第39話 禁忌2 魔人《マグ》


 だが、そんな心配を振り切るように、ひしゃげた馬車の歪んで開いた扉から颯爽とクレアは飛び降りた。高いヒールを石畳の地面にこすらせて、見事に着地したのはいいが、乗ってきた馬車は限界を迎えて、御者を巻き込んで、崩れ去った。


「……どんな運転したら、こんな状態に……?」


 崩壊に巻き込まれた御者はうまく受け身を取れたのか、軽症で済んでいるが、もう修理は不可能だろう。庶民ではできず、国の王だからできる暴挙にメルクは目を剥くが、すぐに視線をヤコブの元へ向けた。


「メルク様、あの黒雲の様子とこの雨、そして何より先ほどの轟音は何ですか?」


 クレアの声音は真剣そのもの。ただ知りたいというよりは知らなければいけないと言ったような王女の使命感のようなものが感じられる。メルクは眼前の状況に集中しているため、目を合わせることはないが、ノールックで答えた。


「……あぁ、おそらくだが全てあいつがやらかした。教会の使徒のヤコブだとか言ったかな」

「使徒!? そんなものが、大国に攻め込んで……」


 真実を知ったクレアは騎士達の目も当てられない様子を窺い見て、青ざめていった。だが、それ以上にメルクの表情は曇っていた。


「……そして、アナと協力して一度捕まえて、ほふった。……が、おりになっていた魔法の鎖を強引に破って、そして、今あんな姿でこちらに近づいてきている」


 目をやれば、およそ人間とは思えない半身を獣のように変化させたヤコブだったものが、おぞましい形相で歩んでいる。遠くからでも分かる強圧的な風格アウラ。それをメルクが鋭く睥睨へいげいしているのが何より脅威であることの証拠であった。


「……魔法の鎖が破られるなんて、ありえない。あれはもう……」


 立ち上がるアナも何か思い当たる節があるようだった。それを、メルクが解答し、続ける。


「人間じゃない。……あいつは、人間を辞めた。あれは魔人マグだ」

「……魔人マグ。聞いたことがあります。フロンティア最大級の禁忌を犯した者がなる人間から魔獣になった姿。その命は短命で、尽き果てるまで、破壊の限りを尽くすという」

「そう。詳しくは見えていないが、何かを光るものを口にしていた。あれが、琥珀アンブルなのだとしたら、禁忌を犯して、魔人マグに変わったということだ」


 ——琥珀アンブル。それは、魔獣マギカの中にあるとされる精霊のエネルギーの欠片。長年生き永らえた魔獣マギカ特に強力な個体に存在する琥珀アンブルは、その個体が強いという証であり、本来触れることのない精霊のエネルギーを固形物として扱うことのできる貴重な道具ツールだ。


 メルクの作る魔法具マジックアイテムの中にも、これを加工し利用しているものがあるほど、用途は多岐にわたり、使い方が正しくあれば、とても価値のあるものだ。だが、ある一点、絶対にやってはいけないことがあった。


「……琥珀アンブルを口にすること、それは人間を辞め、精霊に近づこうとする行為。絶対に犯してはいけない禁忌です。もし、それを実行したというのなら、あれはもう人ではない……そういうことですね」


 クレアはメルクの考えを理解し、そう述べた。メルクは信じられない様子ではあるが、小さく頷き肯定する。


魔人マグ化した人間は、琥珀アンブルを元々宿していた魔獣マギカに近い存在に変化すると聞いたことがある。それを信じるなら、あの姿形は鋭い爪と強固な茶黒い皮膚を持つ魔獣マギカ。それでいて、かなりの強さを誇るとすれば……アルゴリスの谷のあるじってところか」

「……ゴ名答。コレハアルゴリスノネメアカラ拝借シタ物ダ」


 およそ人間とは思えない声音。おどろおどろしくかすれたその声は確かに聞き取れる範囲で、遠くからメルク達に響いた。


「会話できている。まだ、人間の部分が残っているのか!」


 魔人マグ化した人間は人間的部分を全て琥珀アンブルに支配される。他者との会話など、全くもって不可能であるはずだが、ヤコブはそれを為していた。


「……主ノ言葉ヲ信頼シテヨカッタ。琥珀アンブルヲ加工シテ、食スル量ヲ制限スレバ、人間性ヲ少シノ間ハ保ツコトガデキルノダ」


 メルク達は己の知らぬ知識を述べたヤコブに驚く。だが、現にこう話せている事実と、本来体全体が変化すると聞いていたものが、体半身で収まっているのを見ると、それが事実で違わないとわかった。


「……マスター、本当にやばいよ。あいつ」

「……あっ、ピッド様」


 ピッドっという名のメルクとクレアにしか見えない存在に、アナは少し顔をしかめた。


「……あぁ、本当にまずい。ただの魔人マグならば、思考がぶっ飛んでいるから、まだ勝機がある。だが、奴の冷静な思考回路が残っているというのなら、話は別だ。単純な強さに加えて、効率的で戦略的な思考回路。隙が無くなってしまう」


 脳内会話も忘れて、メルクはそう伝える。


「……それに、元の魔獣マギカもかなりきつい臭いだ。相当エネルギーを蓄えていたんだろう」


 ピッドも付け加えるように答える。猫のようなその可愛らしい表情は、いつしか凛とした精霊というだけの顔立ちに変わっていた。


「ソレデハ、主ノ命ニ従イ、破壊活動ヲ再会スル」

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