第64話 私が支えになれるなら

 いつもと同じグラス一杯のワインを眠る前に飲んだため、私の頭の中はクルクルと回転するようにボーっとしている。しかし、今夜はなかなか寝つけなかった。私が眠るために必要なアルコールの量は、その時の心境で変わるのかもしれない。


 ハルが雷天使ラミエルの末裔……。衝撃的な彼の秘密は、あくまでも彼自身が語った推論だ。ただ、理にかなう点が多いことから、本当にそうなのかもしれない。それが事実なら、新たな疑問が次から次へと湧いてくる。


 どうして、地球やアルザルの大昔の伝承が、今になってハルの身に現れたのだろうか。彼の家系に係わるのなら、彼の家族はどうなのだろう。アリーからハルのような静電気を感じたことはなかった。けれど、実の姉弟なのだから、遺伝子的な条件は彼と同じはずだ。


 東京にいるアリーは大丈夫かな……。


 それを確認することさえできないことがもどかしい。


 それに、ロレンスさんはでは、ラミエル以外の天使たちもいることを言っていた。私たちの他にも、突然地球へ現れた帝国軍に、アルザルへ連れてこられた人がいたりするのだろうか。そもそも、帝国や天使の目的は何のためだろう。


 本当に久々に眠れない夜だ……。隣のベッドで眠るアスリンは、小さな寝息を立てて、気持ち良さそうに眠っている。レンスターに到着するまで、眠る方法を知らなかった私は、退屈な夜が好きではなかった。ハルは私に気を遣って、いつもそばにいてくれたけど、彼が眠ってしまった後の一人の時間がとても苦痛だったことを思い出す。


 完全に目が覚めてしまった私は、ベッドから降りて窓辺に向かった。カーテンを捲ると空には惑星アールヴが、幻想的に夜のレンスターを青く照らしていた。窓の下を見ると、西風亭の周りがまだ僅かに明るい。きっと、ミハエルさんが厨房で仕込みをしているのだと思う。


 さすがに徹夜は嫌だなぁ……。レンスターへ着いた日のように、一気にワインを飲めば眠れるかな……?


 私は、眠るためのワインをいただこうと決心し、ミハエルさんがいる一階のレストランへ向かうことにした。下着姿のままではまずいので、雨期に備えて購入した防寒と雨具を兼ねた外套をクローゼットから取り出す。そして下着の上からそれを羽織り、眠っているアスリンを起こさないように、そっと彼女の部屋を出て階段を降りた。


 二階の客室は、灯りが点いておらず真っ暗だ。さすがにロレンスさんやハルたちは、明日に備えて休んでいるのだろう。そう思いながら、私は西風亭のレストランまで階段を降りた。すると、そこには、すでに眠っていると思ったハルが、カウンターに座り一人でワインを飲んでいた。


 レストラン内の大きな照明は消されているため薄暗い。小さな光のオーブが入れられたガラスの容器が、ハルが座るカウンターの上に置かれているだけだった。厨房の方は、いつものように明るく、中から包丁で食材を切る音がリズミカルに聞こえてくる。階段を降りる私の足音に気づいたハルが、驚いた表情で私に声を掛けてきた。


「彩葉、どうしてここに? 今夜はワインを飲んでも眠れなかったのか?」


「そうなの。何だか眠れなくて……。ハルこそどうして?やっぱり眠れないの?」


 私はハルに答え、私からも彼に尋ねた。答えなんて、本当は聞かなくてもわかっている。突然、自分が天使の血を継ぐ者と言われても、いきなり信じられないだろうし、受け入れることもできないと思う。それは、ドラゴニュートとして目が覚めた時、私も同じことを感じた。私には彼の不安が痛いほどよくわかる。


「色々と考えていたら、何だか寝つけなくてさ。彩葉が眠れないのは、俺が注いだワインの量が足りてなかったのかな?」


「ううん、いつもと同じ量だったよ。眠るまでに色々と考えると、アルコールがリセットされちゃうのかも。だからもう一杯だけいただこうかなって」


 ハルに答えながら、私は彼の横へ移動した。彼は、私の答えに苦笑いをしつつカウンター上のグラスを一つ取る。そして、大きなジョッキの中のワインを、手に取ったグラスに注いで私の前にそっと置いてくれた。


「ありがとう」


「どういたしまして。このジョッキのワインは、自由に飲んでいいってミハエルさんが言ってくれてさ。彩葉がさっき言った考えごとって、俺のことだよな? 心配掛けてごめん。あの話はあくまで推論だし、仮に事実だとしても俺は俺のままだから大丈夫。心配してくれてありがとな」


「うん。悩むことがあったらいつでも私に相談してね。私が支えになれるなら、ハルのために何だってしたい。ハルは一人じゃない。だから、一人で背負い込もうとしないでね」


 ハルは、私の言葉にコクリと頷き、ジッと私を見つめた。彼と目が合う度に、鼓動が速くなり胸が高鳴る。私が『恐怖』の代わりに感じる、ワクワクするような、あの胸の高鳴りと違う。温かくて優しい気持ちになれる、そんな胸の高鳴りだ。


「ありがとう、彩葉。その言葉で十分救われるよ。俺は一人じゃない。俺には彩葉がいる。幸村やアスリンだって力になってくれる。これって凄く幸せなことなんじゃないかって思ってるんだ。だから、彩葉。彩葉も一人で背負わずに俺を頼ってくれよな」


「うん。私もあの夜、ハルが言ってくれた言葉にどれだけ救われたか。本当に嬉しかったんだよ」


 満天の星の下で、ハルは私のことを大好きだと言ってくれた。そして、私もずっと心で想っていた彼への気持ちを伝えた。あれから約一ヵ月が経ったけど、こうして二人でゆっくり話すのは、野営の時以来かもしれない。


「何だかこうして二人で話すのって、久しぶりな気がするな。レンスター入りする前の日の晩、二人で海を見ながら……、以来かな?」


「そうだね、私も今、同じこと考えていたところ。あれから一ヵ月。早いね……。随分と昔のことのように感じるなぁ」


 ガラスの容器に入れられた、光のオーブがゆっくりと上下に揺れる。そのタイミングに合わせるように、レストラン内の壁に映し出された私たちの影もゆらゆらと揺れて動く。カウンター席に座るハル。その隣に立つ私。


「あの日、意味のわからない奴らが突然現れて、あんなことがあって……。気が付いたら太陽が二つある遠い星。俺の家系が天使の血筋だとか、漫画やおとぎ話の小説作家だってびっくりする設定だよな」


 おどけながら話すハルの手は、小刻みに震えている。不安、悲しみ、怒り、そして私が失った感情である恐怖。色々な感情が、彼の中で葛藤しているのだろう。あの時、私の心を救ってくれた彼の力になりたい。私は愛しい彼の背後から、両腕を彼の胸元で組むようにそっと抱き包み、肩越しに彼の横顔を覗きこむ。


 突然のことで、ハルは驚いたようだけど、嫌な顔はしなかった。そして照れ臭そうに横目で私に微笑む。


「そんなおとぎ話の主人公を、私が助けてあげるの」


「もう何度助けられたことか、わからないぜ?」


 私がハルの耳元で囁くと、彼は私に振り向き、優しく微笑みながらそう答えた。目の前で私を見つめる彼の吐息が聞こえてくる。耳を澄ませば彼の鼓動まで聞こえてきそうだ。彼は私に助けられていると言ってくれた。それがわかっただけで嬉しい。そして、これからも支え続けたい。私は視線で彼を求め、そっと目を閉じた。


 私の唇にハルの唇が重なる。彼の胸元で組んだ私の両腕に力が入る。こうしてキスを交わしたのは、あの夜以来だ。長く続く温かい沈黙。その中でカチッと互いの歯が当たる音。彼の温もりが、直接触れ合う肌や唇から伝わってくる。


 その時、何となく視線を感じた私は、軽く片目を開けた。けれど、ハルは目を閉じたままだ。そのまま流し眼で視界の隅を見ると、厨房の脇で私たちを微笑ましげに見つめるミハエルさんの姿があった。私は置かれている状況と、恥ずかしさで一杯になり、ハルの胸元で組んでいた両手を振り解き、思い切りハルから離れて後退した。


「どうした、彩葉? ってうわっ! ミハエルさんっ!」


 何が起きたのか理解していなかったハルも、ミハエルさんに気がつくと語尾に力が入った。


 見られた……。思い切り見られた……。恥ずかしい……。


「イロハ、そんなに驚くことないさ。レンスターでは、半分の娘がイロハの年頃で嫁に行くんだ。こう見えて俺は口が堅い。みんなには黙っておくぜ。もしあれなら、今日は客室に空き部屋があるから、二人で使うか?」


 二人で……。悪戯っぽく笑うミハエルさんの発言を深く考えると、胸がバクバクして張り裂けそうになる。ハルを見ると彼も顔を真っ赤にして硬直していた。


「だ、だ、だ、大丈夫ですっ! こ、これを飲んだら、も、もう俺たち部屋で、休みますのでっ!」


 ハルが慌ててミハエルさんに答えた。これだけ取り乱す彼を見たのは初めてかもしれない。意外な一面が見られてちょっと嬉しい。


「了解。それじゃごゆっくり」


 ミハエルさんは、慌てる私たちを見て笑いながら、食事が載せてあるトレーを転がしてリビングのドアを開けて運んで行った。


 アスリンや西風亭を二十四時間体制で警護するため、リビングには、レンスター城から派遣された衛兵たちが、交替で駐屯していた。トレーの料理は、きっと彼らの夜食だろう。


 黒幕であるマグアート一家が狙っているのは、アスリンかもしれない。けれど、西風亭で働く皆だって、いつ危険な目に遭うかわからない。アスリンが襲われてから、西風亭の誰もが精神的に負担に感じている状況だった。特に小さなフロルは、一人で外出を禁止され、ストレスが溜まっていた。思いやりがあるアスリンの気持ちを考えると胸が痛い。


 明日のロレンスさんの作戦が功を奏すれば、西風亭のみんなも安心していつもの暮らしに戻れると思う。本来なら恐れられて忌み嫌われる、ドラゴニュートの私を受け入れてくれた上に、誕生日まで祝ってくれた西風亭の優しい人たち。私はどうしても彼らに恩返しがしたい。


「あー、焦ったなぁ……。見られちゃったな、俺たち……」


「う、うん……。凄く恥ずかしかったけど、ミハエルさんを信じて私は気にしないことにする」


「俺も気にしないようにしてみる……。できるかどうかわからないけど……。とりあえず、明日も早いし、グッと一気に寝酒を飲んで横になろうか。もし眠れなくても、横になるだけだって違うだろうしさ」


「そ、そうよね。じゃあさ、二人でそっと乾杯しようか?」


「何に乾杯するんだ?」


「もちろん、付き合って一ヵ月記念日よ」


「いいな、それ。……って、まだ三十日経過するには、少し早くないか?」


「まぁ細かいことはいいじゃない」


「それもそうか」


 ハルは私の言葉に笑顔で頷いた。私たちは互いのグラスの先をそっと当て、二人が付き合って約一ヵ月記念のお祝いをした。別に乾杯の理由は何だって良かった。だって、毎日が特別な日だから。


 私とハルは、揃ってグラスのワインを一気に空けた。喉を伝わる熱さに似た感覚。口の中に広がる甘さと酸味。最初は抵抗があったワインも、慣れてくるとクセになる美味しさだ。


「明日、ロレンスさんの作戦が成功するといいね」


「絶対に成功させなくちゃ! の、間違いだろ? やってやろうぜ、俺たちで。ファルランさんたちの仇を討って、アスリンや西風亭のみんなを安心させなくちゃな!」


「うん! 私も同じ気持ち。今回は別行動だけど、無理しないでね」


「わかってる。彩葉もな」


「うん、約束だよ」


 急に頭の中が回転するような脱力感に襲われた。アルコールが回ってきた証拠だ。


「ごめん、ハル。もう……効いてきたみたい。アスリンを起こさないように……、私は部屋に戻るね」


「あぁ、俺も三階まで付き添うよ」


「ありがとう、ハル。言えなくなりそう……だから、今のうちに言っておくね。おやすみ」


「おやすみ、彩葉」


 それから私は、リビングから戻ったミハエルさんに挨拶をして、ハルに支えられながら階段を上った。視点が合わず、頭がクラクラする。一気にアルコールを飲むと、相変わらず即効性があるらしい。


 三階まで支えてくれたハルと、別れ際にもう一度キスを交わしてから、私はアスリンの部屋へ入った。そして、転がり込むようにベッドに横になると、彼と交わしたキスの余韻に浸る間もなく、私の意識は睡魔に吸い込まれていった。

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