第36話 心安らぐ彼女の香り(下)
西風亭のレストランからは、お客さんたちに乗せられた幸村の陽気なバイオリンの音色が響き始めた。これはカリブの海賊をイメージした映画のメインテーマだ。お客さんたちからの歓声と手拍子が鳴り止まない。
「どうやら煽てられて幸村がアスリンを待たずに演奏始めちゃったみたいだ。アスリン、あいつが暴走しないかよく見張ってもらえるかな?」
「えぇ、もちろん。ハルもイロハとフロルのところへ行ってあげて」
「わかった。……って裏口から出てどっちへ行けばいいんだ?」
「左へ行って突きあたりをまた左。歩いて一分もかからないからすぐわかると思うわ」
「サンキュー、アスリン!」
「どういたしまして」
アスリンは俺に手を振ってからレストランに向かった。もうピークタイムが過ぎているようで、厨房はそれほど慌ただしくなさそうだ。カウンターに立つミハエルさんがアスリンを見送る俺に気がついて、ワインが淹れられたグラスを二つ持ってきた。
「まだ仕事中だからフロルの分はないけど、ハルとイロハで飲んでくれ。西風亭特製のスパークリングワイン、俺からの奢りだ」
未成年ということもあるし酒の提供に少し
「ありがとうございます、ミハエルさん」
「どういたしまして。たくさんあるから、足らなければ遠慮せずに言ってくれよ」
俺はミハエルさんからワイングラスを受け取ると、厨房裏の勝手口をミハエルさんに開けてもらって外に出た。裏路地は街灯がないため、周囲の家から漏れる明かりが頼りだ。
冷えたワイングラスを両手に持った状態で、暗闇を歩くことに抵抗があった。それでも、アスリンの案内通りに進むと、すぐに西風亭のハウスワイナリーを見つけた。ワイナリーは明かりが灯っているので、ワイナリー前の空地はそれほど暗くない。その空地で彩葉とフロルが並んで素振りをしていた。ノルマが達成できたのか、俺が到着すると二人は素振を終わらせた。
「遅いぞ、ハルー!」
俺はフロルに声を掛けられた。何だかすっかり呼び捨てにされている。この少年にとって、俺は友達的な立ち位置なのだろうか。
「ごめん、ちょっとアスリンやミハエルさんと話し込んじゃってさ」
「どうしたの、そのワイン?」
彩葉は俺が両手に持つグラスが気になったようだ。
「ミハエルさんからだよ。西風亭特製のスパークリングワインだってさ」
「ちぇっ、オレのはないのかよ……」
「フロルも喉が渇いたでしょう? 一緒に戻って飲み物もらおうか」
「大丈夫、オレはまだ仕事が残っているし先に戻るよ。イロハ姉ちゃん、また明日も一緒に稽古していい?」
「もちろん! フロルは剣の振りも綺麗だし素質ある。きっと頑張れば強くなるわよ」
「本当?! じゃ、オレ本気で頑張る! じゃ、また後でー」
フロルは彩葉にそう言うと走って西風亭へ戻って行った。そんな二人を見ているとまだ出会ったばかりなのに、ずっと一緒に生活している姉弟のように感じた。
「まるで弟みたいだな。フロルは最初から彩葉を怖がってなかったし、凄く素直でいい子だな」
「うん、あんな弟が欲しかったなぁ」
走り去っていくフロルの後ろ姿を目で追いながら彩葉は言った。
「なんだよ、弟が欲しかったのか?」
「そうね。ちゃんと言うことを素直に聞いてくれる弟ってやっぱりいいなって思うよ。ところが私の知っている弟は、全然言うこと聞いてくれなかったし、意地っ張りだったし静電気が酷いし……」
「ちょ、ちょっと待て! それって俺のこと言ってるのか?」
「あら? 身に覚えあったりするの?」
彩葉は悪戯っぽくにやりと笑いながら俺に言った。誕生日は俺の方が一月早いし、どちらかと言えば、俺が双子の兄くらいのつもりでいたので拍子抜けだ。
そう言えば六月十七日は彩葉の誕生日だ。今日がアルザルへ来て六日目だから今日は六月八日……のはず。つまりあと九日後か……。
プレゼントになるような物が売っている店は、アスリンに聞けば詳しく教えてくれるかもしれない。
「何だかなぁ……。俺はどちらかと言えば、彩葉が妹だと思っていたけど……」
「はぁ? 妹? 私が? ぜっっっっったいにあり得ないでしょ?」
絶対をそこまで強調されると何も言えなくなる。辺りが薄暗いせいか、彼女の真紅の瞳が夜行性動物のように光っている。
面倒臭いし、この際どっちでもいいか……。
「ま、まぁ、とにかくさ。ミハエルさんからのワイン、頂こうぜ?」
「……そうね。でも、運動した後にワインって……。大丈夫なのかな?」
「俺も少し微妙な気はするけど……」
俺は腑に落ちなそうな顔つきの彩葉にグラスを一つ差し出す。彼女は俺が差し出したグラスを受け取った。それから俺たちは、西風亭のワイナリーの間口にある段差に二人で腰を下ろした。俺は乾杯をするために手に持ったグラスを彩葉に向けて傾けた。俺の意図を理解した彩葉は、俺にグラスを向けてそっと差し出した。
「乾杯!」
二人の声と差し出されたグラスが重なった。
一口飲んでみると想像以上にワインの味は美味しかった。ほんのりとした酸味と透き通るような甘さ。それに加え、シュワッとする発泡性もあった。酒のことはよくわからないので、スパークリングという響きがピンと来なかったけど、飲んでみてその意味がわかった。
口の中に広がるワインの甘さを堪能した後に、ゴクンとそれを飲み干した。すると、喉や胃の辺りがカーッと熱くなるような感覚を感じた。これがアルコールっというやつなのかもしれない。
「凄く甘い! 美味しいね、これ!」
彩葉もワインを美味しく感じているようだ。
「うん、美味しいな。俺、初めて酒を飲んだけど胃の辺りが熱くなるというか……」
レンスターではアルコールに年齢制限がないらしいけど、俺は初めての酒に抵抗があった。きっと彩葉もアルコールは初めてのはず。まだ飲んだワインの量は僅かだけど、ワイナリーのオーブの光に照らされる彼女の頬が、ほんのりと赤くなっているのがわかった。
「私だって……お酒を飲むろは始めれ……よ……」
おいおい、もう酔っているのか? 呂律が回ってないじゃないか……。
そう言うと彩葉は、何を思ったのかグラスに入った残りのワインを一気に飲み干してグラスを置いた。グラスのサイズ的に三百ミリリットルはあると思う。
うわ……。一気に行きやがった……。
「おい、大丈夫かよ? なんて飲み方してるんだよ、まったく。さすがに一気は……」
「らいりょうぶよ。喉かわいれらから……」
全然、言えてねぇ……。
「おまえなぁ……。ほら、フラフラしているし気をつけろって」
「ちょっと、はる? おまえっれ、言うなぁ!」
彩葉は昔からお前呼ばわりされることを毛嫌いしていた。半分呆れていた俺は、幸村を相手にした時のように『おまえ』と彩葉に呼んでしまった。呂律がまわっていないけど、そのことに文句が言いたかったのだろう。立ち上がろうとした彩葉が、フラついて倒れそうになったので、俺は咄嗟に彼女を支えた。
「お、おい……。まったく、大丈夫かよ?」
「あれぇ……。おかしいら……」
「ほら、もうまともに歩けそうにないし、俺が背負ってやるから掴まれって」
俺も飲みかけのグラスを彩葉が置いたグラスに並べて下に置き、彩葉の前で腰を落として背中を差し出す。彩葉は無言で俺の肩に寄りかかり、両腕を俺の首元に回してしっかりと掴まった。
「ごめん、はる……。わらし、あまりお酒強くなかっらみらい……」
「そんなこといいって。今日は一日歩き通しだったし、彩葉はずっと寝てなかったんだから疲れてたんだよ」
俺は彩葉を背負って立ちあがる。彩葉の体を抱えるのは、この世界へ来た時以来だ。ドラゴニュートの特徴なのか、相変わらず異常な軽さだった。足元にグラスを二つ残したままだけど、彩葉を西風亭に送り届けたらまた取りに戻ればいい。俺は彩葉を背負ったまま西風亭を目指して歩き始める。
「ハロルド……」
俺の右肩に顔を埋めた状態で彩葉は俺の名前を呼ぶ。
「何だよ、彩葉?」
「だいすき……」
「はぁ……、次は酔ってない時に言ってくれよな。でも彩葉、俺も大好きだぜ」
俺は横目で彩葉の顔を覗いてみると、彼女はすでに目を閉じて寝息を立てていた。彩葉の寝顔はとても穏やかだ。ドラゴニュートとして目が覚めてから、ずっと眠れずに一人で起き続けていた彼女は、ようやく眠ることができたようだ。もしまた夢の中で、彼女が黒鋼竜ヴリトラに再会できれば、色々な話を聞けるだろうか。
まぁ、この酔った状態じゃ無理か……。
どうせ長い旅になるだろうから焦る必要はない。
裏路地を歩く俺の歩調に合わせて、彩葉の黒髪が揺れて俺の首筋を撫でる。少しくすぐったい感じもするけれど、心安らぐ彼女の香りがとても心地良かった。
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