ちょっと長くなってしまったわ?
バスカヴィルの火焔の顎が、ユキナを噛み砕いた――と仮面が思えたのは一瞬だけのこと。
そこにユキナの姿はなく、周囲を見渡してもユキナの姿はない。だが気付けば、ユキナは魔犬すらも気付かぬ間に魔犬の燃え盛る尾を触り、灼熱の毛並みを撫でていた。
「あったかぁい」
「バスカヴィル! 後ろ!」
前足で踏ん張り、後ろ脚を持ち上げて蹴り飛ばす。だがその脚を片手で止められ、今度は肉球を押されまくった。
前足だけで踏ん張っているバスカヴィルは、無理な姿勢を続けさせられてその状態から動けない。仮面がバスカヴィルの背を駆け抜けてその勢いのまま回し蹴りを繰り出し、それは見事にユキナの顔を打った。
が――
「は?」
ユキナはまるで動じていなかった。それどころか仮面の足はユキナの頬を潰すことすら叶っておらず、ユキナは仮面のことを見てすらいない。まだ肉球の感触を楽しんでいた。
再び歯を食いしばった仮面は、その四腕を連続で叩き込もうと振るう。しかしあろうことか、最初の一撃目を繰り出した同時に、見えない衝撃に吹き飛ばされた。
大気に爪を立てる形でなんとか踏ん張った仮面が見たのは、未だ肉球と戯れながら、もう片方の手を仮面のいた方に向けたままにしているユキナだった。
その手は何やら、デコピンをしたかのような形のまま固まっている。仮面は自ずと、視認できない衝撃の正体を見た。
「化け物か、てめぇ……!」
ただのデコピンが生んだ空弾で、飛ばされた距離はおよそ二〇メートル。その距離を自身の中の最高速度で駆け抜けて加速、四腕をすべて一点に叩き込むことを狙う。
その狙い通り駆け抜けて、ユキナに拳を叩き込もうとしたそのときだった。
ずっと肉球の感触に夢中だったユキナが、ようやく仮面へと向き直る。バスカヴィルを手首を振るだけの軽いモーションで地上に放ると、一瞬の中で右足を引き、そして仮面が拳を振ってくると同時にその右脚を全身を回転させた勢いで叩き込んだ。
四本の腕のうち二本が折れ、二本が木っ端微塵に粉砕される。粉砕されたのは金属の腕で、機械によって動く義腕だった。
だがうち二つは正真正銘の肉の腕、彼の腕だ。折れた腕から骨が突き出て、少々グロい。それで嗚咽を続けていたのは、仮面だけだった。
「腕っ! 俺の腕っがぁぁぁぁぁっ!!!」
「三割程度で蹴ったのだけれど……やっぱり下級の魔神だったわね。いや、本当に魔神として顕現したのはあのワンちゃんの方で、飼い主のあなたはおまけってことかしら? 底なし沼に沈んだおまぬけさん?」
「っ……っめぇぇ禁句だぞその言葉! 俺はバスカヴィル家の資産をすべてかっさらい! あらゆる貴族王族の宝をかっさらい! 俺のために使ってやるんだ! てめぇの家の資産も全部、俺のものだ! てめぇら貴族は大人しく、俺のために懐を肥やして俺に奪われてりゃいいんだよクズ共!」
怒りで頭が満ち満ちた仮面は、その仮面に隠されていても隠し切れないほど激昂し、自らの中で確立された理不尽な法律を咆哮する。
しかしそれがまた、ユキナの機嫌を逆撫でたのは事実である。
元は王国の最高位貴族だった過去。毎日が、命を狙われる危険性を伴った時間。
毒殺されぬように、神の毒すらも服用し、苦しみもがいて抗体を作った日々。
貴族としての
人生なんて、楽しくなかった。貴族でいて、嬉しいことなど何一つ。王様と話したことなんて、王妃様に抱き上げられたことなんて、なんの自慢にもなりやしない。
しかし自分は、最高位貴族の一人娘。貴族の座を降りることなど叶わず、国のために人生を捧げることが約束されていた。
そんな人生に、唐突に降り注いだ雨。初めはただの悪天候だと思っていた。ただ進む道が泥に変わるだけなのだと卑下した。
しかしその雨が、空に虹をかける恵みだったとすぐに知る。
婚約者だと言われて紹介されたあの日、まだ幼い彼に一目惚れしたあの日、彼女の中にあった心の空洞を満たし、美しい波紋を生む水面を持つ湖が出来上がり、空にかかる虹を鮮明に映したのだ。
だが今、その湖に土足を入れられた気がした。湖が、泥で穢れた気がした。
目の前の汚物から発せられた声に、ユキナ・イス・リースフィルトの世界が穢されてしまった。ユキナ・イス・リースフィルトの宝物が、彼が穢れてしまった気がした。
――いや、穢された。
彼女にとっての財産はもはや彼だけであり、彼を狙う敵はすべて――
「なんだ……ぁ、ぁぁ……」
去勢も虚栄も張れなかった。目の前の彼女と、その彼女が呼び出したのだろうものを見れば。
赤い瞳は金色と混ざり合い、燃え盛る金が炎を照らしたときのような色に変わる。魂の力は波動を生み、小さな後姿を包む黒髪が波動を受け、光沢を放ちながら揺れ動く。
それと同時、彼女の頭上に現れたのは巨大な青眼。それが眼なのだと、仮面は気付くのが遅れた。何せ巨大すぎて、その瞳孔だけで真下のドーム状のフィールドと同じ位あったからである。
「“
【お待ちください、ユキナ様】
脳内に声が響く。それはこの世界を保つため、何かしらの手を打っているはずの太公望だった。
【それは世界を滅ぼす天の牡牛。それで闊歩されては、この世界は持ちません。あなた様の目的が、果たせなくなります】
【私の宝物を! 私の財産を! 私のミーリを穢そうとする賊を見逃せというの?! こいつは……この愚か者は私の最大戦力で踏み潰さないと、気が済まないわ! 止めないで太公望!】
【落ち着いてください我が主よ。あなたの実力ならば、その程度の賊小指の先で――ましてや天の女王の能力なしでも踏み潰せましょう。ここは手早く、かつ手軽く済ませてしまうのが最良かと。女王としてではなく、ただ一人の娘として潰す。敵にとってこれ以上の屈辱はありますまい。必ずやあなた様の力を恐れ、ひれ伏し、落ちた地獄であなた様の武勇を語ることでしょう】
静かに落ち着きがあり、そして重く響く声で並べられた言葉は、熱せられたユキナの頭を冷やす。瞳は純粋な金色にまで戻り、舞い踊っていた髪は力を失って垂れ下がる。
そして同時に天上に現れた巨大な青眼はゆっくりと閉じられ、遥か彼方へと消え去った。
仮面はその光景に恐れ、全身を汗で濡らす。その汗で体が冷えていることも、未だ腕が折れたままなのも忘却し、目の前の少女がただの少女に戻るのを見ていた。
「そうね……ごめんなさい太公望、冷静ではなかったわ」
【賊に自らの宝物を毒手で穢されれば、当然の激昂にございます。どうかお気に留めぬよう。そして、速やかに敵の排除を。牡牛の登場で、皆あなた様に気付き始めました】
確かに下が騒がしい。今までは気配を消していたために気付かれることなどなかったが、さすがに牡牛まで気付かせないのは無理だ、規模が違う。
故に上空に起こった異変に気付き、皆が空を見上げてしまったが故に、たった今牡牛を退場させたことによる反動で気配がわずかに出てしまったユキナは、見つかってしまっていた。
無論、また気配を消せば自分は問題はない。しかし目の前の敵はそうはいかないだろう。生憎と、気配という自身の存在を証明するものを完全に従属させ、消し去るなんて高度な芸当ができるようには思えない。
故にここは早期決着が望ましいのだが。ユキナはここで、この世界での本来の目的に立ち返った。
「ねぇあなた、その腕治してあげるから、存分にかかって来てくれない? 体がなんか、鈍っちゃいそうなのよね?」
「な、何……っ!?」
「どうせ、高速のどころか治癒能力すら持ってないんでしょ? ただの一小説の一話の殺人者が、そんなことできるわけないものねぇ? あの犬の方がまだそれできるでしょうに」
「てっめぇぇ! どれだけ俺を侮辱すれば気が済むんだよ!」
「侮辱? それはあなたが先でしょう? 私の財産は、すべて奪われるためにあった? あなた程度に奪えるような安い財産、一ミリ単位も持ってないわ! 舐めないでくれる?!」
仮面はまた、軋むくらいに強く歯を食いしばる。それに対してユキナはフッと深呼吸をすると、全身に溢れている力――霊力を、空中に立つために使っているもの以外を封じ込めた。
瞳の色が、元の赤へと戻る。
「ハンデをあげる。私は神としての能力を一切使わない。膂力はすべて人間のそれに一定量の霊力ブーストをかけたもの。言っちゃえば、ただの女の子の力、私の力よ」
「神様頼りのガキが、神の力なしで俺に勝てると思ってるんのか、あ”?!」
「そう思うのなら来れば? 大の大人が、まさか威勢だけで来ないなんてことはないわよね? 強い言葉を使うなら、わざわざ勇気に背中押されないでも覚悟して来なさい」
指を数度曲げ、挑発する。
仮面はついに食いしばっていた歯を数ミリ噛み砕くと、力の限り咆哮した。
「バスカヴィル!!!」
炎を噛み締める魔犬が襲い掛かる。神の力を解除して、明らかに戦力が低下したユキナを恐れる理由もなく、魔犬は容赦なく跳びかかった。
だが次の瞬間、ユキナは魔犬の鼻に手刀を落とす。すると鈍い音がその場だけに響き、魔犬は鼻血を流しながらフラついた。生物としての急所を的確に突かれて、悶絶する。
その隙に魔犬の大きな背に跨ったユキナは自身の手を握り締め、そのままその拳を叩きつけた。体長七メートルクラスの魔犬が、時速五〇キロもの速度で地面に叩きつけられ、気を失う。
魔犬があっさりと退けられて、仮面は驚きを禁じ得ない。ずっと食いしばっていたために擦り切れた歯の欠片を落としながら、仮面は呆然と口を開けて自失していた。
「あとはあなたね」
一歩、ユキナが近寄る。
一歩、仮面が退く。
一歩、ユキナが踏み出す。
一歩、仮面が唾を飲み込む。
一歩、ユキナがまた迫ろうとしたそのとき、仮面は去勢を張った遠吠えを発しながら折れた腕で襲い掛かった。
回し蹴りからの裏回し蹴り。折れた腕を振り下ろし、さらに振り上げ、踵落とし。肩を突き出しての低姿勢タックルから、折り返して飛び膝蹴り。
ここまでの一連動作を、仮面は一三秒の中に凝縮して繰り出す。
それをユキナはことごとく受けた。
回し蹴りと裏回し蹴りで回り、腕の一撃で頭を揺らされ、さらに踵落としで揺らされる。そして低姿勢タックルによって上空に吹き飛ばされ、落ちて来たところを跳び膝蹴りで迎えられて腹に喰らい、そのまま共に地面へと落ちていく。
そのまま地面に叩きつけられ、勝負は決するなどと思ったのは仮面と、これを見た周囲の一般人。しかしユキナからしてみれば、ただのサービスに過ぎなかった。
あとで実力の差を骨で痛感するための、出血もしないただのサービスだ。
腹に減り込んでいる膝を掴んで腕を張り、距離を少しだけ開けると、そのまま全身を回して離脱。地面に叩きつけられるのを回避する。
地面との衝突をなんとか回避した仮面は再び飛び上がり、空高く跳んだユキナを追いかける。だが唐突にユキナが急ブレーキをかけ、さらにUターンしてきたのに反応できなかった。
故に喰らう。
回し蹴りから裏回し蹴り。手刀振り下ろしから振り上げ。さらに踵落とし。低姿勢のタックルの代わりで放つ正拳突きから、そして跳び膝蹴り。
まず回し蹴りで吹き飛ばされ、先回りされたユキナの裏回し蹴りに違う方へと飛ばされる。
さらに先回りしたユキナの手刀に折られた腕を斬り落とされ、振り上げを受けてまた別の方へ。
待ち構えていたユキナの踵落としを喰らい、さらに別の咆哮へ。そして片脚立ちの体勢から繰り出された正拳突きによって、回し蹴りを喰らった方向からさらに高い地点へと飛ばされる。
そして最後に大気摩擦によって明けの流星と化した渾身の跳び膝蹴りが、仮面の腹を撃ち抜いた。そのまま地面へと、まさしく流星のように滑空し落ちる。
ずっと上空を見ていた人達は、驚いたことだろう。青眼が現れた空に次に現れた、星のマークを。
仮面が蹴られ、殴られて飛ばされた際に生じた摩擦熱がユキナの霊力と混ざり合い、金色の軌道線を残して星を描いたのだ。そしてその星の調度中央を射抜くように、流星が通過していったのである。
人々は大会のイベントの一部とすら、思ったことだろう。上空四〇〇〇メートルの戦いは、人の肉眼では映らないのだから。
そのあとすぐさま起こった煌く光と、音を殺した衝撃が広がったことに気付くことなく、人々はただ青空に輝く光に射抜かれた星を見上げ続けていた。
「お疲れ様でした、ユキナ様」
「えぇ。あなたもお疲れ様、太公望」
大会のドームからもそれを囲う屋台の群れからも遠く離れてしまったユキナは、深い森の中でほんの少しだけ掻いた汗を拭っていた。
足元には彼女を中心に大きく広がったクレーターと、その中心で大口を開けて白目を剥き気絶している仮面の割れた無名の神がいた。
迎えに来た太公望も、この惨状には少し言葉を選ぶ。
「神としての力を使われたので?」
「うぅん、これが私の人間としての力よ? まぁ、私の霊力はすっごい多いから、ブーストされてる力がすごいのだけれどね?」
頼もしいと思う反面、恐ろしいと強く思ってしまう。我らが大将が、人の力だけでも神に近い怪物であることが証明されたわけだが、これが暴走した際の止め方がわからなかった。
彼女が言葉も通じない、理性も蒸発した狂戦士でなかったことを心の底から幸福に思う。
「その者、殺してはいないのですね」
「えぇ、一応は神様だからね。まぁお菓子程度の摂取量でしょうけど、霊力の補充にはなるかもしれないわ。太公望、お願いできる?」
「御意。そういえばもう一人――いえ、もう一頭はいかがしましょう」
「バスカヴィル家の魔犬ね? それについては、考えがあるわ。任せて」
「では、お任せいたします。後ほどスサノオ様が様子を見に来られるかと」
「わかったわ。適当に言っておいて?」
「御意。それでは私もまた、ユキナ様の勝利を楽しみにしております故、また参ることといたしましょう」
「ありがと、太公望」
名無しの神の襟を掴み、太公望はその場から消える。
さてと、と向き直ったユキナはそこからなんの力も使わず、徒歩で戻っていった。
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