……ッ！！！」

　誰もが息を呑む。

　薔薇の御前試合、決勝戦。目の前に対峙している２人の剣士。

　傭兵隊長と、もう一人の白い鎧の剣士は。

「あ、あれは……」

　大臣は血相を変える。

　だが王と、その側にあり続けた武大臣は揺るがない。

　見据える、そこに立つ者の姿を。

　結い上げていてもわかる、黄金の糸のごとき髪。

　そして快晴の空よりも青い、宝石よりも澄んだ色を持つその瞳。

　かつてその母は至宝と呼ばれた。

　その血を受け継ぎ。

　歴代王の中でも剣の腕前は随一と言われた現王の血を受け継ぐ、たった１人の。

「オヴェリア王女……！！」

　王は鼻を鳴らす。

「剣は捨てろと、あれほど命じたのに」

「……」

「指南はお前か、グレン」

「……処罰は受けます」

「愚か者」

　だが王は仄かに笑った。

　――定めだよ。

　またあの声がした。

「へぇ、女か」

　カーキッドは口笛を吹いた。

　カイン――オヴェリアは答えなかった。

「通りで剣が軽いわけだ」

　ヘヘヘと笑って見せるが、内心では。カーキッドはゾクゾクした。

（いい）

　空気が変わった。

「その砕けた剣で俺と戦おうって？」

　閉じ込められていた何かが放たれた。

　これはいい。この感触は。

「面白ぇ」

　この状況でその目をするか？　そんな目ができるか？

　この女、

（俺はこいつに会うために）

　ここに来たのか。

　――誰か剣をよこせ。カーキッドがそう叫ぼうとしたその時。

　わっという歓声が起きた。カーキッドとオヴェリアも、それを振り返った。

　王が、立っていた。

　オヴェリアは目を疑った。ハーランド王は病を患っている、杖なくして自らの力だけでは、もう立つことはできない。

　そしてその腕ではもう、それを持ち上げる事できないはずなのに。

　なのに王は剣を手に携えている。

　彼が持つのは一刀。生涯ただ一つの剣。

　――白薔薇の剣。

　彼はそれを、競技場に向けて投げた。

　悲鳴が起こった。

　剣は弧を描き、白い砂の大地に落ちた。

　カーキッドは動かなかった。ただ、ニヤリと笑ってそれを見ていた。

　オヴェリアはしばしそれを見、固まっていたが。

　カーキッドに背をさらし、歩き出した。

　急襲には絶好。だがカーキッドは動かなかった。

　オヴェリアが剣を取るのを見。

　それを抜くのを見。

　それが太陽を浴びて光るのを見。

　――悲しいまでに昂ぶる気配が、口元をほころばせる。

　もう我慢できない。いやむしろ笑う。「ははは」と声を上げて笑う。

　オヴェリアは剣を構えた。

　その柄に鮮やかに彫られていたのは。

　白い薔薇の証。

　これが、白薔薇の剣。

　思ったより軽い。

　いいや、それよりも何よりも。

（父上）

　これが、白薔薇の。

（母上）

　剣。

　――声を上げる、一刀、斬り結ぶ。

　斬撃。交わした音は、今までと違う。

　波紋どころじゃない、風圧を伴う。

　二刀目、脇からの突き上げ。

　カーキッドはそれを簡単に受け止める。弾き飛ばす。

　――運命をも、共に。

　だがそこにある、この国で最強の剣。

　腕力は圧倒的にカーキッドが上なのに。

　押し勝負、なぜ互角？

　弾き返す、カーキッドが間合いを取るオヴェリアはそれを嫌ってさらに詰め寄る。

　早い、早い。

　連撃のマルセを倒したそのスピード。

　疾風。いや、光。

　カーキッドの表情から、初めて、笑みが消える。

　押し勝負。もう一度その言葉が脳を貫いた刹那。

　消えた。

　足元に深く、腰を落としたオヴェリアが、カーキッドの懐へ入り込む。

　しかし頭上がガラ空きだ。脳天に入れようとしたその刹那。

　もう、遅い。

　一閃。

　薙いだ彼女の剣は、真一文字に空気を斬り裂いた

　黒い鎧は衝撃を見事に、吸い込んだ。

　カーキッドがここにきて初めて立ってられないと感じた。思わずついた膝。

　その額に。

　――近衛師団長シュリッヒを圧倒したその男に。

　突きつけられた、白い薔薇。

　３００人の頂点に立ったのは。

「定めか」

　王は呟く。その瞳には涙が浮かんでいた。

「陛下」

「……」

「あの剣は、私に似ているんじゃない」

　あの姿、あの技は、陛下がかつて振るった剣、そのものです。

「……」

　目を閉じる。聞こえてくる絶叫に近い大歓声。