私、神様ではないのよね
ユキナによって落とされたバスカヴィルは、近くの茂みの中に隠れていた。
致命傷はどこにもないがダメージが大きく、今は空を駆け抜けることすら叶わない。叩き落とされた場所から茂みまで、人々に見られながらも巨体をなんとか隠せる場所までやって来た。
だがもう、体力の限界。バスカヴィルは力なく倒れ、尽きる力に任せて眠ろうとさえしていた。
「ここにいたのね、ワンちゃん」
だが眠るわけにはいかなかった。目の前に、怨敵が現れたからである。
背中を覆い隠せるほど長い漆黒の長髪を揺らし、赤い虹彩は光を受けると恐ろしいほど怪しく光る。日に当たっていることを疑わしくさせるほど白い肌といい、まさに吸血鬼のような姿をした少女であった。
まず見た目で、
「あなたのご主人様はもういないわ。あなたは、言うなれば自由なのだけれど……」
炎を口内に蓄えたバスカヴィルの牙が、ユキナに迫る。だがユキナは避けようとせず、左腕を出してわざと噛ませた。
なんの武装もまとってなければ、特別な能力も施していない。
灼熱の牙が腕を貫き、骨を粉砕して噛み砕く。バスカヴィルの口から焼けた血が酷い臭いを発しながら垂れ落ち、その臭いがまた魔犬であるバスカヴィルの狩猟本能を刺激した。
が、ユキナはまるで平気な顔。泣きもしなければ喚きもしない。それどころかとても穏やかな目でバスカヴィルを見つめ、そしてバスカヴィルの頭に手を置いた。
「魔犬だなんて嘘っぱちね。ご主人様に忠実でお利口さんじゃない」
ユキナの手が、おもむろにバスカヴィルを撫でる。目を持たない魔犬に、果たしてこのときのユキナがどう映ったのか――
しかし次の瞬間、魔犬は思わず顎の力を抜き、口内で燃やしていた火焔を鎮火させてしまった。
先ほど殴られた鼻の頭に、落ちる雫。それが彼女の涙だと、気付いてしまった。
何故泣いているのか。その表情から、痛みから泣いているのだとは思えない。その表情は哀しみの中、感情は彼女の思い出の中へと飛び込んでいた。
その場で泣きじゃくり、ヘタリと座り込む。
それが先ほどまで圧倒的実力を見せ、魔犬の飼い主である無名の神をも敵にしなかった少女だとは、思えなかった。歳は二〇歳らしいが、容姿がまだ幼いので子供のように見えてしまう。
バスカヴィルは思わず、ユキナの顔色を窺う。やはりグチャグチャに変形するまで噛み砕かれた腕が痛むわけではないようだ。手首が真反対に捻じれ、傷穴だらけの焼け焦げた腕でも、器用に涙を拭っている。
ユキナは思い出していた。
自分が彼と別れることになったきっかけの事件を。
彼の愛犬が見つけ出した、死にそうな彼の弟。何故そうなってしまったのか、何故こんなことになってしまったのか。当時のユキナはわからなかった。
だがその後、ある人の陰謀を知った。ある人が、人間としてやってはいけないことをやったのだと知った。それを知ったユキナの父は言った。
人殺しの家の子になんか、用はない。二度と彼と会うな、と。
絶望だった。ユキナの胸にできていた湖から、水が抜け出ていった。虹は雷雲の中へと隠れ、雷が小さな体に真っすぐ落ちて来た感覚に陥った。
彼に会いたい。彼を励ましてあげたい。彼を抱き締めてあげたい。彼にキスしてあげたい。
彼を――愛してあげたい。
でももう、彼に会えない。弟が死んで、それが父の陰謀だったと知った彼。きっと自分以上の絶望の中に、叩き込まれていることだろう。
だから励ましてあげたい、助けてあげたい、抱き締めてあげたい、キスしてあげたい、そして――愛してあげたい。
だけどもう、二度と会えない。
会えない。
会えない。
会えない――なら……。
その後から、彼女の人生は血に塗れたものとなる。彼に会いたいという衝動から起こした事件によって、逆に彼から離れなければならないという皮肉を背負って、彼女は後を生きることとなる。
今だって会いたい。会って抱きしめたい。なんのしがらみもなく話して、愛し合って、できればそのまま二人だけの世界にいたい。
だけどそれは叶わない。
自分は罪を犯したのだから。彼が愛する妹を、この手にかけたのだから。許されるはずもない。
だけどもし、望んでもいいのなら。天の女王も、ただ望むだけの少女に戻っていいのなら――
「ミーリィィィ……ミーリィィィ……どこにいるの……? 会いたいよ……会いたいよぉ……」
あの日、自らが行動を起こす前、彼の屋敷で彼の愛犬に出会った。
その首輪を外し、鎖から解き放った。
あなたのご主人様は、もういなくなるわ。もう、ウートガルド家の犬じゃなくなっちゃうの……だから――どうか、遠くへ行って?
その言葉を理解したのか、彼の犬はその場からノソノソと去っていった。そして戻ってくることもなかった。これから彼の屋敷が、真っ赤に染まることに気付いたのだろうか。
もう年老いたおじいさん犬だったが、しかし頭はよかったから、多分野良のまま死にはしてないと思うが――
彼の愛犬と、目の前のバスカヴィルの姿が重なってしまった。体の大きさも違うし毛並みも違うが、しかしどことなく似ている気がしてしまって。
よく見れば彼の愛犬に似ている。唐突の衝撃が自らの中で跳ね返り、押し込められていた感情を刺激して、我慢できずに曝け出してしまった次第だ。
そんなユキナの心情を悟っていることはないはずだが、しかしバスカヴィルは今噛み砕いた彼女の腕をザラザラな舌で舐めた。そして高く、主人を思う忠犬のような声で啼く。
「慰めてくれるの? ……あなた、私と違って慰めるのが上手なのね?」
これも女王の策なのだろうかと、おそらく太公望がいれば思っただろう。しかしユキナは何も狙っておらず、本当に泣き出してしまってそれを魔犬が同情しただけなのだ。
「バスカヴィルの魔犬って、結局あの馬鹿に仕立てられただけの犬だものね? そうよね、忠犬のはずよ、思えば。そう、優しい子なのよね?」
涙を拭い、笑顔を作って見せる。そして勢いよく立ち上がると、潰されていない方の手でばバスカヴィルの頭を再び撫でた。
「あなた、私のところに来ない? もうあなたの主人はいない。あなたはもう、彼の犬じゃなくなるの。だからあなたは自由。選んでいいのよ?」
バスカヴィルは考えたのだろうか。しかし思ったよりも早く、彼は決断した。甘える声で啼き、大きな頭でユキナに擦り寄る。
「ありがとう、ヴィル。私、これから大会があるの。応援、して頂戴ね?」
元々、バスカヴィルを引き入れるつもりだった。しかし当初考えていたのは、女王としての力を見せつけて、力で屈服させるというものだった。
だが今回、彼女は自身も思わなかった同情という形で、バスカヴィルを引き入れたのだった。
ユキナはバスカヴィルの背に腰を下ろす。そしてそのまま、大会会場へと戻っていく。
巨大な黒犬の背の上で、羽虫が群がるような音を立てる黒髪の少女を見た人々は、目を疑ったことだろう。彼女のグチャグチャに変形し、焼け焦げた左腕が、元の美しく細い白腕に戻ったのだから。
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