第3章 東国の動乱
第59話 空の唸り声
彩葉の誕生日から約半月が経過した。あれから毎日、彩葉は陛下の従士としてレンスター城へ赴き、衛兵の訓練や陛下の護衛に就いていた。夕方になると西風亭に戻り、その日のできごとを俺たちに話してくれる彼女は、とても充実しているように感じられた。
彩葉が従士の仕事をしている間、俺と幸村は休養を命じられたアスリンからシュメル語を教わっていた。シュメル語は、五つの母音と十五の子音から構成されており、文字の構成がローマ字に近い。また、アルファベットより文字数が少なく、文法は主語から始まり述語で終わる形式の日本語に近い感じだ。
アスリンの精霊術で、シュメル語を日本語に置き換えているため、読む際に文字を声に出すと意味がわかるという不思議な感覚だ。幸村は半分投げ出していたけど、コツが掴めた俺は、簡単な文字なら書くこともできるようになった。
今日は帝竜暦六八三年十月二十一日。毎日多忙な彩葉にようやく休暇が与えられた。次の休暇がもらえたら、俺は彩葉とアルスターでデートをする約束をしていた。しかし、まだアスリンの護衛の任が解かれたわけではないので、結局いつもの四人でアルスターへ向かうことになった。
せっかくアルスターへ行くならと、雨期の間に西風亭で使うオーブの購入をナターシャさんから頼まれた。大量の荷物になるからと、ナターシャさんは西風亭前で骨董商を営んでいる、ドワーフ族のサリバンさんが所有する馬車を雇ってくれた。世話になっている西風亭のために、少しでも貢献できることは嬉しかった。当然、俺たちは西風亭の買い出しを引き受けた。
アルスターは、レンスターから、北西へ約三十キロメートルくらいだろうか。俺が思っていたよりも小さな都市国家で、レンスター新市街の西区の半分くらいの規模の城郭都市だった。しかし、オーブ産業が盛んなため、俺たちのようにオーブを買い求める周辺国の訪問者たちで、レンスター以上に賑わっていた。
西風亭で使う大量のオーブを購入した後、ショッピングを満喫した俺たちは、サリバンさんが手綱を引く馬車に乗ってレンスターへ向かう帰路についている。
幌に覆われた馬車の荷台部分は、側面のあおりに沿うように座椅子が向かい合う形で横向きに固定されている。俺の右隣に座るショッピングが大好きな彩葉は、アルスターで買い物ができてご満悦だ。
「アルスターは本当に色々なオーブが売られていて飽きない街だったね。たくさん買い物しちゃった」
「思ったより小さな街だけど、雰囲気は最高だったな。また行こうぜ、彩葉」
「うん!」
二人でデートというわけにいかなかったけど、彼女が満足してくれたようで俺も嬉しい。
「幸村に勧められたシェービング用のオーブだけどさ。これはマジで便利だな」
一度オーブに慣れてしまうともう手放せない。使い捨てとはいえ、本当にオーブはこの世界の生活必需品だった。幸村に教えてもらったシェービング用のオーブは、オーブの中の除毛液を塗るだけで、髭の処理や無駄毛処理が容易にできるため、男女問わず需要が高いのだという。
「だろう? ボクもこの前、アスリンと来た時に買ったけど、また余分に買い足したよ」
向かいの座椅子に座る幸村は得意気に俺に言った。
「もう一ヵ月以上美容室へ行ってないから産毛が気になっていたんだ。こういうのが欲しかったら助かったぜ、幸村。教えてくれてありがとな」
俺は頬をさすりながら幸村に言った。若干サラサラとした産毛の違和感がある。美容室でカットのついでに、スキンケアをしてもらう程度で十分だったけど、アルザルでは日本のような美容室がないのでそういうわけにいかない。
「礼なんて要らないって。これ、レンスターでも売っているらしいけど、アルスターの五倍の値段でもあっという間に売り切れちゃうんだってさ。転売できれば儲けられるのになぁ」
「錬金術のギルドに見つかったら転売は厳罰よ? ギルドには警察権があるの。ユッキー、くれぐれも誰かに売ったりしたらダメよ?」
儲け話を企む幸村に、アスリンが首を刎ねる仕草をしながら制した。
「マジで……?」
「転売で厳罰とか恐ろしいな……」
幸村はアスリンを横目で見ながら絶句し、思わず出た俺の言葉に彩葉も頷いた。さすが中世社会。地球でも中世では公開処刑を祭事のように扱った国も存在したそうだ。元々人間は残虐な種族なのだと思う。
「それにしても、みんなで買い物って何だか久々で楽しかったなぁ。美味しい料理も食べられたし本当に充実した一日だったわ。契約した予定より遅れてしまってごめんなさい、サリバン」
「いいや、アトカが気にすることはない。ハムスィ・レノを紹介したのはワシだからな」
御者台に座るサリバンさんは、正面を見つめたままアスリンに答えた。
「あのハムスィ・レノ、『そばすいとん』にそっくりで懐かしかったなぁ」
「本当によく似ていたよな。醤油味だったら最高だったけど……」
彩葉と幸村がアルスターの郷土料理ハムスィ・レノの味を懐かしんでいる。たしかに二人が言うように、俺たちが住んでいた信州の郷土料理『そばすいとん』に似た素材と味付けの料理だった。蕎麦粉の風味がなかったから、実際にはただの『すいとん』だろう。
最近では『すいとん料理』自体が、東北地方や関東甲信の一部の地域でしか食べられていないらしい。去年の冬に放映された、県民別の芸能人が語り合うバラエティ番組で俺はそのことを知った。
「みんなの国にもハムスィ・レノに似た料理があるのね」
「俺たちの故郷は小麦や蕎麦の産地なんだ。それで小麦粉や蕎麦粉の生地を手で千切って丸めた物を汁で煮こむ、ハムスィ・レノに似た郷土料理があるんだ」
「へぇー、蕎麦もあるんだ? フェルダート地方ではほとんど蕎麦を見ないわね。みんなの故郷がとても楽しみだなぁ」
アスリンは本当に地球へ行くことが楽しみなようだ。
「いつ地球へ帰ることができるかわからないけど、その時は満喫して貰いたいな。ボクたちの故郷にも美味しい物がたくさんあるから是非紹介させてよ」
幸村がアスリンに嬉しそうに答えた。
「うん! 地球のこと楽しみにしてるよ、ユッキー」
アスリンは地球のことを、もうアルザルのおとぎ話に登場する文明の星テルースと呼ばなくなっていた。また、俺たちがシュメル語を勉強するように、彼女も日本語を勉強しているためか、日本語の発音が上手になっている。彩葉や幸村の名前も正確なアクセントで言えるようになった。微妙にアクセントが違うところに可愛らしさを感じていた部分もあったので、ちょっと勿体ない気もするけれど……。
(ほら、ユッキーとアスリン。サリバンさんだっているんだから、あまり大きな声で地球のことを話さない方がいいんじゃないかな?)
馬車の荷台の長椅子に座る俺たちにだけ聞こえるように、彩葉が念話を使って忠告した。異界の存在を認めないというジュダ教の訓えだってある。サリバンさんを信用しないわけじゃないけど、彩葉の言う通り変な噂が広まらないよう、なるべく地球の話をしない配慮が必要だ。
「ごめんなさい、彩葉の言う通りね。ユッキー、お互い気をつけましょ」
「そうだな。ごめん、注意が足らなかった」
珍しく幸村が素直に謝る。アスリンと出会えてコイツも随分変わったような気がする。サリバンさんがいるけど、こうして四人で移動するのは、俺たちがアスリンと出会い、キューベルワーゲン二号に乗ってレンスターへ向かっていた時以来だ。
「どうしたの、ハル? 何か嬉しそうな顔しているけど」
隣に座る彩葉が、思いに
「エロいことを想像している決まってるさ」
俺に対する彩葉の質問に、幸村が間髪入れず、からかうように彩葉に向かってそう言った。
「馬鹿なの、ユッキー?!」
「お前と一緒にするなっ!」
呆れる彩葉の言葉に合わせて俺も幸村に文句を言った。
「ユッキーじゃあるまいし、ハルが……そんなこと……」
彩葉はそう言いかけてチラッと俺の方を見た。そして俺と目が合うと言葉を詰まらせ、顔を赤くして俯いた。
彩葉もそこで言葉を止めないで否定しろよっ! そして顔を赤くして俯くなって!
幸村の隣に座るアスリンは、肩を
「なーんだ、エロいこと考えていたのは彩葉だったか」
俺たちの反応を見て、調子に乗った幸村が彩葉に言った。
「何で……すって……?」
彩葉は肩をわなわなと震わせ、幸村にそう言いながら右手の爪を長さ百二十センチメートルほどの刃に変え、幸村の喉元目掛けて突き出した。
「な……な、何でもありませんっ! すみませんっ! ほ、ほら……彩葉、危ないって……」
少し青ざめた顔で両手を挙げ、幸村は彩葉に必死で謝った。馬車の揺れ方によっては危険を伴いそうだけど、それは自業自得だ。
「まったく……。次に変なこと言ったら、さっきのシェービング用のオーブの中身、頭に塗るから!」
謝る幸村に冷めた視線を浴びせ、彩葉は爪を元の状態に戻した。目が本気だ……。あれを頭に塗られたら、さすがに恐ろしい。
アスリンが追い打ちを掛けるように左手で幸村の膝をパシッと叩いた。
「イテッ!」
「ユッキー、本当だったら今日はハルと彩葉、二人で出掛けるはずだったの。それが私の護衛もあるからって理由で、皆でアルスターへ行くことになったけど……。二人を邪魔するならユッキーはここで降りていいのよ?」
「えぇー? こんなところで、か弱いボクが一人で置いて行かれたら危険っすよ、アスリンさん……」
「だったら二人を茶化さずに静かにしていなさい」
「はい……」
幸村を黙らせるには、いつだってアスリンの効果が絶大だ。俺は幸村を
「明るい声で話をするアトカは本当に久しぶりだ。どうやら良き仲間に巡り合えたようだな」
「えぇ、サリバン。キルシュティ半島の調査は危険な任務だったけど、素敵な出会いができたわ」
「そりゃあ良かった」
サリバンさんは満足そうに頷いた。
「ん?! 何だろう?」
突然、彩葉が尻尾をピンと立てて、サリバンさんの脇から幌の外を眺めるように警戒し始めた。
「どうしたんだ、彩葉?」
急に何かに反応した彩葉を見て、俺の脳裏に不安が過ぎった。ロック鳥の時もそうだったけど、最初に危険に気付いたのは彼女だ。
「何だか唸り声のような音が遠くから聞こえてくるような……」
「はて、ワシには聞こえぬが……」
サリバンさんは隣に立つ彩葉を不思議そうに見つめている。
「彩葉はドラゴニュートだから遠くの音も聞こえるのかも? サリバン。一度馬車を止めてもらっていいかしら?」
「了解だ、アトカ」
アスリンの指示で、サリバンさんは馬車を停めた。幸村も両耳に手を当てて、集中して耳を澄ませている。俺も幸村を真似て目を閉じ耳を澄ませた。
「やっぱり聞こえる。東の空の……雲の先かな」
俺は目を開けて彩葉が言う東の空を見た。レンスターがある東の空は、少し大きめな積雲が連なっている。しばらく空を見つめながら集中して耳を澄ませていたけど、彩葉の言う音は俺には聞こえなかった。
「ボクには聞こえないな……」
「俺もだよ、彩葉」
「すまんな、ワシもだ」
サリバンさんも首を振った。
「そっか、気のせいならいいんだけど……。何て言えばいいかなぁ、唸り声のような低音……、そんな感じ。もうだんだん音が小さくなっている気がする」
「空の向こうから聞こえたなら、もしかしたらヴィマーナとか?」
アスリンにも音が聞こえなかったらしく、彩葉の言う音を推測して言ったようだ。
「ヴィマーナって……。天使の乗り物だっけ?」
「うん、稀にこの地方でも見られるから、もしかしたら……だけどね」
「見てみたいなぁ。こっち来てくれないかな?」
幸村は嬉しそうに目を輝かせている。ヴィマーナというのは、いわゆる天使が乗るUFOのことだ。仮にその音がヴィマーナだったとしても、俺は幸村と違って宇宙人に会いたいと思わない。
「とりあえずレンスターへ戻ろう。もしかしたら、彩葉に聞こえたその音を聞いた人がいるかもしれないしさ」
「うん」
俺の言葉に彩葉が頷いた。アスリンと幸村も彩葉に合わせるように頷いた。
サリバンさんは再び馬車の手綱を取り、レンスターを目指して南東に向かって馬車を走らせた。彩葉に聞こえた不気味な『空の唸り声』は、本当にヴィマーナだったのだろうか? 俺たちがその答えを知るのは、もう少し先になってからだった。
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