第38話 禁忌1


「……なんだ? 急に天候が……」


 異変にメルクが呟くとポツポツと雨が降り始める。それが、何かの予兆であったことはすぐにメルクには理解できた。


「……主よ、私も主の一部となります。卑小ひしょうな私をどうかお許しください。そして、主の慈愛の元、お導きくださることを願います」


 ヤコブは杖を持たぬ手をゆっくりと懐へ動かす。鎖が腕を引き千切らんとするほど絡まり合い、猛烈な激痛と出血がヤコブを苦しめるが、全くそれを構うことなく、腕を動かす。


「……お兄様。あのお方、魔法発動下の中で、動いております。この魔法で、そんなことありえないはずですが……」


 アナが異常事態に顔を曇らせる。それは、メルクも同じであって。


「……あぁ。そんなことしたら、体が悲鳴を上げて、骨折どころじゃ済まなくなるはず。それにどてっ腹に穴が開いてんのに、こうも動けるなんておかしい。……あいつは本当に人間か?」


 メルクであっても見たことのない、執着のような亡念のようなものに取り憑かれたそのおぞましい雰囲気。メルクの頬に冷や汗が伝う。


 ヤコブは懐から小さな石のようなものを取り出す。体が悲鳴を上げて、だがなお一切構うことなく、それを口元へと運ぶ。黄金に光るその欠片は刃物で半分に割ったような半月状の形状をしており、その煌めきが妙に禍々まがまがしく思える。


 メルクやアナからはその煌めきが詳しくわからないけれど、何かを手にしているのが目に見えた。とはいえ、それが何かわからない以上、手を出すのはできなかった。


 ヤコブが口にそれを含む。——同時、魔法の鎖に反抗したことにより、ヤコブの腕が文字通り千切れ、鮮血が鎖と地面に飛び散った。


 だが、ヤコブは苦痛にあえぐどころか、狂気的な笑みを浮かべて、その欠片を砕き、飲み込んだ。欠片が胃に消えた、その実感を噛み締めたヤコブはにたりと笑い、そして——。


「……ぐおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」


 大咆哮。それは、人の叫びとはかけ離れた獣の砲声だった。紛れもなくヤコブの口から、腹から、解き放たれたその声は大気を揺らし、黒雲を引き寄せるようなエネルギーを内包しているようにすら感じる。事実、彼の声は雷雲を引き寄せ、雨と雷を降らした。


「……何が起きているのですか?」

「……あいつ、もしかして……」


 問いかけられたメルクの脳裏には想像しがたい可能性がよぎる。あまりにも信じがたい妄想と言った方がよいと思う可能性。……だが、それは現実だと目の前の状況が知らしめた。


 絶対に抜け出せない魔法の鎖。拘束されるヤコブは行動不能。それが間違いではないはずなのに、猛烈に不穏が襲う。そしてそれは、紛れもない事実へと変わった。


「……オォォォォォォォォォォォォォ~~~~~!」


 再度咆哮。魔法を展開するアナにその異変は、オラクルの揺らぎと魔力受容体レセプタの逆流するような妙な感覚によって、伝えられた。


「……お兄様、おかしいです。鎖が悲鳴を上げているような気がします。……お兄様、本当にまずいかもしれない」


 それは、現実であって遠くのヤコブを見やれば、咆哮を上げながら、鎖を手で掴み、強引に引き千切ろうとしていた。

 そして、その鎖を握る手は人間のそれとは遠くかけ離れており、落ちたはずの腕から、何故か生えていた。鋭い爪と強固な肉質と硬質な皮膚。茶黒いその色はヤコブの腕とは全く異なり、まさに魔獣マギカと例えた方がしっくりとくる。


 その変化は腕だけでなく、ヤコブの左半身全てに及んでおり、頭の頂点から足先に至るまで、腕と同じの皮膚に包まれ、大穴が開いていた腹部はその皮膚によって、強引に塞がれて、流していた鮮血はいつの間にか止まっていた。


「……あいつ、まさか……本当に」


 想像しがたい現実に呆気にとられたメルクがそう呟いた瞬間、強引に魔法の鎖は引き千切られた。絶対が、見るも無残に破られた。


「……きゃぁっ!」


 逆流した魔法のエネルギーの感覚に、アナは転倒した。……と。


「……メルク様~! アナ様~!」


 さらに、別の声。メルクとアナにとっては馴染みのあるその清らかな声は徐々に二人の元へ近づいている。


「……クレア、来てしまったのかよ!」


 メルクは焦った。魔法を使えないクレアに自衛なんてできない。この脅威からかばいきることができるだろうか、と。

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